第5話 夜闇の時間に何を思う


「リェダ様。そろそろお休みください」


 険しい表情を浮かべていた院長に、ティアロナが声をかける。

 頼れる同僚であり、元部下でもある彼女は、少しだけ口元を緩めた。


「平時の偽装魔法は、あなた様のたかぶりに対応しきれません。私に、常時全力を出せとの仰せですか?」

「そうだったな。すまない。お前にはいつも苦労をかける」


 リェダは深呼吸して、気持ちを静めた。赤く染まっていた瞳は、すぐに薄茶色へと変化する。

 魔族であることを隠すため、ティアロナの偽装魔法は欠かせない。リェダも心得はあるものの、彼女ほど巧みには扱えないのだ。そもそも、リェダのは多彩な魔法の使用には向いているが、一つひとつを繊細に操作するのは不得手である。


 人間世界に来て、リェダは感謝の言葉を口にすることが増えた。ティアロナもまた、軽口を叩く機会が多くなった。ふたりとも、自らの変化には自覚的だ。そのきっかけが子どもたちとの触れ合いであることにも、気づいている。


「俺はもう少し作業をしてから寝る。お前は先に休め」

「わかりました」


 うなずいたティアロナは、おもむろに温かいお茶を淹れた。湯気の立つカップをそっと執務机に置いてから、「それでは、失礼します」と頭を下げ、院長室を出て行く。

 お茶は、良い香りがした。今日も心地よく眠りに就けるだろう。


 魔界にいたときは、睡眠などあくまで体力と魔力回復の手段に過ぎなかった。心地よさを追求するなど、考えもしなかっただろう――リェダは小さく苦笑しながら、カップに口を付けた。


 それからしばらくの間、ランプの灯りを頼りに机に向かう。


 今日購入した食料品等の金額を帳簿に付ける。数字を扱う作業は嫌いではない。魔界にはなかった人間社会の仕組みに触れるのは純粋に興味深かったし、何より数字は余計なことを口走らないから良い――とリェダは思っている。


 次いで、机脇に置いた大きめの道具箱からナイフやピンセット等を取り出す。『お守り』作りの手仕事だ。これと、周辺の自然から採った薬草、動物や魚の肉を売ることで孤児院の生計を立てていた。

 特に災獣さいじゅう避けのお守りはよく効くと評判がいい。災獣は突然変異して凶暴化した生物のこと。危険な旅が多い冒険者や遠路を移動する行商人によく売れた。魔王がこっそり力を込めているので、効果が高いのは当然と言えば当然だが。


 後は、孤児院に縁のある者たちからの寄付。エテルオ孤児院を巣立った教え子も浄財提供者に含まれる。


「ん?」


 作業の手を止め、リェダは扉を見た。

 外で気配がする。「誰かいるのか」と声をかけると、「せんせー……」とか細い返事があった。


 持ち運び用のランプを手に扉を開けると、年少の少女がひとり、半泣きの顔で立っていた。お腹の前で手をモジモジと動かしている。

 トイレか、と察したリェダは少女に手を差し出す。


「よくひとりでここまで来た。頑張ったな」

「……がまんしすぎたら、おねえちゃんたちにめいわくがかかると思って」

「そうか」


 手を繋ぎ、トイレまで一緒に行く。

 やがて、すっきりした顔で出てきた少女を二階の寝室まで連れていく。子どもたちは基本、一緒の部屋で眠る。

 怖さでしがみつく少女。リェダは優しくさとした。


「大丈夫だ。ここの夜闇は、皆の味方だ」

「夜が……味方?」

「そうだ。さ、寝坊しないように早く休め」

「せんせー、ありがとう」


 部屋の中へ入るよう促す。他の子どもたちは安らかな寝息を立てている。

 リェダは目を細め、寝室から離れた。


「ありがとう、か。魔界にいた頃はまず耳にしなかった言葉だな」


 院長室に戻ると、リェダは椅子に座り、耳を澄ませた。夜独特の小さなざわめきを堪能する。


 夜闇が味方だとリェダは言った。だが彼自身、数年前まではまったく逆の考えを持っていた。

 夜闇は孤独の象徴。

 孤独は、魔王の心すら壊すほどに、恐ろしい。

 孤独感から救ってくれたのは、間違いなく子どもたちだった。

 頼られる。感謝される。一緒に笑う。

 リェダは、その繰り返しの日常によって救われたのだ。

 だから今、孤児院にいる。


 もし――とリェダは思う。


 もし、子どもたちに自分が魔族であることが、かつて魔王であったことが知られてしまったら、どうなってしまうだろうか。

 さっきのように、子どもたちは感謝してくれるだろうか。笑顔を向けてくれるだろうか。

 また再び、あの耐えがたい孤独を味わうのではないか。


 リェダは執務机の引き出しから、小ぶりの鍵を取り出す。そして鍵付きの戸棚を開け、中にある小箱を手に取った。

 小箱には、親指の先ほどの大きさをした群青色の結晶が収められていた。


『宝玉』である。


 ランプひとつだけの薄暗い室内で、宝玉はどこかくすんで見えた。

 小箱の蓋を閉じ、リェダはそれを額に当てた。


「……エテルオ先生」


 つぶやく。

 リェダが唯一、『先生』と呼ぶ者は、もうこの世にいない。


「あなたがくれたこの時間。俺は最後までまっとうしてみせる」


 絞り出すように、声を出す。

 脳裏に蘇ってくる姿。声。誓い。


 ――リェダは、かつて自分が『魔王』と呼ばれていたときのことを思い出していた。


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