第7話 魔王リェダの記憶(2) 闇檻


 リェダが閉じ込められた空間は、彼にとってまったく未知のものだった。


 光がない。夜の闇とは根本的に違う。すべての色を飲み込む漆黒。

 手のひらを目の前に掲げてみる。すると、自分の身体だけは判別できた。


 無音だ。足場もない。手足を動かしても移動している感じがしない。肌の感覚まで喪失しているのか、暑さも寒さも痛みも感じない。


【無限充填】の力を行使しようとしても、何の変化もなかった。それどころか、魔力を放出することすらできなくなっている。


 生かすでもなく、殺すでもなく。

 心地よいわけでもなく、痛めつけられるわけでもなく。

 夢の中のような曖昧さもなく、現実感を刺激する何かがあるわけでもない。

 まるで生きた標本のように、この未知の漆黒空間に縫い止められている。


 リェダは右手で顔を押さえた。さらに左手も添え、うずくまる。

 腹の底から、ふつふつと湧き上がる感情があった。

 呼吸が荒くなる。

 彼の脳裏に、これまで目にしてきたものが飛来しては去っていく。

 そのどれもが、だった。


 魔界の荒野。毒の湖。淀んだ空。

 荘厳な城。充満する魔力の輝き。

 無数の書物。文字。そこから学び、実践し、取り込んだ魔法の数々。

 敵に向ける自らの手。指。服の裾。剣の刃。


「――――ッ!!」


 リェダは叫んだ。腹の底から絶叫した。声は、数分間に及んだ。

 その絶叫のすべてが、漆黒の空間に吸い込まれていく。リェダはさらに数時間、叫び続けた。悪夢を振り払うように叫び続けた。

 少しでも声を抑えると、認めたくない恐ろしい事実に取り込まれてしまいそうで、リェダはそれからずっと叫び続けた。


 体感で、何日も。

 何か月も。


 そうして徐々に。

 徐々に、徐々に。


 最強の魔王と呼ばれたリェダは、自らが置かれた現実と向き合わざるを得なくなる。


 彼が、恥も外聞もなく叫び続けたのは、だ。

 孤独を実感するやり方は幾通りもあるのだと、彼は思い知る。


 例えば、自らの記憶に『誰か』の顔がないこと。すべてが風景、すべてが事象、すべてが動いて喋るだった。自分が、孤独を癒やせるような相手をまったく見つけ出せない存在だと思い知った。


 例えば、この空間で大声が出せたこと。声を出せば、ここに自分がいることは認識できてしまう。孤独な空間に捕らわれ身動きできないのは現実だと、夢でも幻でもないのだと思い知らされる。


 そして声は決して届かない。

 ひとたび口をつぐめば――襲いかかってくるのは絶対の黒と強烈な孤独感だ。


 一瞬ならまだいい。

 数時間ならまだ耐えられる。

 だがそれが数日、数か月と続くなら、確実に精神は削られていく。


 魔王リェダも例外ではなかった。

 いや――リェダだからこそ、これ以上なく、


 いつからか、彼は声を上げなくなった。時々意味もなく大笑いしてみたが、それも止めてしまった。

 こうして魔王リェダは生きた屍となる。


 彼はこの間、ぼんやりと考えていたことがあった。

 これまで排除してきた魔族たちの、絶命の瞬間である。

 まるで穏やかな川の流れを椅子に座ってただ眺め続けるように、無数の惨殺、滅殺の光景が浮かんでは消えていく。


 あるときリェダは思った。

 もし彼らが。

 彼らが、我に殺されずに生涯を全うしたなら、どんな姿を見せてくれたのだろう。

 生まれて。生きて。死ぬ。そのことに、どんな意味があるのだろう。

 無限に繰り返される、答えの出ない疑問。


 それは正しく拷問であった。

 無限に繰り返される拷問により、リェダの精神は崩壊していく。


 生命に興味を失い、自分が何者だったのかも忘れかけてきたころ――。


 漆黒の空間に異変が起こった。

 リェダの視線の先で、小さな光点が生まれたのだ。


 最初、彼はその変化に気づかなかった。繰り返される精神の拷問に馴染みきって、外界の刺激に反応できなくなっていた。

 だが、光点は消えない。それどころかどんどん大きくなり、どんどんリェダに近づいていく。

 光が視界をほとんど覆うころには、リェダもその存在に気づいた。

 そして恐怖がぶり返した。光は外界の刺激。刺激は、リェダの孤独感を再び盛り上げる。

 拷問が振り出しに戻る――リェダは反射的に顔を背け、逃れようとする。


 そのとき。


『そこにいるのは、誰か』


 声が、聞こえたのだ。

 魔王リェダは信じられない思いで光を見つめ返した。声は確かにその奥から聞こえてきた。


『大きな力を持ちながら、まるで霧のようにつかみどころがない』


 その声は、老齢の男性のものだった。落ち着きがあって、慎重そうであった。

 リェダは、光と声から目と耳が離せなくなっていた。

 しばらく魔王を探るように沈黙していた声は、『いや……』と一言、言いよどんだ。


『この気配は霧というより……霧に捕らわれて泣いている赤子のように思える』


 リェダは目を見開いた。魔族の証たる赤の瞳が、意志の輝きを取り戻していく。


「赤子か。なるほど」


 久しぶりに、リェダは自分の声を聞いた。

 一度開いた口は、勝手に言葉を紡いでいく。


「どこの誰かは知らぬが、我に関わるのは止めよ。我は未来永劫の檻に捕らわれた者。ここで魂のむくろさらし続けるのが似合いの、どうしようもない愚か者だ」


 声に向かってりゅうちょうに語った。

 喋りながらリェダは思った。なんと我は弱いのか――と。

 自虐で他者を遠ざける。しかし、心の底では孤独感に耐えきれず、助けを欲している。

 弱い。なんと弱い存在か。

 だから我は、これまで殺してきた魔族の顔を覚えなかった、覚えようとしなかったのだろう。自らの心とは裏腹に、自ら進んで孤独になろうとしてしまったのだろう。


 度し難い。

 我の心は。

 我の孤独感は。

 なんと度し難いものか。


『お前さんに興味が湧いた』


 声の言葉に、リェダはわずかに眉をひそめた。


『ただ虚無だけの空間かと思っていた場所に、お前さんのような男がいるとは思わなかった。これは運命かもしれない』

「やめろ」

『やめない。なぜならわしは、お前さんと同じ大いなる愚か者だからだ』


 光が強くなる。


『儂の名はエテルオ。儂はお前さんをしたい。お前さんの孤独を、儂にも背負わせろ』


 光の中から、老人の手が現れる。手は、リェダに差し出された。つかめ、と。


『お前さんが自らの本心に従える男なら――この手を取れ。そして、名乗るのだ』


 リェダは再び、目を見開いた。そして笑った。本当に久しぶりに笑った。


 ――もしかしたら、この図々しさを我は求めていたのかもしれないな。

 まったく。として、度し難い。


「我が名は、リェダ。リェダーニル・サナト・レンダニアである」


 力強く名乗って、手を、差し出した。


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