三.水嶋真琳 side

 水嶋真琳は諦めていた。

 傲岸不遜を絵に描いたような彼女には珍しく、いさぎよく白旗をあげていた。目の前の人間を思い通りにすることを諦めた。中学生で水嶋カンパニーと呼ばれる情報屋を設立し、主に葉澄の小中学生間の微細なネットワークをはりめぐらしてきた彼女にとって、極めて珍しいことであった。

 彼女の母親はやり手の女社長である。遠くない未来、母親の跡をつぎ幾多の人間を支配下において、最善の未来へ先導するのだと野心を胸に秘めている。そのせいかプライドが高く挑発的な物言いをする癖があるのがいささか玉に瑕ではあったが、優秀さを鑑みて目くじらを立てる者はそういない。あと数多の情報を所持している彼女を敵に回すのは得策ではないので誰も楯突こうとは思わない。

 葉澄では一目置かれている有名人。それが末恐ろしい十五歳、水嶋真琳である。

「いやー、もう今日は大変だったんだよ。安寿くんすっごい怒ってさ」

「自業自得では……?」

 その水嶋家の応接間で、中畠遥多は我が物顔で紅茶を飲んでいた。

 長毛の黒猫を膝に乗せながら。

 マリア、あなたはそんな素直な子じゃなかったでしょう。水嶋家の矜持はどこに行ったのですか。小森さんが突然訪ねて来たときは、私の代わりに全身で威嚇し、頬を引っ掻くまでの勇敢さを見せてくれたじゃないですか。

 真琳は愛猫に目で語りかけるが、マリアはどこ吹く風で喉を鳴らしている。

 先ほど、中畠遥多が来訪した。アポなしであった。「あ、真琳ちゃん? やっほー。突然で悪いんだけど疲れちゃってさ、ちょっと休憩させてくれない?」、あっけらかんと言い放つと、唖然とする真琳に構わず、客間にミジンコほどの迷いなく一直線に消えていった。そして私たち友達だよねとか気味の悪いことを言って真琳のメールアドレスを奪い取った。

 日曜日の午後のティータイムを、真琳はとても大事にしている。水嶋カンパニーの運営は一朝一夕にはなしえない。何かと気苦労の多い、彼女の唯一の癒しである。

 それを邪魔されるなんて、去年の小森琢斗の来訪以来だった。

 黒猫は本当に疲れているのかなんだか眠そうで、猫の体温が心地よいのかうつらうつらとしていた。たまに思い出したようにマリアの完璧な毛並みを撫でる。

「うりうり。可愛いなぁお前。僕とキャラが被っているけど可愛さに免じて許す」

「偉そうですね、勝手に名乗ってるだけの渾名と生物名を一緒にしないでください」

 真琳は呆れたように嘆息した。

「というかいくら何でもあなた変わりすぎじゃないです? そりゃあなたの中学時代の情報を小森琢斗に言われて調べたのは私ですし、情報としては知ってましたけど。ふつうに結構戸惑うんですが」

 中畠遥多が、真琳を訪ねて来たのは二度目である。小森琢斗に連れられて来たのが一回目。彼が気にかける少女がどんなものか気になって、真琳が情報と引き換えにここに連れてくることを要求した。その時はもっと、自信が無さそうで、一日中日の差さない木陰のような、暗い雰囲気をたたえていた。無理もないとは思う。彼女は父親を失くしたばかりだった。ただ、それだけの理由では、ないだろうけれど。

「猫かぶりはもうやめたんだ。意味が無くなったからね」

「猫を脱ぐと黒猫が出てくるシステムなんですね、猫づくしですね」

「猫づくし。いいね。黒猫をやめて猫づくしと名乗ろうかな。猫づくしの中畠遥多です! 黒猫にも猫かぶりにもなれますっ」

「やめてください、恥ずかしい。ポーズを決めてウインクをしないで下さい。以前とのテンションの差についていけません。小森さんもさすがに困っているでしょう」

「ううん、小森の態度は何も変わらなかったよ。そういうところが好き」

 あまりにも自然に口にされて、思わず口を閉じた。

 好き。

 認めて、しまったか。

 以前会った時もその兆候はあった。だから真琳は釘をさした。玄関から去ろうとする彼女をわざわざ呼び止めて。引き返して距離をとれ、それが無理なら関係を断ち切れ、と。

 小森琢斗に――あの飄々とした態度を崩さぬ排他的な奇術師に、純粋な好意を抱くなど、不幸になるのが目に見えている。いや、好意を持つだけならいい。あの稀代の変人にも仲の良い友人や後輩は一応いる。しかし彼女は真琳に焼きもちを焼いたり、特別な好意があるのが見え見えで、それがなんだか危うくて怖かった。

 いくら自分のものになれと甘く囁いても、彼が靡くことなんて決してないのに。

「好きというのは……恋愛対象として?」

「うーん、たぶん」

 傷だらけだった少女が、照れくさそうに微笑むのを見て、真琳は一瞬だけ目を瞑った。

 彼女の個人情報を頭のメモリから検索する。中畠遥多。中畠勲の再婚後にできた子ども。幼少期からの虐待。両親の離婚。連鎖的に運命的に始まったいじめ。絵にかいたような四面楚歌。父親の交通事故。唯一交流のあった腹違いの兄を頼って引っ越し、汐木高校に入学。密室事件の騒ぎを起こす。その果ての飛び降り。自殺、未遂。

 水嶋真琳は彼女に強く出られない。だから、今回の急な来訪も、諦めるしかない。白旗をあげるしか術がない。

 梅雨の事件の飛び降りは、琢斗に安易に情報を渡した、真琳にも責任がある。

 判断を誤った。水嶋カンパニーの名折れだ。二度と起こしてはならない事件として、強い後悔と共に真琳の胸にひっそりとその出来事は刻まれていた。情報は諸刃の刃。人を導きもするけど安易に殺すこともできる。常に先を読んで行動しなさいと母様がいつも言っているのに。

「……私の忠告は覚えていますか?」

「覚えているよ。小森琢斗の異常性。しかしあの時は隠していたけれど彼が異質だっていうなら僕だって似たようなものさ。むしろ彼の隣にいる権利を獲得できるのは僕くらいかもしれない、それくらい夢見る権利はあると思うけど」

「そういう問題じゃないんです」

 微かに動悸がした。真琳は彼女に強く出られない。幸薄い運命を辿った少女がおそらく初めて恋を語っているのだ、自分の性格が多少ひねくれている自覚はあったが、流石に人として応援してあげたいと思う。それでも。

 曲げられないことはある。

「私が適当なことを言う女に見えますか? 見くびらないでください。いいですか、貴方は小森琢斗のことを何も知らない。彼が何を望んでいるか。どんな世界を夢見てしまったか。それ故に十五年間、どう生を刻んできたのか、彼の視線の向こうに少しでも意識を向けたら――そんなことは言えないはずなんです」

「随分知った口を叩くんだね」

 喉元にナイフが触れたような心地がした。

 それくらい、急速冷凍したようなひんやりとした声だった。猫のマリアが怯えたように一鳴きして、彼女の腕の中をすり抜けて行った。

「幼馴染みなんだっけ。小森が女の子をファーストネーム呼びするイメージなかったから、あの時はほんとびっくりしたよ。随分仲良いんだね。僕の知り得ない小森を真琳ちゃんは沢山間近で見て来たんだろうね」

「そんな話をしているんじゃ」

「ないよね。ごめんね、わかってるよ。ただのつまらない焼きもちだよ」 

 あぁ、これも寂しいに繋がるんだろうな。

 ふと、独白のように遥多は呟いた。

「僕は彼の世界が自分抜きで構成されているのが気にくわないみたいだ。僕と小森はこの間会ったばかりだからそんなの当たり前なのに。滑稽だね」

「独占欲ですね。恋愛感情の特徴のひとつです」

「なるほど、そう抽象化できるのか。流石真琳ちゃん」

 真琳は意識的に深く呼吸をした。何でもないように言葉を紡ぎながら、その実身体は緊張を強いられていた。中畠遥多は被害者だ。暴力的なまでの暴力の被害者。しかし同時に加害者でもある。黒猫はいつだって鋭い牙と爪をひっそり隠し持っている。

「そもそも何故そんなことに。いえ……ごめんなさい、自明の理でした。彼と貴方は何故だか奇跡的に波長の合う他人同士だった。理由としてはそれだけで十分です」

「そうだね。初めて出会った自然体でいれる人だった。その上、僕はその時追いつめられていた。彼は僕に優しい言葉をかけてくれた、手を差し伸べてくれた。僕は彼を失いたくなかった」

 あぁもしかしたら、彼のことが好きだと思うのは、手段に過ぎないのかもしれないね。

 それは、厭世的な黒猫らしい冷めた言葉だった。

「彼を失ったら困るから、本能がわざわざご丁寧に生成した些末な感情に過ぎないのかも。代替物と出会ったら一瞬で忘れてしまうような。あぁ、寂しいというのも結果論で、彼と会うために寂しいという感情を生成しているのかな」

「……寂しいんですか?」

「寂しいよ。寂しくて仕方ない。困ってる。だからここに居る」

 遥多は弱ったように笑った。よく見ると眠そうというだけではなく、顔色があまりよくなかった。あまり眠れていないのかもしれない。

 ごめんね、と何故か謝られてしまった。

「ありがとね、真琳ちゃん。心配してくれてるんだよね。でも、今更どうしようもないの。あの人のことばかり考えてしまう。夏期休暇に入ってから彼と二週間も会えていない。それだけで酸素が足りないみたいに苦しい」

「今更私が何を言おうと。貴方の理性が何を語ろうと。不可逆なほどに行きついてしまっている、とそう言いたいんですね」

「わかってくれて嬉しいよ。その結果、不幸になるというのなら、それもまた人生だ、とか知ったような口を聞くさ」

 彼女の達観した言葉を聞きながら、とっくに冷めてしまっている紅茶で唇を潤した。

 中畠遥多は、小森琢斗を変えられるだろうか。

 小森琢斗は、彼女の救いになるだろうか。

 もしかして自分が感じている全ては杞憂で、数多の恋人たちのように、恋愛社会の方程式に唯々諾々と従って、告白して両想いになって、お付き合いを始めるような。そして添い遂げるような、そんな未来が存在していたりするのだろうか。

 可能性は零ではない。賭ける価値はあるかのように思われた。

 そのために、彼女が、どれだけぼろぼろになろうとも。

 ……今まで散々傷ついてきたろうに。涙を飲んできただろうに。

「小森さんのことを、あなたはまだ知りません」

 真琳は手を組んで、顔を上げた。そして決意のこもった眼差しを対面に向けた。

「情報をあげましょう。家族構成、両親の職業、姉の通う大学名、中学校のクラス遍歴、趣味の変遷、好きな給食のメニュー、得意教科不得意教科。水嶋カンパニーに蓄積されている玉石混合の情報開示。情報は武器です、あなたが彼を手に入れたいと望むのなら、私は」

「いらないよ」

 中畠遥多は首を振った。

 そして、きっと、ここに来た理由と思われる望みを、一つだけ口にした。

「家の場所だけ、教えてください」



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