第6話 魔王リェダの記憶(1) 魔界


 ――人間世界のおとぎ話には、魔界についてこう書かれていた。


 魔界の大地は、草木がほとんど生えない荒野で覆われている。

 魔界の水は、たとえ見た目がどんなに透き通っていても毒がある。

 魔界の空気は、肌に触れるだけで生物をおかしくさせる。

 魔界の空は、常に曇天か、常に夜である。

 魔界の住人は、血に飢えた戦闘生物か、低俗な詐欺師の集まりである。


「よくぞまあ、これほど描写してくれたものだ」


 漆黒のローブを強風にたなびかせながら、魔王リェダはつぶやいた。

 彼の手には、血で黒くなった厚手の本。どこぞの魔族が『宝玉』だとうそぶいて取引の材料にした、ただの絵本である。


 リェダの目の前には、おとぎ話の通り、どこまでも続く荒野が広がっている。

 彼が魔王として治めるエリアだった。

 もっとも、当の本人に『統治』する気など毛頭ない。

 することと言えば、ただ目の前の敵を蹴散らしていくだけ。血に飢えた戦闘生物――これもおとぎ話の通りだ。


 風が強い。砂塵の代わりに、悪臭を放つ血煙が地表で渦を巻いていた。


 リェダの足下には、おびただしい数の肉塊が散乱している。

 オーソドックスな人型だったもの。身体の一部が異形化したもの。そもそも人の形を取っていなかったもの――。

 ありとあらゆる種類の魔族のなれの果てだった。

 魔王リェダが放った最上位の風属性魔法で、周囲の敵魔族を根こそぎ切り刻んだのだ。


 リェダは目を閉じ、ほんの一時間ほど前に聞いた台詞を思い出す。


『魔王リェダーニル・サナト・レンダニア。貴殿は強い。だがひとりだ。我らはこの数をもって、貴殿の屍を踏みにじらせてもらおう』

「……つまらん。大言を吐いてこの結果か」


 ――数をもって襲いかかってきたのはおそらく、魔王リェダの能力を知っての対策だったのだろう。


 その能力の名は【無限充填】。


 あらゆる魔法を、いくつでも、いつまでも自身にストックしておける力だ。これにより、リェダは他の魔族にない絶対的な優位性――すなわち、無詠唱での同時魔法発動による圧倒的なせんめつ力を有していた。


 敵は考えたのだろう。いかに強力無比でも、ストックが切れればこちらのもの。犠牲を承知で数でもって押しつぶせば、誰かの手がリェダの喉元に届く――と。


「だから言ったのだ」


 リェダはしゃがみ、無名の魔族の肉片を手に取った。


と」


 肉片を空に向かって投げる。まだ血の滴るそれは、弧を描いて地面に落ちた。

 その仕草はまるで、幼い少年がつまらなそうに小石を川に投げるようだった。


 ただ唯一。

 リェダに効いた言葉がある。


「ひとり――か」


 魔族の言うとおり、リェダはひとりだった。周囲すべてが敵、あるいはいつ敵となってもおかしくない単なる取り巻きだとリェダは考えている。

 孤独であることを意識した途端、リェダの思考は泥の海へ沈んだように重くなる。だから、二万の群れを殲滅するとき、リェダはもう少し手加減しようかとさえ思ったのだ。

 そうすれば、一分でも長くことになるから。たとえそれが、殺気や恐怖に満ちたものでも。


「確かにその通りだな。だから貴様たち、しばらくは賑やかしになってくれ」


 もはや返事をする術がない肉塊たちに言う。

 リェダが所持する無数の魔法ならば、戦場から肉塊一片残らず消滅させることも可能だった。

 だが彼は、そうしなかった。

 るいるいの惨状は、吹きさらしの荒野よりかは寂しくない。


 リェダは無表情だった。もはや、自分が何をしたいのかもよく理解していなかった。

 ただただ、無感動に魔族を滅する日々。

 加えて彼は、強さを維持するために無数の魔法を【無限充填】で取り込み続けたため、心に影響を受けるようになっていた。さながら魔法の海で溺死しかかっているように、生きている実感が希薄になっていたのだ。


 我は生きたいのか。それとも死にたいのか。

 自問しても、確たる答えはつかめない。


 いくら孤独は嫌だと思っても、魔界では『友情』や『信頼』ほど軽い概念はない。あるのは絶対的な支配。だがリェダは、自分に媚びへつらう魔族より眼前の死骸の山の方が安心できた。我ながら狂っていると彼は思った。


「陛下」


 そのとき、部下の魔族が報告にやってきた。


「ネネライダ卿からの伝言です。山脈方面の平定に今しばらく時間が欲しい、と」

「ティアロナが? ふぅん。珍しいこともあるものだな」


 リェダは言った。

 ティアロナ・デサナト・ネネライダ。序列第二位の側近で、特に精神操作などの無属性魔法に優れた資質を持つ魔族だ。リェダの記憶では、ティアロナが魔王の意向通りにことを運ばなかったことはない。


「陛下は、もうしばらくこちらにご滞在を?」


 部下の魔族がたずねた。

 リェダは答えなかった。

 興味が湧かなかったのだ。それよりも無数の肉塊とそれらが放つ腐臭を浴びていたかった。それが今、自分が生きていることを最も強く証明してくれるものだと彼は思っていた。


 魔王リェダは感傷にひたっていた。

 それが――大きな隙になった。


『――ッ!!』


 高速で紡がれる詠唱の文句。部下の魔族だった。

 ほぼ同時に、数人の魔族が肉塊をかき分けて立ち上がる。彼らの手には、形の異なる宝玉が握られていた。


「我々は賭けに勝利したぞ、陛下! いや、リェダーニル!」


 部下が叫ぶ。彼も宝玉を握りしめていた。

 リェダが振り返ったときには、すでに魔法が完成していた。


 魔王の足下で、漆黒の穴が口を開く。リェダの身体はみるみるうちに飲み込まれていった。

 リェダは反射的に【無限充填】の力を解放しようとしたが、魔法は不発に終わる。すでに胸元まで飲み込んだ漆黒の穴が、リェダの魔力すら吸い取っているのだ。


 部下が魔王を見下ろす。その魔族の目は興奮で血走っていた。


「あなたが本気を出していれば。二万の魔族たちをかいじんにしていれば、死骸に隠れるという手は使えなかった。唯一の腹心が不在の今、くだらない自己満足に浸ったあなたの負けだ。かつての魔王よ!」


 もう、視界の半分が漆黒で覆われている。

 魔族の声は最後まではっきりと聞こえた。


「魔界でも人間世界でもない、狭間の暗闇で永遠にさまようがいい!」


 そしてすべてが黒に塗り変わった。

 右も左も、上も下もわからない閉鎖空間で、リェダは心の中で無気力につぶやいた。


 ――ああ。これが『裏切り』と思えたならば、まだいくらか救いはあったのだろうな。

 

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