一.南樹苑安寿 side

 南樹苑安寿は怒っていた。

 怒ることが仕事のような少女だ。何も珍しいことではない。正義を愛し人助けを信条とすると豪語するには少々不似合いな、日常と常識への服従を全身で否と唱えるスタイルの中学三年生である。今日も華奢な少女の見た目を裏切る真っ黒の学生服を翻し、初夏の青空の下、怒りをエネルギーに葉澄町を駆け回っていた。

 屋根の上で。

 昨夜の雨の匂いの残る閑静な住宅街。少女はさも当たり前のように屋根の上を飛び回っている。事情を知らぬ者が見たら三度見した挙げ句、白昼夢として処理しそうな光景だ。しかし、葉澄町の人間は、山の麓には日本最高の武術一族・南樹苑前総帥の屋敷が存在していることを知っているので、ぎりぎり日常の範囲内として受け流す。

 雨上がりの水滴が反射し、学生服を舞台ライトのように照らし出している。

 南樹苑直系の問題児、南樹苑安寿は今日も元気にパトロール中である。

 そして、現在この町には、不機嫌な彼女に躊躇いなく火に油を注ぐ男がいた。

「あーんーじゅっ」

 その男は屋根伝いに駆け回る少女に追いつき、ついでのようにその肩に手を駆けて跳躍、野生動物に見まごう四回転の後、華麗に着地を決め、「うわっ!」と普通に叫んで止まりきれなかった安寿を受け止めた。これが全ての狙いではと疑いたくなる、役得とばかりの抱擁であった。

 さすがの安寿も呆気にとられる。オリンピック選手もびっくりの超現実をナチュラルに背負って立ち、加賀谷明良は、安寿と目が合うと何事もなかったように笑いかけた。ただでさえ悪魔に魂を売ったような美貌の持ち主である。十人中十人の女性が卒倒しそうな笑顔であったが、隠しきれない胡散臭さが滲み出ていた。

「離せ」

 我に返って背後に飛び退くと、安寿は重心を下げて威嚇した。彼の接近に気づいていなかったが、殊更に驚きはしない。非合法に創られた地雷のような男だ。いちいち驚いていたら心臓が持たない。

「まだ昨夜の雨粒が残ってるから滑りやすくて危ないよ? 歩道を歩いたほうがいいんじゃないかな」

「お前が言っても説得力ねぇよ」

「僕はいいんだよ。不機嫌だなぁ。僕との勝負に負けたからっていつまでも怒るなよ。可愛い顔が台無しだ」

「うるせぇな、次は勝つ」

「うん。というか何で負けるって分かってるのに僕との勝負を毎度受けるの? そして律儀に毎度怒るの? 罰ゲームもなんだかんだきちんとやってくれるし安寿って実は最上に真面目だよね」

 加賀谷明良は基本的に空気を読まない。安寿が黙って拳を握りかけた時、今思い出したというように明良は指をパチンと鳴らした。

「それより安寿、君にお客さんだ」

「あ? どんな奴だよ。星の姉貴なら俺は行かねぇ」

「星くんじゃないけど似た系統ではあるね。サイズ小さめの可愛らしい女の子だよ。しかし相当な爆弾娘だ、僕は星くん以上の逸材と見た。一般人にしてはなかなかのぶっ飛び具合だよ、きっと君の弱みを握るためなら何でもするね。安寿、これは僕には極めて珍しいことに純粋な善意だ。早く行った方がいい、道場破りをされる前に」

「……はっ」

 安寿は鼻で笑った。

「明良にそこまで言わせるなんてな。知らねぇよそんな奴、葉澄に居たか?」

「葉澄の人間じゃないよ。電車でわざわざやってきたんじゃない?」

 そこまで言われて、安寿は眉間に皺を寄せた。葉澄以外の一般人に知り合いは多くない。ましてや目の前の男にそこまで言わせる人間なんて心あたりが全くない。しかも南樹苑姉妹ではなく、安寿のみの指定というのも謎である。現在、安寿は安音と基本的にセットで行動している。

「まぁパトロールは僕に任せて行って来なよ。昨夜の雷雨の停電で困ってる人がいないか気になってるんだろ? 安音ちゃんとはどこかで合流して話をつけておくからさ」

 安寿を一人で訪ねて来た、葉澄の外から来た人物。

 危険な奴なら追い出さないといけない。大人顔負けと謳われる空手の技術を使ってでも。安寿は強い決意を持って頷いた。



 安寿が到着すると、すでに道場破りが行われていた。

 その光景を視界におさめた瞬間、原因不明の頭痛が走った。他人が創ったルールを守らない故に問題児として扱われている安寿だが、その実、明良の指摘通り彼女は基本的に真面目である。南樹苑家という浮世離れした環境で育ったため、いささか常人と感覚がずれている部分はあるものの、自分の信条から良しとした事由からは決して外れない。

 故に法外な連中を相手にするときは、意外と後手に回ることが多かった。

 びっくり人間の居候とか。

 自由人な叔母たちとか。

 ――突然再来した黒猫とか。

「……どういう状況だ」

 小柄な少女だった。肩口で揃えられたふわふわとした猫っ毛、切りすぎたような短い前髪、真っ黒の簡素なワンピース。年は安寿とそう変わらない。見知らぬ少女が、少年を組み伏せている。空手の道場の真ん中で。他の大勢の子どもたちに見守られながら。ちなみに空手で組み手は禁止行為である。

 南樹苑管轄の葉澄の道場の役割は数多あるが、日曜の昼間は地域の子どもたちに空手を教授する時間だ。師範は何をしているのかと探せば、子どもたちに紛れて偉そうに髭を撫でていた。帰ったら爺さんにチクる。安寿は決心する。

「くっそう!」

 組み伏せられた少年は何やら悔しがっているが一体何で負けたのだか。

 よく見ると星大河という名前の少年だった。噂の星奏海の弟である。

「はっはっは! 言っただろ僕を見た目で判断したら痛い目を見るんだからな! ただの本好き根暗女だと思ったら大間違いなのさ! 空手のルールはよくわからないけど柔道はテレビで見たことがあるから多分なんとなくわかる、相手を組み伏せたら勝ちだ、故に僕は今君に勝利した!」

 高らかに宣言する少女。何やら誇らしげだが、言ってることが怪しい。多分この空間に柔道のルールを理解している者はいない。

 安寿は眉間に手をあてて、ため息をついた。安寿は決して、女の子が僕というのはおかしいだとか、話し方が独特だとかで相手を否定するような度量の狭い人間ではなかったが、さすがに状況の理解が追いつかない。というか空手の道場で柔道をしないでほしい。でもこの様子だと南樹苑が危険に晒されることはなさそうだ。

 しかし、さすがの安寿も闖入者の次の言葉はいただけなかった。

「さぁ、星大河くん、わかったら南樹苑安寿の弱点を教えるんだ」

「はぁ!?」

 思わず叫ぶと、視線が自分に集まったのを感じた。

「仕方ない、約束だからな。安寿くんの弱点は双子の妹の安音ちゃんと、一緒に住んでるかっくいい兄さんだ!」

「お前も普通にばらしてんじゃねぇ!」

 小気味よく突っ込む安寿。星大河のことをなめていたようだと安寿は自分の甘さを反省した。非常識な姉の手綱を握る、しっかり者の少年だと思っていた。意外とノリのよいタイプだということを忘れていた。血は裏切らなかった。

「ほうほう……家族が弱点か。情に厚いタイプだね。よかった、その手の人間は攻略が割と簡単だ」

「あぁ?」

「ということだ、聞いていたな。首を洗って待ってろ、南樹苑安寿!」

 犯人を指差す名探偵のごとくのポーズを決める少女だったが、やってることは立派なヒールである。

「いや、そもそも誰だよ、お前。水嶋家の前で会った奴だよな?」

 数ヶ月前、水嶋家の前で変わった少女を見つけた。表と裏が裏返ったような少女だった。見た目は普通だ、気配も普通。庭の隅の木陰のような暗い瞳。しかしそれは表層上の取り繕いに過ぎなかった。少なくとも南樹苑姉妹にはそう見えた。

 化けの皮を剥がしたら、こうなるとはさすがに予想できていなかったが。

 確か、当時は自分の事を「私」と呼んでいたはずだ。口調も全然違う。

 この数ヶ月で一体何があったのか。

「覚えててくれたの、安寿くん。嬉しいよ。今日は君にお願いを聞いてもらうために弱点を探りに来たの」

「何から突っ込めばいいか迷うけど、少なくとも本人に言う台詞じゃないからなそれ」

「あのね、僕ね、とある事情でどうしても」

 そこで、謎の少女は照れたように笑った。年相応の可愛げに似た隙が垣間見える。

 安寿はつい状況を忘れて毒気を抜かれた。

 ……束の間のことだったが。


「どうしても、友達がほしくって」


「普通に頼め!」

 叫んだ。腹の底から。

 そして叫びながら理解していた。一人で南樹苑の道場に乗り込む度胸、自分のペースに引き込む話術。そして子どもじみた目的。悪魔の子どもの破滅的なままごとのようだ。なるほど、明良が星奏海以上だと言ったのも頷ける。好奇心旺盛と猪突猛進がタッグを組んだだけの彼女が可愛く思えてくるほどだった。

「え、でも僕と友達になって君にメリットが」

 少女は目を白黒させている。

「俺たちは無償奉仕を厭わないって言わなかったか!? 純粋な善意をもっと信じろ、お前さては友達いないな? ちゃんと愛されて育ったか!?」

「鋭いね安寿くん! 物心ついた時から虐待されて育ちました、でもそいつもう死んだから安心してね」

「重すぎる事情を大勢の前で朗らかに話すんじゃねぇ!」

「まだ背中に痕あると思うよ、見る?」

「見ない!」

 安寿は突っ込み疲れて息切れしていた。

「もういい、お前の言い分はわかった。友達にはなってやる、だから今日のところは引き下がれ。そして練習の邪魔をするな」

「ほんと、嬉しい! メルアド教えてくれる?」

 何やらワンピースからつやつやとした携帯電話が出て来た。期待のこもった眼差しで見つめられるが、安寿には眉をひそめることしかできない。

「あいにく文明の利器には頼ってない」

「え」

「だから、携帯電話なんて持たねぇよ。俺を誰だと思ってる、南樹苑一家の」

「安寿くんの馬鹿!」

 シンプルに罵倒語だった。安寿にそんなことを言えるのは、同等の戦闘力を持つ双子の妹くらいだ。空手少年たちは皆で仲良く口をあんぐり開けた。そして視線を安寿へそっと移動させて嵐の予感に身を震わせた。

 その場の緊張感を完全無視して、尚も少女は叫ぶ。

「原始人! 友達じゃない!」

 自分から誘っておいて秒で振る。理不尽の極みである。

 三秒後、突然の闖入者に振り回されきった安寿が、もう帰れと叫んだのは言うまでもない。



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