第8話 魔王リェダの記憶(3) 老人


 ――次にリェダが意識を取り戻したとき、彼は目を開けるのを忘れていた。

 あまりに長く、孤独感に押しつぶされていたため、すっかり身体の使い方を失念してしまっていたのだ。


 やけに視界が明るいと彼は思った。

 それから、身体がやけに重いと彼は思った。


 背中に不思議な感触がある。漆黒の空間にはなかった質感だ。魔界のゴツゴツした岩場じゃない。魔族の死骸で作った不浄な寝台でもない。地面は地面なのだろうが、もっと柔らかく温かいものだ。


 そこまで思考を巡らせて。

 ようやくリェダは目を開けることを思い出した。


 途端、光の強さに目を細める。

 魔法の輝きとは違う光源が、空に浮かんでいる。あれは――太陽か。

 リェダは仰向けになっていた。片方の手でひさしをして、陽光を遮る。

 見たこともない蒼い空だった。


 漆黒の檻空間で鈍っていた思考が、少しずつ回転し始める。

 かつて、たわむれで読んだことがある。魔界と隣接する別世界。人間たちが暮らす世界のことを。

 地面に投げ出していた方の手を握る。柔らかな土と青々とした草をつかんだ。

 魔界にはなかった感触を確かめてから、ゆっくりと上半身を起こす。


「ここは、人間世界か」

「そうだよ、リェダ」


 聞き覚えのある声がした。それなのに、リェダは振り返らない。身体を硬直させたまま、しばらく座り込んでいた。

 柄にもなく――緊張してしまったのだ。

 久しぶりに名前を呼ばれた。陛下でも、魔王でもなく、ただのリェダと。

 声の主は、リェダの態度の変化に気づいたようだった。


「おかしな男だ。さっきはあれほど自信満々に名乗ったというのに、名を呼ばれただけで緊張してしまうとは」

「……まったくだな」


 ようやく、肩の強ばりが解けるリェダ。ゆっくりと歩いてくる声の主を、楽な姿勢で迎えた。


 ――足音の間隔が少しおかしい。

 顔を上げたリェダは、正面二メートルほど先に立つ老人の姿を見た。

 リェダの感覚で表現すれば、老人は『満身創痍』だった。


 白くなったあごひげや皺の寄った顔は十分に老齢の域。ただ、年齢によるものとは明らかに違う傷が左目に刻まれていた。もう見えてはいないだろう。

 魔族と違って尖っていない小さな耳。老人の左耳はそぎ落とされていた。

 薄汚れた、動きやすそうな布地の服。長袖の先からのぞく左手は、明らかに作り物のそれだった。

 下半身に目を向ける。左足が不自然に細い。義足だ。足音の違和感は、これだったのだ。

 左半身の各部を失っている老人。魔界の常識では、生きている方が不思議な姿だ。戦えなくなった者は淘汰される。


 唐突に、強く、実感した。

 ここは人間世界なのだと。

 魔界ではないのだと。


「意外かね。儂がこの姿でもなお生きていることが」


 リェダの内心を見透かし、老人が言った。そして軽く笑う。


「まあ、魔界の住人ならばそう考えても致し方ないさね。気分はどうだい」

「……不思議な感覚だ」

「正直でよろしい」


 老人はリェダの前に腰を下ろした。目線を合わせ、静かに微笑む。

 リェダは思った。この男、我の赤い目を見てもまったく動じないのだな。


「改めて自己紹介しよう。儂の名はエテルオ。お前さんを狭間の檻から召喚した人間だ」

「……」

「おい。黙ってるんじゃないよ。こういうとき、言うことは決まっているだろう?」


 リェダは眉間に皺を寄せた。こちらは魔族であり、魔王と呼ばれていた存在だ。別世界の、人間の常識などわからない。


 ただ――伝えたいと思ったことはひとつ、あった。


「エテルオに感謝を。お前はあの孤独の檻から我を救ってくれた。礼を言う」

「……」


 今度はエテルオの方が黙り込んでしまった。

 何かまずいことを言ったかと、魔王らしからぬうろたえを見せるリェダ。すると老人は、腹を抱えて大笑いし始めた。


「ははははっ! これは驚いた。魔族が開口一番に礼を言うとは! 変わり者だと思っていたが、まさかこれほどとは。あははははっ」

「……よくわからぬが、とりあえず我は馬鹿にされているのだな?」

「違う違う。褒めているのさ。これ以上ない適任者が現れたと。二十年ぶりに神に感謝したくなった。本当さ」


 たっぷり三分は笑っていただろうか。リェダは老人が落ち着きを取り戻すまで待った。なぜか怒りは湧いてこなかった。人間世界の穏やかな環境のせいかもしれない、とリェダは思った。

 改めて魔王を見つめるエテルオの目は、さきほどよりもさらに優しげだった。


「お前さんの名を。お前さんが何者なのかを。儂に教えてくれ」

「……我が名はリェダ。魔王――と呼ばれていた。かつて」


 本名をすべて名乗ることも、魔王と名乗ることも、なぜかはばかられた。彼は問われるままに、魔界でのこと、狭間の暗闇に捕らわれたことを話した。

 自分のことを誰かに話すのは、それなりに勇気が必要で、なかなかに気分がよいものだとリェダは初めて知った。

 とはいえ、リェダの生涯はもっぱら闘争だ。語れることなど限られている。そう時間をかけず一通り伝え終わると、今度はリェダの方から問いかけた。


「お前は何者だ、エテルオ。なぜ我を喚んだ」

「儂は先生をしている」

「……誰かを鍛えているということか? それで我を喚んだと?」


 老人はまた軽く笑った。立ち上がる。


「孤児院の院長先生――身寄りのない子どもたちの世話をしている。そしてリェダ、お前さんを喚んだのは、孤児院の手伝いをしてもらいたかったからだ」


 元魔王は、口を半開きにしてほうけた。


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