第10話『今日は始まりの日だから』

 一夜明けて、今日は文乃さん――永眠しろさんのデビュー日である。

 さて、先日マイクの中にがいるというアクシデントを彼女なりに克服して、なおかつリハーサルを無事成功させることができたしろさん。

 そんな彼女は、配信を前にして何を思うのか。



「……緊張してきた」

『……大丈夫、ではないですよねえ』



 私は、医学の専門家ではなければ、カウンセラーでもない。

 だが、それでもはっきりわかる。

 彼女はあからさまに緊張している。

 露骨なほどに顔色が悪いし、目が据わっていない。

 街中に居たら通報されるレベルで挙動がおかしくなっている。

 割と勘が鋭く、人の感情の起伏には敏感な自覚があるが、別に私でなくても気づけるだろう。

 ふらふらと、彼女は座っていたゲーミングチェアから立ち上がる。

 


「トイレ行って来るね」

『あ、行ってらっしゃいませ』


 

 時刻は現在午後八時。

 すでに彼女は夕食も、入浴も七時までに済ませてある。

 そしてこの一時間程度の間に、彼女はもうすでに四回もトイレに行っている。

 いや、違うね。今ので五回目だね。



 私も、緊張でトイレに駆け込むことは度々あったので気持ちはわからないでもない。

 とりあえず、世の上司は部下に当日の〇時を過ぎてから当日の案件を割り振らないで欲しい。

 ……まあ、それが私のところだけなのか他の会社でもあることなのかはわからないけどね。

 あと、緊張によってトイレに行きたくなっていたのか睡眠不足から派生したカフェインの取り過ぎが原因だったのかはわからない。

 ある程度慣れっこになっても収まらなかったので、たぶん後者な気がしてきた。



 いやでも、まあカフェインを抜きにしても緊張というのは伝わっている。

 というか、私も正直若干緊張してきた。

 まあ、緊張したところで何が変わるというわけでもないし、何かできることがあるわけでもない。

 


「戻ったよ」

『はい、お帰りなさい』



 トイレから、文乃さんが戻ってくる。

 相変わらず、顔色はよくない。

 昨日はうんうんうなされていたし、あまり眠れていないのかもしれない。

 因みに、なぜそれ知っているかと言えば、この部屋が配信部屋兼彼女の寝室だからである。

 いやむしろ逆か。

 彼女の寝室に、配信用の機材などを設置したのか。



 ともかく、ここまで緊張しているとなると、「緊張しているなんて不甲斐ない」などと彼女は考えてしまっているかもしれない。

 時折、ぶんぶんと首を振っているから、そういうことを考えている気がする。

 けれど、実のところを言えばそれは違うと断言できる。

 緊張していること自体はさほど問題ではないし、彼女がおかしいわけでもない。



 なぜなら、それ自体は当然のことだから。

 彼女は、今日初めてVtuberとしての活動をする身であるらしい。

 言ってしまえば新入社員のようなもの。

 私だって、入社初日は朝起きた時からすでに緊張していたし、電車に乗るときも、駅から降りて職場まで歩くときも緊張していた。

 会社についてからも緊張していた。帰りの電車では、さすがに緊張も解けてたけどね。

 誰だって、そうだと思う。

 私もそうだったし、会社の部下もそうだったと聞いているし、上司もそうだったと言っていたような気がする。



 新しいことを始めるとなれば、緊張して当然なのだ。

 それに社会的責任が付随することであればなおのことだ。

 彼女は今緊張をどうにかしようとしているが、それは無理な話。

 緊張するのが自然なことなのだから、それを解決しようというのは無茶なのである。

 だから、私に出来ることはひとつだけ。

 緊張をほぐすなんて優しいことは出来ないけど、それでも。

 せめて、誠意をもって、言葉を贈ろう。



『初配信、楽しみですね。文乃さん』

「……楽しみ?」

『ええ、そうですよ。デビュー配信は楽しみです』

「…………」



 一人のリスナーとして、心からの言葉コメントを送るだけ。

 さほど熱心にVtuberの配信を観ていたわけでもないが、それでもデビューするVtuberの配信を観ることも時にはあった。

 適当に作業BGMを求めて検索していたせいか、普段見ていないVtuberに出会うということも多かった。

 逆に、特定の推しを持つこともなかったわけだが、特定のVtuberに執着しなかったからこそ、忙しい中で様々な配信を観ることができた。

 そんな私の、視聴者としての経験によれば彼ら彼女らはかなり緊張していた。

 初配信というのは、そういうもので、えてして黒歴史になったりもする。

 


『Vtuberの活動を続けていけば、どんどんファンは増えていくと思います』

「まあ、そうだよね」

『そして、デビューした日は、その日の配信がどうであれ、最高の日になるんです』

「どうして、そう言い切れるの?」



 不安に押しつぶされそうな彼女は、私に問う。

 私は、素直に答える。



『貴方が、生まれた日だからですよ』

「…………!」



 Vtuberは誕生日とデビュー日が必ずしも同じではない。

 むしろ、記念日を複数作っておいた方がマーケティング上は有効とされる。

 記念日となれば、祝いに来てくれる人が現れる一大イベントであり、当然ながらイベントは多ければ多いほど盛り上がるのが常だ。

 だから、基本的には意図的に分けていたりする。

 閑話休題。

 生まれた日、というと語弊があるし実際はデビュー日といったほうが適切だが、つまりはそれだけめでたい日ということだ。



『ファンにとっては、ずっと今日は貴方というVtuberがこの世界に降り立ってくれた日なんです。どういう配信をしようと、ファンにとっては今日はずっと最高の日であり続けるんです』



 生まれ方はどうだっていい。

 つまずいても、初手ミュートでも、なんなら初手号泣したってかまわない。

 大事なのは、始めること。

 そして、その選択が間違ってなかったと言えるように進み続けることだけだ。

 私は、進む道半ばで終わってしまったけれど。

 先に社会に踏み出したものとして、精いっぱいのエールを。



『だから、楽しみましょうよ。疑いようのない、最高の今日という日を』



 ぽかん、としたような顔をして文乃さんは一瞬固まっていた。

 呆れているようにも、困っているようにも、あるいはそのどちらにも見えた。

 多分どっちもかな?

 勘だけど。



「そっかあ、そうだよねえ。たのしまないとねえ」

『無理に楽しもうとしないでいいと思いますけどね。ただ、気負い過ぎなくていいと思います。あんまり完成度が高すぎると、振り返り配信において、黒歴史を観て悶絶するという構図が作れませんからね』

「今それ気にしなくてもいいんじゃないかな!あと黒歴史になることがいいことでもないからね!」



 いや、そうでもないと思う。

 そういう悲鳴を聞くことで、進むご飯があるのだ。

 などと、ブラック企業に勤めていた時代は飯食う時間すらまともに取れなかった男が申しております。

 書類やデータとにらめっこしながら、ゼリーすすってたんだけど、これって私のいる職場だけですかね?

 


 初配信は、今日の午後九時。

 割と人が集まる時間帯だ。

 聞けば、デビュー前でありながらU-TUBEのチャンネル登録者数やSNSのフォロワーはそれなりにいるらしい。

 だから、普通に話せれば成功するはずだ。

 それこそ、以前見せていたオタクトークが配信で見せることができれば、きっとファンは出てくるはずだから。

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