二.加賀谷明良 side

 加賀谷明良は気になっていた。

 先ほど「パトロールは代わりにやっておくよ」と爽やかに言っていたが、実はひっそりと安寿の跡をつけていた。真っ黒な闖入者が気になったからである。道場の危機なら僕も責任があるからね、ともっともそうな理由を考えてはいるが、実際のところ、事の顛末が気になったからに過ぎない。あと、少女が普通にタイプだった。加賀谷明良十八歳は、普通に可愛い女の子が好きだった。あわよくばお近づきになりたい。

「こんにちは」

 道場を追い出された後、黒い少女は茶賀神社に来ていた。比較的涼しくて人気がなかったからだろう。日陰になっている本殿の階段の隅に座り込み、虚ろな大きな目をぼんやり遠くへ向けていた。木漏れ日がワンピースのひだに斑模様をつくっていた。

「……こんにちは?」

 少女は無表情のまま、理解しかねるとばかりに眉根を寄せた。気配なく現れた男に対する対応の仕方に悩んでいるようだった。

「なにか用? 見るからに只者じゃないお兄さん。僕は一般人だよ?」

「見ればわかるよ。だから相手の視界に入ってから声をかけた。知らない人にはまず挨拶。迅くんの教えを初めて実行したんだ、褒めてほしいけれど君に頼むのは筋違いな気がするね。真っ黒な可愛いお嬢さん、お名前は?」

「中畠遥多だよ、怪しくて格好いいお兄さん」

 遥ちゃんか、可愛い名前だね、と言ったら、褒められ慣れていないのか、中畠遥多は目を泳がせた。変な子だな、と思う。道場に乗り込む、安寿の弱点を堂々と入手する、可愛いと言われて戸惑う。不格好で、ちぐはぐだ。だから気になる。

「僕の名前が知りたくて話しかけて来たの?」

「ううん、ナンパ目的で」

 すると胡乱な表情になり、警戒心たっぷりに二メートルほど距離をとられた。心の距離はきっとそれ以上に遠ざかった。破天荒な行動の割に身持ちは硬めらしい。屈強揃いの南樹苑家でも最強と恐れられる男は、嘘だよ、冗談だよ、と慌てて年下の少女に取り繕う羽目になった。

「僕は安寿の保護者みたいなものだよ」

「あぁ……なるほどね」

「そうだよ、あの子のフォローに来たんだ。だからそんな不審者を見る目で見ないでほしい。意外と傷ついてしまう。……うん、ありがと。安寿のことだけどさ、口は悪いけどいい奴だから、もし君にその気があれば、また今度遊びに来てほしい。さっきはごめんね」

「変なことを言うお兄さんだね」

 遥多は気を取り直すように座り直したが、声はひどく冷めていた。

「謝ってもらう理由はないよ。僕は練習の邪魔をした、だから出て行けと言われた、それだけだ」

 道場の真ん中にいた彼女を思うと違和感を覚えるほど、ひどく理性的な返事だった。

 ぽっかりと何かが抜け落ちたような無表情で、黒々とした瞳の奥は混沌に満ちていて、どちらかというとこちらの方が素なのだろう、と感じた。

 彼女の一挙手一投足に、興味を惹かれる。本当は今すぐ質問攻めにしてしまいたかった。彼女が道場にどのように現れ、どのようにして空気を自分色に染め上げたか、その手際の良さを明良は目の当たりにしていた。似たようなことを何度も繰り返してきた者の仕事だと思った。それも必要に駆られて修得した技術。心の奥底で悲鳴を上げながらも、涙をこらえながらも、歯を食いしばっても――毎日生を繋ぐために、挑戦的に笑ってきた者の姿だと思った。

 一対多数に慣れている。それも、敵対されることに慣れている。

 まるで、生来の嫌われ者のような。

「ていうか見てたの? それで僕の跡をつけてきたの? ストーカーのお兄さん」

「可愛い女の子に詰られるのは悪い気はしないね」

「はぐらかすんだね。ちなみに、お兄さんは携帯電話持ちの友達になってくれる人?」

「ごめんね、文明の利器には頼っていないんだ」

「だよねぇ」

 そんな気はしたよ、と頷かれた。

 明良は一応一人分空けて隣に座って、「どうして『メルアド』というものを集めているの?」と、気になっていたことを聞いた。イントネーションが若干おかしかったがそれは彼がメルアドがどういうものか知らないからに他ならない。

「大好きな人に会いたいから」

 少女はふっと視線を落とした。視線の先で、小さな手が黒い布の上で無防備に転がっていた。

「僕に友達がいないのを見かねたその人が、二十人メルアド登録しないと個人的にはもう会わないって言うんだ」

「意地悪な人だね。ふむ、推測するにメルアドというものは一人一つ所持しているコードネームのようなものなのかな。しかしそれなら安寿にそのまま言えばよかったよ。要求をするときは目的とセットで。健全なコミュニケーションの基本だね。そしたら安寿も誰か紹介するとか、もっとやりようがあっただろうさ」

「僕は相手に何もあげられないのに要求を伝えてもいいものか? 友達でもないのに」

 遥多は困ったように眉を下げた。

「それは傲慢とは違うのか。パラドックスに陥ってるんだ。友達になってほしいという要求に無償で答えてもらうためには、友達という関係性でいなければならない」

「返報性の原理に囚われ過ぎだね。安寿の言葉を借りると、他人の純粋な善意をもっと信じてみたらどうかな」

「……この世界にはきっと僕が思っているより純粋な善意があるんだね」

 そろそろ流石の僕も認めざるを得ない、と遥多はため息をついた。

「普通に埋没しようと決めたのに、人の群れで安穏と生きることを決意したのに、なかなかどうしてうまくいかない。やはり友達二十人なんて、嫌われ者の黒猫には難易度が高いみたいだよ。僕は人の悪意に晒されすぎた。とっくのとうにこの身体は真っ黒に染まり上がってる、爪先まで綺麗にさ」

「うん? 黒? とてもそうは見えないけど」

「……比喩だよ。手を離して、非常識で不躾なお兄さん」

 あぁ失礼、と明良は初対面の少女の手をぱっと離した。

「比喩ね。喩え話だね。難しいな。さてはお嬢さん、文学少女だね」

「ううん、こちらこそごめんね。わかりづらかったよね」

「学がない男は今の時代もてないよね。文武両道じゃないと。安音ちゃんに今度本を貸してもらおうかな。……貸してくれないだろうな」

 切れ味鋭い双子の姉と対照的に、マシュマロみたいに柔らかい笑みを纏いながら、その実明良にそっけない少女の顔を思い出す。きっと「ふににー、正直嫌なんだね、正直言わなくても徹頭徹尾嫌なんだね。加賀谷のお兄ちゃん、ごめんなさい?」、以上である。理由も言ってくれない。汚すから嫌とか失くすから嫌とか木から落とすから嫌とか想像はつくが。

「わかるー、お兄さん本を大切にしなさそうだもんね。というか物を大事にしなさそう」

「遠慮容赦ないね。否定はできないけどね。ごめん、話を戻そう。友達二十人。いいじゃないか。頑張れ。僕は息をするように嘘をつく卑怯で卑劣な最悪を煮詰めたような小男を知っているが、部下が四桁はいるし友人もまぁいるみたいだ。あいつに比べて君は最高に可愛くてチャーミングな女の子だと思う、問題は塵一つも存在してない、百人は余裕だね。富士山でラインダンスも夢じゃない。自信を持って」

「ふふ、何それ」

 少女は笑いながら、手のひらを空に向けて伸びをした。その勢いで立ち上がると、木陰の中でくるりとターンした。ほっそりとした身体を包むワンピースの裾が、一瞬可憐に円を描いた。

「ありがとね、なんか勇気みたいな何かをもらったよ。メルアド集めの話はもう大丈夫だよ。それに、実は葉澄に来た口実に過ぎないんだよ」

「え、そうなの? 君は最上に意外性のある子だね。あんな騒ぎを起こしておいて?」

「そうだよ。よくわかんないよね。僕もわかってないよ。人間生きていれば多重の愛と矛盾が生まれるものなのだよ」

「含蓄のある言葉だね。学のないお兄さんにもわかるように説明してほしい」

「え。やだよ照れる」

 初対面のお兄さんに愛を語れるほど顔面ぶ厚くないよ。

 小さな身体に思いと決意を詰め込んで、少女は初夏の陽光の下で朗らかに笑っていた。

 そして、何でもないことのように尋ねた。


「お兄さん、寂しいって何だと思う?」


 加賀谷明良は口を閉じる。

 寂しい。シンプルな言葉だった。学び舎に通う機会を奪われ、あまり言葉を知らない明良にも耳馴染みのよい言葉だ。寂しいって何だと思う。質問を反芻する。己の「寂しい」を反芻する。刹那、ちっぽけな自意識と暗闇の記憶が濁流となって明良の意識を押しつぶしていく。

「自分のことを、誰も――自分さえも、何も知らない、そして理解できないこと、かな」

 そして思い出す。一瞬忘却した呼吸を呼び戻すように。

 濁流の果てに、煌々と強い輝きを放つ、夜闇を導く篝火のような光を。


 それから、二人は一時間ほど言葉を交わした。悪魔と呼ばれた青年と、黒猫を名乗る少女。それは本来なら交わらないはずの二人の、奇跡と呼ぶべき邂逅だった。有意義な会話ではなかった。実りがある訳でもなかった。もしかしたら会話ですらなく、独り言がふたつ折り重なった言葉の連鎖に過ぎなかったかもしれない。

 雨宿り中の獣が二匹、傷をなめあうような時間。

 しかし、本音を表出することが稀な二人だ。特別な誰かではなくとも、自分の言葉が他者に届きうるということを知った、貴重な経験だったと言えるだろう。

「本当に、今度、安寿と友達になりにおいでよ。その時また会おう。今度はちゃんと口説くよ、君みたいな子は結構タイプなんだ」

「うーん、お兄さんはかっこいいけど、僕は軽薄な男はタイプじゃないし」

 それに、小森じゃないからなぁ。

 物静かな木陰の中、恋する少女はそっと笑った。


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