〔 三 決壊 〕

 馬を路肩につけると、僕は地面に降りた。前を走っていたカノンの傍に行くと、石が積まれることでできた砦を仰ぐ。朝靄に紛れて、こんなに近くにいるのにぼんやりとしか見えない。

「……おかしい」

 同じように砦を見上げたカノンは、横でポツリと呟いた。僕に何が、と訊く間も与えず、すぐに身を翻すと砦の門に向かって歩いていく。慌てて着いていって、門をくぐったところで、僕は反射的に身構えた。

 視線。けれど、門に並んだ視線の主である鬼族の兵士は、何もせずこちらを見つめている。僕を見て、視線は敵意から物珍しいものを見る目つきにかわった。この視線には慣れていると言っても、落ち着かない。

「……カノン」

「行くわよ、着いて来て」

 カノンは彼らの存在を入る前からわかっていたように、彼らを一瞥もせず走り出した。正式な広い廊下ではなく入り組んだ裏の道を通り、階段ではなく隠れ梯子を使って、迷いなく進んでいく。

 カノンが向かった先は、二階にある応接間だった。誰もいない。

「間に合った……」

 その時、扉の向こうから話し声が聞こえた。隊長たちの声だったので待とうとしたら、カノンが僕の手を掴んだ。そのまま銅像の陰に僕を押し入れ、自分も隣に座る。何か言おうとした時扉の音がして、とっさに口をつぐんだ。誰かが入ってきたらしく、二つの足音が近づいてきて、遠ざかる。

「入れ」

 隊長の声だった。それから隊長たちが入ってきたのとは別の、南側の扉から誰かが入ってくる。人数は多い。足音や金属が擦れる音から察するに、武装した兵士だ。位置に着いたのか静まると、カツカツ、とやけに余裕のある足音が一つだけ響いた。その足音が止まると、男の声がする。

「決断を下すのに随分時間がかかったようだが。どうだ、砦を明け渡す準備はできたか? まぁ、こちらとしてはどちらでもいいんだが。今ここで戦うにしても勝敗は目に見えているしな」

 僕は思わず身じろぎをした。僕らの言葉を達者に使っているが、この抑揚は鬼族だ。やはり、あちらはもう捕まった白皇隊の兵士から僕たちの言葉を覚えたのだろう。

 静かな、隊長の声がした。

「……要求を呑もう」

 おそらく、ここで鬼族の男はニヤッと笑っただろう。

「では、今すぐここに、砦にいる者を一人残らず集めろ。変な真似を一人でもすれば、容赦はしないということをよく肝に銘じさせておけ。大部分は見逃してやるが、お前を初めとする一部はわたしたちの国に捕虜として連行する。そして、今までの戦いで捕虜として地下牢に閉じ込められている我らが同志たちの解放を求める」

「承知した」

「それと、あと一つ。お前らが代々隊の象徴として崇めている純白のドラゴン、あれは砦に残しておけ。この間送り込んだ者たちは、結局帰って来なかったが、それはまぁいい。元々あれは失敗しようとすまいと構わなかったのだ」

 くっくっく、と男は悪役っぽく笑う。

「白皇竜には不思議な力があるという。その力を、我らにも分けてもらいたい。わかったな? 白皇竜は置いてゆけ」

「……白皇様なら、いらっしゃらない。お前たちがさらったのではないのか?」

「いいや? フン、まぁいい。後で砦を調べさせよう。お前たちは先に砦から退去しておけ。しかしいつでもわたしたちの槍の切っ先がお前たちに向いていることを忘れるな」


 僕たちは、とにかく動かずにいた。ここで飛び出していったところでどうにもならないということがわかっていたからだ。そして時が経ち。

「……行ったか?」

「みたいね」

 銅像の陰から、僕たちは部屋の外に出た。もう誰も残っていない。仲間はもう鬼族たちに連れられて、応接間から出て行った。

「やばいわね」

 カノンが呟いた。考えるように顎に手を持っていく。

「とにかくやばいわ……どうしたらこの状況を覆せるか」

「あぁ。……ん、ちょっと待て。砦を明け渡すということは、書物室にあるルーク王国の地図や書物も明け渡すということか?」

「そうね。こちらにとって鬼族の国が全くの未知であるように、ルーク王国の全貌はあちら側にも知られていない。ルーク王国のことについて知られるのは、それこそやばいわ。誰かが機転をきかせて処理しておいてくれればいいんだけど」

「無理だろ。変な真似をすれば容赦はしないって脅されてるんだぜ」

「どうする?」

「決まってるだろ。僕が行ってくる。カノンは隊長の下へ行ってくれ」

 カノンがこちらを見上げた。相変わらず落ち着いた静かな目に真っ直ぐ見つめられる。

「捕まれってこと?」

「そうした方が一番手っ取り早いかもしれないな。とにかく、もうすぐ軍が来ることを伝えるんだ。鬼族が着いているから直接言うことは無理かもしれないけど、剣を鏡として使っても、通信信号を使ってもいいし」

「…………」

 何か言うかと思ったが、カノンはふっと僕に視線を外して、黙ったままこの応接間から出ていった。僕の役割の方が危険だと、よくわかっているのだろう。カノンは聡い。言っても無駄だとわかっているのだ。

「さてと」

 誰もいなくなった応接間で、僕は一人、カノンが出てきったのとは別の扉から廊下に出る。そして自分の部屋に向かっていった。



 音がして、僕は作業を止めた。

 扉を隔てた廊下から足音がしたのだ。耳をそばたてると、確かに足音が近づいてきている。この様子だと、おそらくここを通る。足音の多さからして、捕虜とされた隊長たちかもしれない。

 僕はぐるりと部屋を見回した。書物室はぎっしりと書物で埋め尽くされていて、目の前の壁に、取り外そうとしている途中だった、石版で作られたルーク王国の地図が掛けてある。

 音をたてないように目を瞑って壁によりかかり、みんなが通り過ぎるのを待つことにした。

 足音が近づいてくる。しかしその時、とても間の悪いことに――とれそうになっていた地図が、ぐらっと揺らいだ。慌てて手を伸ばすが、それはそのまま石の床に落ちていき。

 ガラ――ン、と音が響いた。

 反射的に、弓を番えて扉の方向に向けた。少し話し合っているような声がした後、扉がゆっくりと開く。僕は相手の顔を見ることもなく、扉が完全に開く前に弓を放っていた。

 一瞬の静寂。肩に弓を生やし、がくりと倒れた一人の鬼族の男を挟んで、僕と鬼族の兵士、白皇隊のみんなの視線が交錯する。相手はいきなりの出来事にあまり状況を飲み込めていないようだった。僕だって同じようなものだ。

 一行の中に、一人異様に目を光らす少女、カノンの姿があった。すぐ近くに、どことなく疲れた目をしているが、いつもの冷静さを欠いてはいないダグラス隊長も見える。二人はチラと目を合わすと、同じようにふっと笑った。彼らが親子だと感じる、瞬間だった。

 次の瞬間、二人は背中の真空刃に手を伸ばし――それが引き金になったのか、みんなが一斉に動き出した。カノンがぶん、と真空刃を振るい、あっという間に戦いの渦が広がっていく。狭い廊下から抜け出すように、ダグラス隊長が先頭を切って外に向かった。白皇隊のみんながそれに続き、鬼族たちも追っていく。

 僕は自分がぼーっとしていたことに気づき、慌てて地図を取り外す作業を再開した。しかしすぐにぞわり、と背筋が凍る。反射的に床に転がった。

 僕が回避したことにより、剣は近くの本棚に刺さった。振り返ると、僕がさっき射倒した鬼族の男が嫌な笑みと共に壁に手をかけ立っていた。鈍く光るオレンジの目、そこにははっきりと僕に対する殺意が宿っている。

 もう一つの剣をそいつは振るう。僕はもう一度転がることで回避する。やっと立ち上がったその時、すぐ目の前に鋭く光る刃があった。僕は反射的に体を反り飛び退いて避ける。そして。

 視界に鉛色が広がった。

 ふわっと浮いたような感覚があったのは一瞬で、すぐにまっさかさまに落ちていく。

 そして悲鳴をあげることもなく木に激突し……意識がなくなった。



「お、目が覚めたか?」

 まず視界に映ったのは、ヒースクリフの顔だった。

「わあ!」

「うわっ」

 僕が跳ね起きると、ヒースクリフは向かいの木の上に飛び乗った。いちいち身軽な奴だ。

「おい少年、落ち着け。そして今の状況を確かめろ」

 確かに、よく見ると僕は木の上にいるようだった。どうやら、あれから……二階の窓から誤って落ちてから、僕は気を失ってしまったらしい。辺りは薄暗くなっていた。どのくらい気絶していたのだろう。

「カノン……」

 そう呟いて僕は真の意味で覚醒し、木の上から飛び降りた。

「一体どうした、そんなに慌てて」

「みんなはっ! みんなは、どうなったんだ? それに、カノンは今どこに」

「あぁ、大丈夫だ。あれから残りの軍が駆けつけて、どうやら王国に連行されることだけは免れたみたいだぞ。まぁ、砦を取り戻すことはできなかったみたいだが」

「じゃあ、カノンは?」

「カノン・ジュラか。お前を探しに砦に残ったぞ。そういえば少年、お前は何故ここにいるんだ。砦の中にいるんじゃなかったのか」

「え……」

 その時、僕は違和感を感じた。違和感――そう、最近何度も経験した地の揺れ、しかし小さい。

 刹那。

 ぐらり、と世界が揺れた。

 まるで地鳴りのような、いや、太陽が襲ってきたらこんな感じなのだろうと予想させるような、僕の経験したことのない巨大な音。

 おそらく、どこかで地面が割れている。

 おそらく、どこかで崖が崩れている。

 おそらく、どこかで何かが呑まれている。

 僕らの意思は関係無しに、あたかも存在しないかのように。その巨大な絶対の力によって。今、この瞬間。

 そして。

 決壊。この二文字が僕の頭の上に浮かんだ。僕たちの目の前で、砦はガラガラと崩れていく。

 揺れが収まった時、僕たちの目の前にあるものは、支柱は折れ、建物の半分はただの瓦礫と化している、今まで僕たちが住んでいた砦の姿だった。

「呆気ないなぁ、おい」

 他人事のようにヒースクリフが呟く。

 何が起きたのかわからなかった。空は変わらず鉛色。けれど、目の前の景色はほんの数秒前と比べ、全く変わっていた。

 荒れ果てていた。

 それしか形容しようがないほどに。けれど、今の僕に崖の下の有様について長い間思考を向ける余裕などあるはずもなく。

「カノン……」

 呟く。呟くと同時に、頭がはっきりしてきた。今、どういう状況なのか。立ち上がると、僕は何も考えず、砦に向かって駆け出した。


 瓦礫の隙間を探して、僕は中に入った。おそらく、カノンが知ったら呆れる。いや、怒るだろうか。

 中に入ると、何本かの柱がぎりぎりの状態で二階と三階を支えているのがわかった。既に倒れているものもあり、そこは崩壊している。あの下にいたら――おそらく、もう助からないだろう。

「カノン――!」

 願うような気持ちで、叫ぶ。この声に彼女が答えてくれることを祈りながら。

 頭の隅で、こんなことを思った。やっぱり、あの時、引き止めておけばよかった、と。

 育て親だった祖父母を亡くして、空は暗雲に覆われ国は混乱し、父親はずっと帰ってこず。そんな状況の中、彼女が言った言葉は、白皇隊に入ろうと思う、だった。

 彼女の意思が固いことはわかっていたから、僕は迷わずカノンに着いていった。僕も王国を救いたいとか何とか綺麗事を言って。本当は、僕にとって第一はカノンで、王国なんてどうでも良かったのに。カノンに戦ってなどほしくなかったのに。

 僕にとってカノンは、この上なく大切で大切で、いなくなるなんて考えられなくて。

 友情という言葉では収まりきらない、傍にいたい、という強い思いは、恋愛感情に近いものもあるかもしれない。けれど、それだけだ。同じ感情を求めることはない。それでも、好きだった。強く美しい、けれど目に陰りのあるあの少女を。それこそ、彼女がいなければ、生きていけないくらいに。

 なのに、なのに、なのに。

「カノン――っ!」

 叫ぶ。僕の声は、少し響いて、すぐに消えていった。前には瓦礫の山。僕の力ではどうしようもない。ここから先に進むことは、できない……。

 もうどうしようもないのか。これでジ・エンドなのか。どうしろと言うんだ。今までカノンしか見えなかった、どうしようもない僕なのに。

「はは……」

 不覚にも涙が零れた。あぁ、明日は何をすればいいんだっけ。希望なんて、もうない。全てがおしまいだ。あれほどまでにカノンが救いたいと思っていた王国も、何もかも……。

 カノンが死ぬ。

 いきなり、この言葉が脳内を貫くように走り、僕ははっと目を見開いた。勢いよく目を拭うと、立ち上がる。

 砦の残骸に手をかけると、よじのぼった。やっとの思いで向こう側に行くと、僕は金色を視界に捉えた。

「カノン!」

 駆け寄ると、倒れているカノンを抱き起こす。その側では真っ二つに折れた真空刃と、半柱が転がっていた。一体何をしたのだろう。

 僕に気づいたのか、カノンが薄く目を開けた。

「……ヨセフ」

 あぁ、頼むから喋らないでくれ。懇願するように思う。けれど、それは言葉にならなかった。目の前がぼやけて、今、カノンがどんな表情をしているのかすらもわからない。

「……地下室」

 地下室? 僕は目を擦ると、顔を上げて辺りを見回した。そして、カノンが言ったことの意味をゆっくりと理解する。

 どこまで行っても、カノンはカノンだった。

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