四.小森琢斗 side
小森琢斗は満足していた。
彼は葉澄町の中央に位置する図書館に昼過ぎから居座っていた。図書館通いは幼少の頃からの日課である。はじめは共働きの両親のせいで不幸にもほぼ親代わりとなっていた七つ違いの姉に連れられ結果的に第二の我が家としていたに過ぎなかったが、己の意思で通い始めるまでにそう時間はかからなかった。知識欲が命じるまま大小様々な書籍を手に取り、己の腕力と相談しながら本を選定していると、充実感で身体が潤う。自由時間が普段より格段に増えるので夏休みは天国である。琢斗の夏休みは毎年こんなもので高校生になろうと変化はない。部活に所属せず海や山に行く友達もいないが己の夏に満足していた。
琢斗にとって、莫大な量の本と相対することは未知の存在を知らしめられると同義であった。その事実は難問と向き合った時のような高揚を感じさせるが、同時に強い焦燥感も覚えた。小森琢斗の知識欲は海がごとく深淵である。本という存在はこの世の事象が減りはせず増える一方だという事実の具現化であった。
この世界は複雑怪奇で膨大すぎる。悟ったように嘘ぶきながら、その底知れなさにしかるべき努力もせず屈する予定は、今のところない。
彼女にこのまま負けている気も。
知識を吸収し続けるのは、来るべき日の準備運動という意味も含んでいた。
この日も琢斗は思う存分クーラーの涼を欲しいままにし、愛用のトートバッグに本を詰め込み終わると、蛍の光をバックミュージックにほくほくと図書館を後にした。
今日の夕暮れは世界の終わりかと見まごうほどの見事な赤だった。夕日が赤いのは確か他の色が目に届く前に拡散してしまうからだったよなぁ、ただの生き残りに勝手に郷愁を見出すのはいかがなものか、しかし無意味から有意味を見出せるのも人間くらいだ、無から有を生み出すのは科学上不可能と言われているけれど形而上の世界であれば人類は不可能を可能にし続けて文化を形成してきたと言えるよな、などなどいつも通りにどうでもいいことを真面目につらつら考えながら、非力な琢斗には意外と深刻に重いトートバックを両手で抱えて、琢斗は葉澄の特徴のない住宅街を歩き続けた。その一角、景色に埋没する我が家の玄関をくぐると、まだ誰も帰っていないことを確認する。両親共々忙しい職業についているし、七つ歳上の姉は県外の大学に行っていて滅多に戻ってこないので自宅が真っ暗なのは日常茶飯である。そういえば今日の夜ご飯はどうしようか、今日は母さん帰ってこないし買って来たほうがよかったかな、とかぼんやり考えながら階段を上って自室に向かうと電気をつけた。
ベッドで黒猫な少女が眠っていた。
「…………。」
表情筋が凍った。
そして思わず電気を消して付け直すという人生の中でも類を見ない無意味な行為に出てしまった。ちなみに光の明滅にくらくらとするだけで状況は変わらなかった。「んう」とかやたら可愛らしい声が聞こえた。
同級生の女の子が自分のベッドで丸まって睡眠を遂行している。黒のワンピースが無防備に広がって、膝上の肌の白まで蛍光灯の下に晒されていた。琢斗愛用のタオルケットは抵抗の痕跡もなく初めましての少女に大人しく抱き込まれている。少女はそのタオルケットに顔を埋めていた。
さて、葉澄の情報網を押さえる水嶋真琳からも敵に回したくないと公言され、天才にして変人と名高い小森琢斗はあまりの出来事にあらゆる能動的な行為と思考を停止させてしまった。とりあえず鞄が重かったので勉強机に置いた。辺りを見回してみると小さなサンダルがちょこんと窓辺に置かれている。不法侵入の物的証拠だった。ここは一応二階のはずだけどな、どうやって入ったんだこいつさては猫じゃなくて猿だったのかと思いながらとりあえず証拠写真を撮っておいた。
中畠遥多の運動神経は見た目によらず良い方だということは知っている。というか良い。天衣無縫に最強クラスだった。この間体育の授業でクラス対抗のドッジボールがあったらしいが、帰宅部のくせに運動部勢を押しのける目立った活躍だったとか。最近はクラスの陸上少女に毎日のように部活に勧誘されて困っているとよく愚痴っていた。だからといって一戸建てに二階から侵入はやり過ぎじゃないだろうか。あらゆる常識を破壊する南樹苑家じゃあるまいし。
家の場所を知られていることも驚いたが……それはどうとでもなる。小森家の場所など知っている人が多すぎる。考えても仕方がない。
問題は、この計算高い黒猫が何の用で葉澄まで来たのかということだ。
遥多は隣の白濱市で一人暮らしをしている。最寄り駅から乗り換えなしで来れるとはいえ決して無意味に来るほど近くはない。
その時だった。
「んう……こも…」
「…………」
寝言で名前を呼ばれた気がした。よくわからない感情を刺激されてよくわからなくなったので、とりあえず遥多本人の写真も撮っておいた。ぱしゃり。
ほら、部屋を物色されて弱みを握られていたらあれだし。これが罠で誘拐事件だと騒がれる可能性も零ではないし。小森琢斗の名において、あらゆる事態を想定して先手を打っておかないと。
寝顔かわいいなとか思っていない、決して。
「いや、起こそう。何か間違いが起こる前に。話はそれからだ」
間違いとは何なのか正直わからなかったが、琢斗は声に出して次の行動を決めた。目の前でのんきに眠りこける少女の意識を取り戻そう。どうやって?
犯罪と訴えられる可能性があるので出来れば触りたくない。迷った挙げ句手近なシャーペンのノック部分をまるい頬に突き刺した。ぷに。
「おい起きなよ不法侵入の野良猫さん。そして僕に納得できる事情を話したまえ。いやどんな事情であろうと納得はできそうもないけれど、犯罪をおかしたからには二次元だろうと三次元だろうと相応の説明義務がある、君もよく知っているだろう?」
ぷにぷにぷに。なかなか起きないので連続して頬を刺激することになった。嫌そうに顔をしかめられシャーペンを振り払おうとする仕草は見せるが意識を取り戻す気配がない。昼寝にしては寝汚すぎる。
「今が何時だか知ってるか、六時過ぎだぜ、夕方と夜の境界線だ。夏日だから明るいとはいえ良い子は立派に帰る時間だ。言っておくが泊める気はないからな、まだ梅雨の記憶の新しい城咲先生にとてもじゃないが顔向けできない」
「……ひろに」
彼女の唇が動いたので、手の動きを止める。
「弘に、バレなかったらとめてくれるの?」
ふっと息が止まった。琢斗は緊張感を持って同級生の少女を見下ろした。
「……駄目だよ」
「なんで?」
「なんでも。わざわざ理由を説明する必要が?」
遥多は苦笑したようだった。なんだか心のざわざわとする、諦観の交じった笑い方だった。そして、寝起きのぼやけた眼差しで、琢斗の顔をじっと見上げてきた。スカートの乱れを取り繕うこともせず、無防備な寝姿のまま何も言わない。彼女の心が読めない。落ち着かない気持ちになって、琢斗は目を逸らした。
「とにかく起き上がりなよ。そこは僕のベッドだ」
「知ってるよ」
「なぜ?」
「ソース真琳ちゃん。部屋の場所まで聞いておいてよかったよ」
「真琳から情報を買ったのか? それなら相応の対価が必要だったはずだ、そうまでして何を目的としてここに来た?」
「対価なんて払ってないよ。真琳ちゃん優しいから特別だって言って教えてくれたよ。せめてお茶代はと思ったけどそれも」
「お茶? 真琳の話だよね? そんな訳、そもそも何故」
「寂しかった」
息が詰まった。図書館で触れてきた理屈の伴うどんな言葉よりそれは強い威力を秘めていた。訳もわからず鼓動が早くなり、気づいたら縋るようにシャーペンを握りしめていた。
思わず遥多に視線を戻すと、濡れたような黒い瞳とぶつかって、心臓の音が余計大きく感じた。
落ち着け、何を動揺することがある。寂しいと言われただけだ。脈絡もなく。それだけだ。自身を叱咤して口を開くも奪われたように声が出ない。
「……こもり?」
まだ眠いのか、舌足らずに名前を呼ばれる。一心に眼差しを注ぎながら、細い腕を持ち上げて、ふらふらと所在無さげにこちらに伸ばす。
何かを求めるように。心の在処を探すように。小さな指先が琢斗の胸元へ向かって。
――琢斗は、思わず後退した。
何かを奪われそうで怖かった。目の前の少女が何を考えているのかわからなかった。自身の鳴り止まない心臓も彼の理解を超えていた。未知の事象は普段なら高揚感さえ感じさせるはずなのに、今はなぜか恐怖に他ならなかった。
「……あぁ、そっか」
腕がぱたりと、糸が切れたようにベッドへ沈んでいく。
そして少女はそっと微笑んだ。
何か大切なものを水平線の向こうへ見送ったような、切なそうな微笑みだった。
「知らなかった。会えたら寂しくなくなる訳じゃないんだね」
※
嫌だと思った。何を引き換えにしても替えられない耐え難さだった。彼女があんな風に微笑むのはとても見ていられなかった。いつも傍観者ぶった日和見主義の小森琢斗が、これほど強い意思を持ったのは初めてかもしれなかった。
脳裏に焼き付く忘れられないトラウマがある。新緑と青空の鮮やかな窓辺。中畠遥多は、微笑みを綺麗に唇に乗せて、羽根のように軽やかに二階の窓から落ちていった。
不可解なほど潔く諦めが良い彼女は、何かを手放すときよく笑う。自嘲じみた、寂しそうな笑みを唇に載せる。
自身のエゴなのはわかっていた。これで本当に良いのか何度も自分に問うた。明日の自分なら違う答えをすることも、いつか、この日を後悔することもわかっていた。でもどうしようもなかった。力つきたように再び寝入ってしまった彼女を無理やり起こして、無下に追い出すことはどうしても出来なかった。
だから、カレーを作った。
家庭の成績の芳しくない彼には、夕食となりそうな作れるものが他になかった。不必要に眉間に皺を寄せながらピーラーでじゃがいもと人参をむいて、修行僧の気持ちで涙目になりながらタマネギを切った。カレールーの箱の説明に教示を賜り野菜をいためて水を注いで、ぐつぐつ十分ほど。途中でご飯の炊き忘れに気づいて慌てて早炊きモードを押した。小森琢斗十六歳の精一杯だった。
「おはよう」
ふわふわの癖毛が扉から覗いていたので声をかけると、ひょこりと多が半身現れた。目が合うと、どういう表情を作ればいいのかわからなかったのかなぜか睨まれた。人慣れしていない野生動物を目の前にした時の気分になった。
「随分と長いお昼寝だったね。その様子だと夕食はまだだろう」
「……昼ご飯も食べてない」
「そうか、沢山あるから好きなだけ食べるといい。恥ずかしながら慣れないことをして加減が全くわからなかったからね、大は小を兼ねるの格言に従ってみたんだ。さぁ、客人は大人しく座りたまえ」
ぱちぱちと何回か目が瞬いて、それから、琢斗の手元にあるぼろぼろの野菜屑と、吹きこぼれた手鍋と、二枚重なった皿を順番になぞった。小さく口を半開きにして、信じられないと言うようにまじまじ琢斗を見つめる。辛抱強く待っていると、遥多はようやく全身を蛍光灯のもとに晒した。
迷子の子どもような眼差しを、無言のまま受け止める。
彼女が頼りなげに歩を進めると、黒いワンピースの裾がそよそよと舞った。
その服がよく似合っていると言えば、この子はどんな顔をするだろうか。
その顔を見てみたい気もしたけれど、とても口にすることはできないので、黙って適当に二人分の盛りつけをして、麦茶を注いで机に持っていった。
「いただきます」
手を合わせると、惚けたような顔をしていた遥多も慌てたように習った。懐かしい給食の時のようにぎこちなく挨拶をしてから、スプーンで崩れたじゃがいもをすくった。
「うん、水気が強いな」
「小森にしては上出来だよ」
「まるで僕の料理スキルを知ってるかの物言い」
「知らないけどさ、だって小森、かっこつけてるけど勉強以外からきしじゃん」
軽口を叩くと、遥多はそこで初めて笑った。複雑な気分になったけれど、明日にはもっと美味しくなるよ、となんだかやたら嬉しそうに頬張るので、悪くない気分の方が結果的に勝った。
「勉強以外って、さすがに範囲が広すぎるだろ」
「音楽も料理も裁縫も絵もむろん体育だって、副教科系どうせ全部駄目でしょ?」
「おいおい、僕の中学時代を見て来たように言うじゃないか。そう言う君はどうなんだよ」
「僕は結構なんでも出来るよ」
憎らしいことにたぶん事実である。汐木高校では理系科目赤点のせいで下の方のテスト順位だが、それに目を瞑れば、よくよく見ると中畠遥多は意外と隙がない。孤独を愛するとうたい文句の黒猫だ、そしてそれは事実はったりでも何でもなかった。一人ぼっちということは一人で完結しうるということ。助けを求めずに済む地力を彼女が有していた証明に他ならない。
「しかしなんでもできるって言ったってファンタジーな身体能力や魔力や異能がある訳じゃないだろう。どうやって僕の部屋に入ったんだ? ドアに鍵がかかっていたことは確認済だ。手段と目的を教えてもらおうか、不法侵入者さん」
「不法侵入」
「刑法百三条抵触者と言い換えた方がいいか?」
「よく覚えてるね」
「三年以下の懲役または十万円以下の罰金」
「ば、罰金」
「参考――ちなみにこの僕には、実は幼少期から仲の良いおまわりさんがいる」
携帯電話をちらつかせると、さすがに分が悪いと悟ったのか、遥多はわざとらしくへらっと笑った。にやにやと不敵な笑みがデフォルトの彼女にしてみれば、らしくない笑顔だった。そして両手をぐーにして顔の横に配置した。
「にゃん♡」
「……誰に教わったんだそれ、君ってそういうやつだったか? そもそもそれが僕に通じると思ってるのか……?」
その実割と攻撃がきいているのは墓まで持っていく秘密である。
小森琢斗は発言の一割が嘘とはったりで出来ていた。
「ノリ悪いなぁ、こうすれば男は大体黙るってちいさんに聞いたんだけど間違いだった? どうやっても何も、窓の鍵は空いてたよ」
二階だったけどね、と何でもないことのように、遥多はカレーを食べるために大きな口を開けながら言った。やはりお腹が減っていたのか、みるみるうちに皿の中が綺麗になっていく。
「なんと驚き、通りがかった安寿くんが手伝ってくれたのさ」
「安寿くん。……南樹苑家の娘さん?」
「そう。道場破りしたら喧嘩したんだけどね。小森んちに来てみたはいいものの誰もいなくて。困っていたら助けてくれた。『困っていた』というのがあの子のキーワードだったのかな? とにかく仲直りもしてくれたよ。物言いは乱暴だけど抜群にいい子だよね、隣に立ちたくないレベル」
さらりと自己肯定感の低さを垣間見せながら、遥多は右手をひらひら振った。
「会話の中に道場破りなんて言葉がさらっと出てくるのが君らしいね」
「まぁね。しかし当然だけど、道場破りが目的じゃないよ。そこまで奇天烈な奴じゃないさ。安寿くん、顔見知りだったから友達になってくれないかなと思ってね。南樹苑の道場に行ってみたんだ、騒ぎを起こしたら来てくれないかなって」
「騒ぎねぇ、簡単に言うけどそれこそ黒猫さんの得意分野だね。しかし南樹苑家は子どもに携帯電話を持たせるのか? イメージないけど」
「持ってないって言われた」
「だよね」
「びっくりして、友達じゃないって言って逃げてきちゃった……」
それで喧嘩か。一瞬呆れて言葉を失った。
こいつ、混乱したり興奮すると意味のわからないこと口走る癖あるからな……。
頭の痛い数々の騒動が眼裏を横切っていく。
「それで? 今日でメルアドはどれだけ集まった?」
「真琳ちゃんだけー」
遥多は大げさに、肩をすくめて落ち込んで見せた。
「たぶん南樹苑関係の不審者なお兄さんとも話したんだけどさ、やっぱり携帯電話持ってないって。今時携帯も持っていない若者僕くらいかと思ってたよ。さすが天下の南樹苑は世界が違うね」
南樹苑関係のお兄さん?
誰だそれは、今度真琳に調査を依頼しなければ。今後それが必要な局面にならないとも限らない。
その際の情報の対価はどうするか。そういえば綾小路先輩関連の供給が足りないとこの前ぼやいていたような。一時期生徒会長までこなした人だ、人気はまだまだ根強いのに高校へ進学してから情報が得辛くなったらしい。せっかく梅雨の事件でお近づきになったんだ、冷めないうちに有効活用をするか。
和やかに会話を楽しんでいる風でありながら、自身のほしい情報にそれとなく誘導し、脳裏に必要事項を細かに冷静に書き留めながら、琢斗はにこやかに頷く。
「忙しい一日だったね、それはお腹もすくだろう。おかわりは?」
皿が空になったのを見計らって尋ねれば、遥多は無言でお皿を差し出してきた。気恥ずかしいのか、微妙に睨まれた。
「……お昼ごはん食べてないの」
「僕の記憶力に信頼がない? そんな二回も言わなくても」
「こんなに寝ちゃったのも、昨日あんまり寝られなかったからで」
「あぁ、うん」
そして、琢斗はあくまでさらりと、まるで周知の事実だったかのように、極めて何でもないことのように、平皿にカレーを継ぎ足し、鶏肉と野菜の配分に悩みながら言った。
遥多が寝入ってしまった後、六月の事件の話から、自分と彼女の兄のみが知っている、彼女の弱点――暗闇への恐怖症を連想した。そして、昨夜ひっそり起きた停電騒動を思い出したのだった。推理でも何でもない、ただの思いつきでただの想像。琢斗にとって、それは不可解な行動へのひとさじの理解の一助に過ぎなかった。
「昨夜は停電だったから眠れなかったんだろ、仕方がない」
もう少し彼の想像力が及べば。
寂しかった、という儚い言葉の意味まで、察することができたかもしれない。真っ暗で一人ぼっちを強いられた小さな少女が、わざわざ葉澄に赴いて自分を訪ねて来た理由を、ほんの少しでも慮ることができたら。
そうすれば、あるいは、彼がこうまで決定的に、選択を間違えることはなかったかもしれないのに。
その時の少女の表情を、琢斗は見逃した。
※
「何言ってんのかよくわからない無理です嫌ですお断りします」
「しつこいぞ黒猫さん、いい加減堪忍しろ状況を見て物を言え」
「うるさいストーカー!」
「夜中に女の子一人送ることの何が悪い!」
そんな感じに。仲良く喧嘩の真似事をしながら、小森琢斗と中畠遥多は小森家を出発した。現在時刻二十一時。甲斐性なしと名高い彼であっても一応この程度の発想はあった。遥多の方は狼狽レベルで真剣に驚いていたが。
「今日一のどっきりだよ……。全く持って予想外だよ、何で今僕は小森に見送られている……? そもそも女の子が一人だと危ないって誰が決めたんだ? 言うて戦ったら僕のほうが強いんじゃないか?」
「最初から最後までトッポのように失礼な奴だなきみは」
「今度南樹苑の空手道場で柔道しない?」
「どこから突っ込めばいいのかわからないが断る」
葉澄ヶ丘駅に着いて、遥多はICカードを見せながら言った。
「いやありがとね小森、ご飯もベッドもいただいてしまって」
「まるでベッドも僕が進んで提供したかのような物言いだがそんな事実はないからね」
「いや待って小森くんどこへ行く」
「何って、駅のホームへ」
「えええええ」
近所迷惑なので叫ぶのはやめてほしかったが無視して先に改札をくぐった。階段をのぼっていると硬直が解けたのか、駆け足と共になぜか半泣きな声が追ってきた。
「やめようよぉ、小森なんか小森なんか夏休みになってから一度も学校に来ないしメールはしてくれないし最終奥義で囲碁将棋部に誘ったのにそれも断るし、なんで急に優しくするの? 情緒不安定なの? 定期的にやってくる人に優しくしましょうキャンペーン真最中なの?」
「補修にいないのは君と違って僕が赤点を取ってないからだし、メール? 気づかなかったなら謝るけど、そっちも送って来てないだろ。そして今情緒不安定なのは間違いなく君だ」
「ぐう」
「囲碁将棋部の合宿は楽しかった?」
「楽しかったよ! 夏といえばホラーだと思って用意周到に三回どんでん返しをお見舞いしたよ! 一回だけだとどうせ僕のせいだと思われてみんな怖がってくれないからな! 見てほしかったよアカデミー賞ばりの僕の名演技!」
「……自分で言うのもなんだが珍しく素直になるけど、それは正直見たくはあったな」
時間に似つかわしくないハイテンションなお喋りを楽しんでいると、トンネルから目を煌々と光らせて電車がホームにやってきた。これからどうしようか、迷ったのは一瞬のことで、寂しそうに眉を下げる遥多を見たら、気づいたら車輛に乗り込んでいた。
遥多はキャパオーバーになったのか、わなわなと震え、完全に目を潤ませていた。
「小森がいじめる……」
「泣くほど僕と帰るの嫌……?」
何も言わないので、ため息ひとつ、琢斗は隣の同級生の理解を諦めた。不法侵入してまで会いに来ておいて送るのは拒否する(はじめは遠慮していると思っていたがどうやら本気で嫌がられている)というのは彼にしてみれば不可解だったが、彼女に説明する気はないようだった。
無言の車内の窓に、町の明かりが点滅しながら通り過ぎていく。
なぜ、自分は今遥多の隣にいるのだろう。様子がおかしかったから、夕飯をごちそうして話もした。そのお陰か知らないが、遥多の顔色は十分よくなったと思う。それで、義理は十分に果たしたのではなかろうか。
それでも、玄関口で見送って、はいさよなら、という気分にはどうしてもなれなかった。
なんだか、すっきりしない。
話足りなかったのだろうと、琢斗はそう自身の感情を分析する。遥多は様子がおかしかった。今も若干おかしいと思う。理由があるなら解決をしなければ。必要とあらば彼女の兄に報連相を。一月前に飛び降りまでしでかした子だ、気を配るのは当然だ。
横目で隣を見ると、遥多は所在なさげに俯いて、両手をゆるく握っていた。何かを話し出す気配はなさそうだった。今日は、本当に会いに来ただけなのか。メールアドレス集めがてら葉澄に来ただけ? 自分に会うのはそのついでか。
「…………」
しかし、いくらなんでも。そこに深い意味がなかったとしても。
男のベッドに侵入して、寂しかったなどと囁くのは。
「もう駄目だよ」
呟くと、華奢な肩がわずかに震えたのがわかった。
「不法侵入のことだけじゃない。男の部屋に不用意にあがりこんで。あまつさえ眠るなんて、無防備がすぎる。自分を守れるのは結局のところ自分だけだ。あの人を盾にするようで悪いけど……城咲先生もきっと同じことを言うよ」
遥多は何も言わなかった。三秒ほど経って、一度だけ頷いただけだった。
二十分ほどで目的の駅に着く。遥多がゆらりと立ち上がったので後に続くと、改札口の向こうに、夜闇に浮かび上がる、白濱市のカラフルな電灯の色が目についた。遥多は立ち止まると、道を塞ぐように琢斗を正面から見つめてきた。その目はもう潤んでいない。挑戦的な黒猫の眼差しだった。さっきまで目があわなかった分、その瞳の黒をいやに強く感じた。
「今度こそじゃあね、だね。遅くまでお疲れ様」
「……家まで送るつもりでいたけど」
「結構だよ、こんなことで貸しだと思われても困るし。そもそも僕は一人暮らしなんだよ? 一人で帰るのなんて日常茶飯さ。それともなんだ、小森は僕の帰りが遅くなる度にこうやって送ってくれるっていうのか?」
「それは」
遥多はうっすらと冷笑した。幼い外見とちぐはぐな、皮肉的で不敵な微笑みだった。
「無理だろう? 意外と小森は猫を拾って飼い殺すタイプだね。出来ないなら中途半端な親切の押し売りは止めるんだ。だから、じゃあね、だよ。また夏休み明けにね、小森くん」
一息にそこまで喋ると、ワンピースの裾を翻した。さよならも言わせずに、去ろうとするつもりらしかった。
「ちょっと」
どうしてその時、そのように身体が動いたのか、琢斗はうまく説明できない。
心がいやにざわめいていた。たった一月しかろくな付き合いがないが、遥多の笑みが虚勢で張り付けただけの偽物か、本心からのものかくらい、わかるようになっていたつもりだった。なぜ急に、虚飾をまとって、小森を突き放すように微笑んだのか。戸惑った。やはり何かあったのではという焦りもあった。そもそも琢斗は相手のペースで事を運ばれるのは大の苦手で、それは黒猫相手でも変わらない。
だからといって、詭弁を弄する奇術師が、女の子一人止めるのに。
相手の手を掴むことしかできなかったというのも、なんとも間抜けな話だった。
一つの大きな生き物のように緩慢なうなり声をあげながら、電車がホームから去っていった。風が止んで、沈黙が二人の間を満たした。
小森琢斗の頭の中は、らしくもなく嵐が吹きすさんでいた。パニック状態と言い換えることもできる。遥多と直接の触れ合いをしたのが初めてだったし、女の子の手を許可なく掴む、という状況下からして初体験だった。小さな手だった。柔らかい、と思った。思った事自体に頭が沸騰した。目の前の彼女は背中で沈黙している。何か言わなければ。
動揺、混乱、焦燥。
結果として、最近、遥多の前では息をひそめることの多く――主に中学時代、友人の新城潤を悩ませた、悪癖が。
問答無用のマイペースで、相手の都合おかまいなしに突然持論を展開する、悪癖が転がり出てきた。
「寂しいって言ったよね?」
この状況を誤魔化すための話の振りとしては、それは、おそらく最悪の類。
「人間は社会的な動物だ。個人的にはあまり賛同していないのだけれど、人生で経験するストレスと幸福はほとんど全て、人間関係によるものだと研究成果も出ているらしい。自身の心理状況が常に他者に左右されると思うといやはや恐ろしい限りだね。故に負の感情を解消するには他者の介入が不可欠だ。ところでハグの日という言葉が流行って久しいがハグに限らず親しい他者とのスキンシップはオキシトシンというホルモン物質が分泌されるらしいよ。別名幸せホルモンともいう」
話しながら、あれ、こんなことを言いたくて引き止めたんだっけ、と考え始めていたが後に引けなかった。小森琢斗は最後まで話し続けた。
「寂しいとか――寂しいはストレスの一種だよね――どうだろう、今僕と手を繋いでいる訳だけれど、少しはマシになったりしないかな?」
端的に言うと。
小森琢斗は、普通に振られた。
※
「だから貴方は駄目なんですよ」
「…………」
葉澄ヶ丘駅からの帰り道。小森琢斗は携帯電話を片手に、言葉を失っていた。
「真琳、できればオブラートに包んでくれると嬉しいんだけど……生憎こちらも今無傷とは言えない状態で」
「だから貴方は駄目なんです」
二回も言われた。
言葉を遮ってまで。
「……いや。『だから』って言葉の選択を間違っていないかい? 因果関係を説明する接続詞だぜ、通話が繋がると同時に薮から棒に言うには少々乱暴な」
「全くちっとも間違ってはいません。中畠さんと別れて、すぐに私に――別の女の子に電話をかける。駄目の極みです。なぜそれが駄目なのかを理解できないところが駄目駄目です。これから私は小森琢斗と書いて『だめおとこ』と読むことにします。水嶋カンパニーのデータを上書きしておきましょう」
「いつにも増して刺々しいな……かけ直した方がいいかい?」
「いいえ、どうせ私に用があるのでしょう。まったく、あまり私を軽々と利用しないでくださいな、水嶋真琳はあなたのためのワトソンではないのですよ? ふむ、しかし、外を歩いている。もしかして彼女を送り届けたんですか? 送り狼小森さん生誕祭?」
「狼ではない」
自身の栄誉に真剣に関わる部分だったので、はっきりと訂正した。
「君に依頼したいことがあって……と言いたいところなんだけど、その話はまた改まってするとして。今回は個人としての水嶋真琳さんに質問コーナーを開きたい」
「はあ。嫌な予感が絶妙にするんですが」
「遥多がそちらを訪ねてきただろう?」
彼女の名前を口にすると、先ほどの己の失態が思い出されて、途端に叫び出したい気分になった。梅雨の事件で一夜を明かしてしまった以来の大失態だった。今すぐ過去に飛んでいって阿呆な自分をどつきまわしたい。異性の手を掴む。しかも何か目的があった訳でもなく、思わず。その上、他でもない自分の行動に動揺した挙げ句、意味の分からないことを口走る始末。遥多はこちらを見もせず走り去ってしまった。
なんだ幸せホルモンって。
お前の頭が花畑か。
「小森さん?」
「あぁ、いや、ごめん。思わず自分の世界に」
「いつものことですから気にしませんが。中畠さんがどうかしましたか? もしかして貴方の情報を勝手に教えた事に怒ってます?」
「別にそれくらい今更だけど。遥多の様子がおかしかったのが気になって。君なら何か知ってるかと思ったんだけど」
「嫌な予感が的中しました」
携帯の向こうから、冷ややかなため息が聞こえた。
「三度も失礼致します。だから貴方は駄目なのです、小森さん。私も正面突破のコミュニケーションは苦手分野ですが――星さんはだから苦手です、自身の首尾範囲に否が応でも引きずり込ませる、もはや暴力的な――その程度、本人に聞けばよいでしょう?」
「本人が話してくれないから、君に」
「私が何を言ったとして、その情報にどの程度の価値がありますか?」
情報を司る彼女だからこそ、その言葉は説得力があった。
「その程度、自給自足なさってくださいな。まったく。今回は甘んじて許しますが、動揺を落ち着かせて普段の自分の調子を取り戻したい――そんなくだらない理由で、この私を呼び立てないでくださいね」
威丈高に通話が切れる。琢斗は数秒その場で立ち止まって、ため息ひとつ、携帯電話をポケットに押し込んで、再び足取り重く歩き始めた。
看破されていた。何も話していないのに。それほどまでに、琢斗がわかりやすかったということだ。利用するつもりでいて、弱みをわざわざ晒しにいってしまった。
自身の未熟さに腹が立つ。このままでは、駄目だと思う。
この世界という盤上で勝つことができない。己の目的を達成できない。
南樹苑の道場に乗り込んだと言っていた。
水嶋真琳とお茶を飲んだとも。真琳は突然の来客は好かないはずだ、特に日曜の午後のお茶の時間を邪魔されるなど言語同断。にも拘らず同席を許されるほど、気を許している?
彼女が対価なく情報を与えたという話も引っかかる。
さっきの会話から言っても――水嶋真琳が、遥多の肩を持っている?
水嶋真琳も南樹苑家も葉澄にとって重要なピースだ。特に水嶋真琳は、小森琢斗にとって、代替不可能な駒だった。頭脳労働において右に出る者のいない彼の弱点である、人間関係の希薄さ――情報収集力を、補って余りある包囲網。そんな彼女を味方にされるのは、正直まずい。
梅雨の事件の際、彼女を葉澄に連れてきたのは愚作だったかもしれない。葉澄町との繋がりを作られてしまった。しかし、あの時はまだ、こんなことになるとは思っていなかったのだ。猫かぶりの少女が、素顔をさらすようになっても尚、まるで友人のように振る舞うようになるなんて。
全部、計算外だった。
それに嘗てないほど乱されている自分も。
気を抜けば震えそうになる手のひらを、爪をくいこませるように握り込んだ。
今夜の一連の出来事を思い出す。
不敵に微笑みでもすればよかったのに出来なかった。得意の詭弁も跡形もなく崩れて、手のひらが頬の筋肉が心臓の鼓動が自分のものじゃないみたいだった。制御できない。
中畠遥多は、間違いなく、彼の人生にとって不確定因子だった。こんな調子で、もし、その時が来たら。懸念していることが起きたら、己の望む通りの自分でいることができるだろうか。
あの日の部室、追いつめられた少女の底光りする瞳を思い出す。
唯一無二のためならその他大勢に石を投げられても構わない――その不敵さを。いっそ眩いほどの純粋さを。
果たして、自分は。
中畠遥多が。黒猫が。例えば葉澄で起きた事件に介入してきたとして、思い通りの振る舞いをすることができるだろうか?
目的を達成することができるだろうか。
蛍光灯が眠たげに瞬いた。ふいに立ち止まった琢斗を、自転車が邪魔そうに迂回して追い越して行った。小森琢斗は道の真ん中で、目をつぶった。
考える。
事件から彼女を守る方法を。自分を制御する方法を。目的のための最善を。
『小森琢斗』の存在意義を。
数秒後、彼は静かに目を開けた。夜空は星一つ見当たらず、真っ黒に塗り潰されていた。
それは彼にとって、最善の結論。しかしこの上なく残酷で、二人の命運を左右する選択だった。
その時が来たら、中畠遥多と縁を切らなければならない。
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