第30話『金属音』
それは、とある日の雑談配信のこと。
すでに、彼女の配信はもう終盤に差し掛かっていた。
時間的にも、既に二時間が経過しているし、雑談の内容も既に佳境に差し掛かっていた。
彼女の配信は、もともとネタを探して配信画面にそれを列挙しておき、コメントを拾い話を膨らませながら、ストックしたネタを順番に消化していくというもの。
「あ、今日は違いますけど明日はちょっと特殊なASMRをやってみる予定だよ。良かったら今夜も明日も観に来てね」
【了解です】
【楽しみ!】
【何をやるんだろう】
【今日も明日も観に行くね】
『そういえば、明日試すのって何のことです?』
私と文乃さんは、ASMRのリハーサルを度々行っている。
それは、機材が正常に作動しているかどうかの確認であったり、あるいは今までにないASMRのメニューなどを試したいとき。
それこそ、毎日の配信とは別に、リハーサルをしない日はほとんどない。
リハーサルのたびに、ないはずの脳みそが囁き声のせいで爆発してしまいそうになるので、本当に勘弁していただきたい。
因みに、本番でも当然脳みそが破壊されるので、ただ死あるのみである。
リハーサルで、全部をやるわけではないので、何をやるのかわからない状態から奇襲をかけられるのも私の昇天に拍車をかけている。
さて、今までにやったことがないASMRをやるときは、実際に試している。
咀嚼ASMRなどもそうである。
本番の二時間よりははるかに短いし、あくまでも全部やるわけではないが。
一応いくつかアイデアは聞いていたしまだやっていないASMRはリハーサルをしてもらったことだったが、そのどれなのかはわからない。
「金属音ASMRをやろうと思っているんだよね」
『ああ、以前おっしゃってましたね』
金属音というのは、金属と金属がぶつかり合うことで生じる音のことだ。
トライアングルなどは、それを美しい音色として楽しむ楽器である。
それゆえに、金属音で人を癒すためのASMRも存在する。
以前、文乃さんが見せてくれたので、U-TUBE上にはそういう金属音ASMRがあることを知っている。
様々な金属と金属がぶつかり合う音を聞かせるというコンテンツである。
今までも、彼女はいくつかのASMRを私に聞かせてくれていた。
まあ、あまり長時間聞いていると彼女が怒ってしまうので、そこまで長く聞いていたわけではないのだが。
『何を使うんですか?』
具体的に何を使うかまでは聞いていないんだよね。
いやまあ、生前はASMRを聴いていても、具体的にそれが何による音なのかは知ろうともしなかった。
興味もなかったからね。
だが、こうしてマイクになってからは、知ろうとせずとも見せられる。
そのうち、私も気にするようになってしまったというわけだ。
「色々だよ。それこそ、楽器とかも使う予定だしね」
『リハーサルはいつやるんです?今からですか?』
今まで金属ASMRなどやったことはない。
「いや、今回はリハーサルはしない」
『はい?』
Vtuberは多様性を持ったコンテンツであり、一人一人違うからこそ、面白い。
一人一人が、得手不得手を持っている。
永眠しろさんの長所はASMRの技術。
デビューしてわずか三か月足らず。
おそらくあったであろう半年の準備期間を足しても、一年に満たない。
その期間だけで、ここまでの技量を獲得することができる器用さ、天稟の才。
そして、顔が真っ青になるほど緊張しながら、それでも本番ではきっちり成功させるその度胸。
だが、彼女には欠点があった。
永眠しろさんは、アドリブ力が全くと言っていい程ない。
雑談配信は、話す内容をほとんど決めており、台本もきちんと組んでいる。
ASMRも、ある程度台本を作り、大まかな流れをリハーサルしたうえで、配信を行っている。
また、機材についても事前に何度も確認をしたうえで、度々メイドさんに確認させている。
しろさんは、そこまで徹底して準備を行っている、行わなくてはいけない配信者なのだ。
ASMR中、私に対するサプライズこそあるが、それはあくまで彼女の想定内だ。
彼女にとっての想定外が起きたことは、幸運にも配信中には一度もない。
果たして、リハーサルをしなくて大丈夫なのだろうか。
「大丈夫だよ。そもそも、やること自体はいつものASMRとそこまで変わらないからさ」
『……わかりました』
大いに不安になりながら、私は首を縦に振らざるを得なかった。
今日のASMR配信も終わり、文乃さんはベッドに入っていた。
「起きてる?」
『ええ、起きてますよ』
……なんだか、恋人がいたらこんな感じなのかと思ったが、そこは触れないでおこう。
気まずくなりそうだし。
というか、文乃さんは絶対に顔がトマトになる。
ただの勘だけど。
それより、訊いておきたいことがあったし、今のうちに尋ねてみる。
『どうして、金属音ASMRをやろうと思ったんですか?』
決断の理由を聞いておきたかった。
無論、リクエストがあったからというのは承知している。
けれど、やると言っておきながら準備が雑な気がする。
「理由か。挑戦したかったから、かな」
『挑戦、ですか』
「私は、色々なことに挑戦したいと本気で思っている。だから、こうして今までやってこなかったことをやりたいんだ」
『……なるほど』
それでも、納得がいかない話ではあった。
私の内心を察したのかどうかはわからないが。
「……明日、リハーサルをやるよ。だから、大丈夫」
『そうですか。それなら安心です』
「ううん、不安にさせてごめんね。おやすみなさい」
『ええ、おやすみなさい』
◇
そして、翌朝。
当日。
昼に、昼食をとりながらの雑談配信を終えた後、夕方にリハーサルを一通り行った。
その後、彼女は配信の直前まで、仮眠をとっていた。
「おはよう」
『おはようございます、文乃さん』
もう夜の九時なのだけれどね。
「ああうん、大丈夫だよ」
ずっとうなされてたけどね。
本当に、一体どんな夢を見ていれば毎晩そうなるのか。
彼女が、顔についた涙をぬぐうのを見ながら考えていたが、まあわかるはずがないか。
告知、サムネイル制作などももう終わっている。
あとは、配信をするだけだ。
「ふう……」
『どうかしたんですか?』
「いや、なんでもないんだよ」
『そうですか』
まあ寝起きだし、体調は良くないんだろうな。
もうしばらくして覚醒すれば、調子も元に戻るだろう。
元々眠りが浅いので、睡眠時間が足りているのかという懸念もあるのだが。
「じゃあ、行こうか」
『はい』
文乃さんは、ヘッドホンをつけて、しろさんに切り替わる。
「じゃあ、さっそくやっていこうか」
私の隣には、多数の金属が置いてある。
以前配信で使った金属製の耳かきであったり、フォークであったりと以前のASMRで使用した道具もいくつかはある。
逆に言えば、今までに一度も見たことがないものも多いのだが。
何なら、本当に何が何だかわからないものもある。
「じゃあまずは、金属の耳かきとコップを使っていくね」
彼女が手にしたのは、金属の耳かきとコップ。
カツカツと、澄んだ音が響く。
金属と金属がぶつかり合う、もっともさわやかな音。
リハーサルでもやったが、この時点で素晴らしい。
傍で金属音を出しているので、耳の中で軽やかな音がよく響いている。
【耳かきと金属製のコップとかいう、わけわからんのに、何故かいいコンビになってるやつ】
【気持ちいい】
【あ―】
視聴者の方々にも好評みたいだ。
実際、いいものではあるからね。
それは間違いない。
「じゃあ、お次はこれですね」
彼女が、取り出したのは鍵穴と鍵だった。
ごく普通の、それこそアパートに使われていそうな何の変哲もないもの。
鍵を鍵穴に入れると、ガチャガチャという少し激しい音が聞こえた。
けれど、決して不快ではなく、どこか涼やかな感じがする。
「さてさて、カギと鍵穴のお次は、手錠です」
さらに、彼女が鍵を置いて、今度は手錠を手に取る。
銀色の手錠は、思ってより大きい。
まあでも、筋骨隆々な男性にもはめることができなくてはならない。
つまるところ、彼女が持つと、不釣り合いに大きく見えてしまうということである。
手錠を彼女がカチカチと触ると、じいいいいいいいいいいい、とファスナーを閉めるような音が響く。
かちり、という音がした。
手錠が完全に閉じる音だ。
何度か、これを繰り返す。
まあ実際は、腕がないので空を切っているだけなのだが、あくまでも
彼女が、耳元まで顔を近づけてくる。
しろさんの呼吸音を、私の耳が、マイクが感知する。
金属音によるそれとは、はっきりと異なる別の概念である。
手錠を手元の辺りに置いたまま、しろさんは。
「うーん、君達のこと、逮捕しちゃおうかなあ!」
『んふっ』
まずい、また変な声が出ちゃった。
もう日常と化しているはずなのに、未だにぞわぞわするし、汗腺もないはずなのに、汗をかいたような気持ちになる。
そのくせ、全くもって嫌ではないのだから、私は自分で自分のことがわからない。
【逮捕してくださいお願いします】
【終身刑がいいなあ】
【しろちゃんが手錠を持っているということは、しろちゃんはSM的なあれがお好きということ?】
【やめないか!】
「いや違うよ、今日のためにわざわざ買った奴だから。まあでも、喜んでくれたのなら、また使おうかな」
「次に、トライアングルを出していこうね」
トライアングル。
小学校の時、音楽の授業で使った記憶がある。
音楽の授業、結構色々な楽器を使わされた記憶がある。
リコーダーに始まり、トライアングル、鈴、カスタネット、木琴、太鼓、あとは鉄琴なんてのもあったかな。
棒で、三角に折れ曲がった棒をたたいて、音を鳴らす。
リン、リンと風鈴のようなさわやかな音が聞こえる。
【トライアングルとか懐かしい】
【小学校卒業してから一度も見てない】
【絵本でなんか出てきたの覚えてるな】
「お次は、鉄琴を使っていくね。ちょっと待っててね?」
【鉄筋?】
【鉄琴かあ】
【木琴は見たことあるけど、鉄琴ってあるんだ。知らなかった】
木琴という楽器がある。
ピアノのような、木製の鍵盤が存在し、それを棒で叩くことによって、音が出るという楽器である。
鉄琴も、原理的には同じ。
ただ、鍵盤の部分が木製ではなく鉄製なので、木琴よりも金属めいた、さわやかで乾いた音がする。
普通に、音楽の授業における鉄琴は、楽器のキーボードほどのサイズがあり、持ち運びなどできない。
しかし、一方で例外もまた存在している。
彼女が持っているのは、小さな、それこそ子供が扱うような鉄琴。
サイズとしては、ノートパソコン程度のサイズしかない。
それならば、彼女の力でも問題なく動かせる。
私のちょうど真後ろに、そっと音をたてないように鉄琴を置いた。
そして、先端部分が球体を形作っているばちで鉄琴を鳴らしていく。
うるさすぎず、しかしてスッキリした鈴の音のような音を鳴らしている。
音の高さが徐々に変わっているので、一音階ずつ音程を上げているのだろう、とわかる。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド、と音を奏でている気がした。
まあ、私は絶対音感もなければ、相対音感も存在しないので、ただの勘でしかないのだが。
【癒されるなあ】
【金属音って、あんまりいいイメージなかったけど、楽器になってるくらいだしいい音なんだなあ】
【これはヘビロテ不可避】
少し不安はあったが、配信自体は順調だ。
そう思ったときに、しろさんが。
ふう、とため息を吐いた。
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