【 その二 ナーガ 】

「わぁ~~~!!」

 清々しい朝の空気を、悲鳴がつんざいた。それと被るようにアカリが吼える声。驚いて窓の外を見ると、紐で繋がれたアカリが勇希くんに襲い掛かろうともがいているところだった。勇希くんは、完全に腰が抜けてしまったのか、尻餅をついたまま震えている。

 勇希くんともあろう者が、今日は宿敵に見つかってしまったらしい。

「勇希くん!?」

 窓を開けて叫ぶと、勇希くんはこちらを見た。しかし、声はなくぱくぱくと口を動かすだけだ。

 何でそこまでアカリに怯えるんだろう。

「しょうがないなぁ」

 私は窓をまたぐと、木の上に飛び乗った。そのまま下の枝に飛び移ると、軽く幹を蹴る。

「いよっと」

 着地。私は走ってアカリに近づいていくと、紐を持った。アカリが私に気づいて、少し唸り声が小さくなる。

「アカリ、お座り」

 渋々と言った感じでお座りをするアカリ。

「ハウス」

 自分の小屋に戻ることを命令すると、アカリは不服そうに私を見た後、勇希くんを一睨みして去っていった。賢いけど、気の強い奴なのだ。

「さ、さすが真緒。猛獣を手なずけるその技術と勇気、彼の勇士アン・ボニーにも匹敵する……」

 何かよくわからないことを言っている勇希くんが立ち上がるのを手伝うと、勇希くんはいつもの表情に戻りつつあった。

「で、真緒。あれはどうしてる?」

 私は頭を押さえた。今も私の部屋でのうのうと眠っている、あいつのことを思い出したのだ。そりゃあ、あれのお陰で化け桜を見に行かずに済んだのは、ありがたいことなんだけれども。

「あれねぇ……」 

 本当に、あんな厄介事、御免蒙りたいのに。


 部屋に行くと、私は押し入れを開けて、一つのダンボール箱を出した。いきなり光を浴びてびっくりしたのか、眠っていたそいつは目を開けた。何回か目を瞬かせる。

「お、いたいた。ナーガ、元気にしてたか?」

「ナーガ?」

「こいつの名前。一晩かけて考えたんだ。かっこいいだろ」

 勇希くんはそう言って笑ってみせた。すごく生き生きとしている。

「竜の起源となったとも言われてる蛇の神様だ。姿は、人魚の魚の部分が蛇になったって考えてくれたらいいと思う」

 ……気持ち悪。

 私は感想の方は胸の内に留めておいて、話を進めた。

「それでさ、こいつ、何食べるのかな。昨日から何も食べてないんだよ。赤ちゃんだからってことで牛乳あげてみたんだけどね。やっぱ、お母さんのじゃないとだめなのかな」

「ふむ」

 勇希くんは腕を組んだ。大真面目な顔で私の顔を覗き込んでくる。

「時に真緒は、小野妹子という歴史上の人物を知っているか?」

 何なんだ、急に。

 バカにしないでほしい。私だって、小野妹子くらい知ってる。

「小野小町の妹さんでしょ」

「なるほど。続けて訊くが、小野小町というのはどういう人か知っているか?」

「江戸時代に生きてた、絶世の美人だよ。傘屋兼女優さんで、米を作ってる農家の娘さんだったんだよね」

 これくらい常識だ。

 すると、勇希くんは何度も頷いて、急に背中を向けた。よく見ると、その背中が細かく震えている。笑っているのだ。

「何! 何か私変なこと言った!?」

「……いや、別に。うん、それでいいんじゃないか」

 勇希くんは深呼吸をすると、振り返った。その顔は真顔だが引きつっていて、物凄く今無理をしているのが伝わってくる。私に気を使っているのだろうか、あの笑い上戸の勇希くんが全神経を使って笑いをこらえようとしているのだ。

 少し落ち着いてくると、勇希くんはしみじみと呟いた。

「そうだよな。真緒はまだ中学生にもなってないんだよな」

「一週間後に中学生になるけどっ! あんまり子ども扱いすると怒るよ!?」

「まぁまぁ、落ち着いて」

 勇希くんは私をなだめると、足を組んだ。

「真緒のためにも言っておくけど、セキツイ動物っていう背骨を持ってる生物は、魚類、ハ虫類、両生類、鳥類、ホニュウ類に分けられるんだ。そのうち体が鱗で覆われているのは魚類とハ虫類で、卵を産むのがホニュウ類以外。カモノハシとかの特殊な生物は別にしてな。ちなみにこれは中学二年生で習う」

 ……だから?

「だからさ、えっと……」

 勇希くんは視線を泳がせた。

「卵を産む生物、っていうかハ虫類は、大抵始めから虫とか、そういうものを食べるんじゃないか?」

 ……うん、勇希くんの言いたいことはわかった。そうか、そりゃあ、ハ虫類は牛乳飲まないよな。

「ドラゴンって、実はハ虫類だったの?」

「だって、背骨があって、鱗に覆われてて、生まれるのも死ぬのも陸上で、卵生なんだぜ? 翼と爪を持ち、火を吹く巨大なハ虫類って、その手の本の説明でも書いてあるし」

「難しいことはよくわかんないけど。勇希くんって、時々現実的な思考するよね」

「オレも言ってて悲しくなってきた」

 何故かしんみりした空気が部屋を流れる。けれど、ナーガのくしゃみで勇希くんがはっとした。

「そうだ、だから今日はこれをもってきたんだよ」

「何々?」

 身を乗り出して、勇希くんが持ってきたものを見たのが運のつきだった。

 かごの中に、うにょうにょした何匹かの生き物。

「きゃああ~~~!!」


 別に、私だってミミズがこの世にいなければいいなんて思っているわけじゃないのだ。ミミズがいるからおいしい野菜が食べれるんだってことくらい、私も知ってる。ミミズがいるからスズメとかホトトギスが生きていられるんだってことも、知ってる。

 だけど、あのうにょうにょ感といい、ぶにょぶにょ感といい、うじょうじょ感といい、あぁ、言ってて気持ち悪くなってきた……。

 だめだ。生理的に受け付けない。触るのはもちろん、見るのも触っている人を見るのも嫌だ。雨の日とかはもう最悪。何故って、水に浸かってぶにょんぶにょんになったミミズの死骸が……あぁもう言いたくない。

 私がそう言うと、勇希くんは決まって、

「何が怖いんだよ。ミミズなんて真緒の百分の一以下だぜ。それよりか、ミミズの方が真緒を怖がってるって」

 と言う。でも、勇希くんだってミニチュアダックスフンドのアカリを怖がるから、偉そうなことは言えないはずなのだ。

 っていうか、ミミズは怖いっていうか気持ち悪いんだよね。

 って、何言ってるんだ、私。話を続けなければ。


「おっ、食べた! 食べたぞ、真緒!」

「……言わなくていいよ、勇希くん」

 私は部屋の隅で、体操座りをして勇希くんたちに背を向けている。あいつがミミズを食べているとこを想像しただけで、眩暈が……。

「うわっ」

 勇希くんの声と同時に、バサン、と風の塊がこっちに押し寄せてきた。風が去った後、後ろを見ると勇希くんが腰を抜かしてる。ナーガをまじまじと見て呟いた。

「お前、すっげーな」

 ナーガの方は、そしらぬ顔でうとうとしている。どうやら、さっきの風はナーガが作り出したものだったらしい。

「勇希くん、後で散らかった部」

「そうだよな、竜っていうのは自分の重い体を宙に浮かせられるだけの強い筋力を持っているんだもんな」

「ゆ、勇希くん。部屋を片付けるの手伝」

「それは子供でも同じなはず、か。じゃあこいつはいつ頃飛べるようになるんだろう」

「手伝ってってば――!」

 勇希くん、無視。いや、本当に聞こえなかっただけなのか。んなアホな。

「ねぇ、勇希くん。これからどうするの?」

 まさか、今のままずっとドラゴンを飼い続けるのはできないだろう。ドラゴンがどのくらい大きくなるのかは知らないけど、私が今まで読んできた本を参考にすると、この部屋よりは大きくなるだろうってことは、簡単に想像できる。けど、大人はこういう時、絶対頼りにならないって決まっているのだ。

「成るように成るさ」

「無責任だな~」

「大丈夫、大丈夫。なー?」

 勇希くんはナーガの頭をくしゃくしゃっと撫でて、同意を求めた。キャン、と鳴くナーガ。けれど、次の瞬間、勇希くんの動きが止まった。よく見ると、勇希くんの指をナーガがくわえている。ブン、と勇希くんが右へ手を振ると右へ、左へ振ると左へ。

「ゆ、勇希くん……」

 勇希くん、一応笑顔を保っているけど、その背中がよく見ると震えている。私は付き合いが長いからわかるけど、これは相当痛みと怒りに耐えてる時の反応なのだ。

 私がそろーりと耳に手を当てた瞬間、どなり声がした。

「このアホトカゲ! さっさと離しやがれ!」

 態度が急変した勇希くんを見て、ナーガがぱっと口を離した。目をうるうるさせる。そして、泣き出した!

 ナーガとしては遊んでいるつもりだったのかもしれない。ほんとに、人間の赤ちゃんと同じだ。

「ちょっと勇希くん、どうするの!」

「……ごめん」

 怒られた犬のようにしょげかえる勇希くん。

「オレ、これで何回か真緒泣かせてるんだよな」

 うん、赤ちゃんの時から、結構最近まで。普段は優しい勇希くんも、時々人が変わったようにキレる。

 私はチラとドアを見た。これ以上泣かれると、お母さんが来るかもしれない。

「あぁ、もうっ」

 私はナーガを抱き上げると、お母さんがやるみたいに揺すった。初めは泣き続けていたナーガも、段々泣き止み始めた。最後には、私を指差すようにして笑う。

 こいつ、人の顔を見て笑うとは失礼な。

 落としてやろうかと思った時、勇希くんが歓声を上げた。

「おぉっ、すげー! さすが真緒!」

 えっへん。どうだ、すごいだろ!

 その時、ギャウ、とナーガが鳴いた。物欲しげに腕を伸ばしているので、そちらの方へ行ってみると、くまのぬいぐるみがあった。

「これ?」

 手に取ると、渡す。すると、ナーガはかぷりとくまの足をくわえた。私の腕を擦り抜けて床に落ちると(翼を広げてパラシュートのようにした、こりゃ便利)、のそのそとダンボールの中に戻っていく。何をするかと思えば、そのまま寝た。もちろん、私のくまのぬいぐるみの足をくわえたまま。

 私は黙って、無残な姿になったくまのぬいぐるみを見下ろした。私の拳がふるふると震えているのを見た勇希くんが、まぁまぁとなだめる。

「これで大人しくなったんだしさ。な? 大人で行こうぜ、大人で」

「…………」

 一瞬殴りかかろうかと思った私だけれど、幸せそうに眠っているナーガを見たら、力が抜けていった。うつむいた勇希くんはもう一度、な? と言って私の顔を覗き込んでくる。

 ……ま、いっか。

「勇希くん、部屋を片付けるの手伝って」

「あ、オレ、この後用事があるんだった。じゃあな」

 嘘だ……。暇人の勇希くんが用事だなんて……。

 私は部屋を出て行く勇希くんを、慌てて追った。



 勇希くんを送って部屋に戻ると、見慣れない人がいた。

 若い男の人。緑色のスカーフを首に巻いていて、背が高い。その人はしゃがんで、ナーガと向かい合っていた。

「あ? なるほどね。………うん、だろうな。実際、俺もよくわかんないし。……うん、うん、わかったって。だから、お前はそれまで大人しくしておけよ?」

「…………」

 話している。ナーガと、普通に会話をしている。

 って、その前に不法侵入者!

「きゃ……」

「シーッ」

 私が悲鳴を上げようとすると、腕で口を塞がれた。一体いつの間に私の背後に移動したんだろう? 

「ちょっとお嬢さん、とりあえずここは静かにしよう。ここで叫ぶと、俺は構わないがお前にとって都合が悪くなる」

「…………?」

 その人は私が静かになったのを確認すると、パッと腕を離した。

 けれど、どういう意味だろう? 私が騒ぐと、この人じゃなくて私にとって都合が悪くなる? まるで、自分がいつでもこの部屋から出て行けるみたいな言い草だ。それで、私の頭がおかしいと皆に言われる状況になると言うような……。

 いや、そういうことじゃない。私はダンボールの壁に顎を乗せてこちらを見ている、白いドラゴンに気づいた。ここで人を呼べば、ナーガのことがバレるということを言っているんだ、この人は。

 一体、何者?

「俺が誰かって? ふむ、誰だろうな。英語で言えばWho am I ? だ」

「へ?」

 自分のことを誰だと言ったその人は、腕を組んで考え始めた。

「本当の姿も名前もないし……一箇所に留まることもないし、年をとることもない。果たして俺は死ぬのだろうか? さて、お嬢さん。一体俺は何者なんだろうな?」

 謎だ。謎過ぎて、どこからつっこんでいいのかすらもわからない。

「あの、その前にお嬢さんってやめてほしいんですけど」

「それは失礼、井伏真緒」

 何で知ってるんだ、私の名前。

「何の用? あ、もしかしてナーガの仲間?」

「うーん、そうであって、そうではない。この世界の住人ではない、という点においては同じだが、俺が自分の住む世界を持たない〈浮浪者〉だということに対して、ナーガは自分の世界から、割れ目に落ちて、ここに来てしまった者だ。けれど、もうその割れ目は閉じてしまった。それで、今ナーガは生まれた場所に帰れなくなっている」

「何それ、じゃあ、ナーガは勇希くんがよく話す、妖精とかの想像上の生き物が住んでるファンタジーランドから来たってこと?」

「……まぁ、そんな考え方でいい。しかし、ナーガが来たのはお前たちの世界と同じような世界だ。他に影響させられることなく、確立している一つの世界。君たちと同じような人々が暮らしている」

 難しい。

 けれど、私は自分がその人の話に何の疑いも持っていないことに気がついた。勇希くんと違って、私はその手の話を全く信じていなかったけど、ナーガが来てから私は自分の神経が鈍感になっている気がする。

 その人はもう一度しゃがんでナーガと目を合わせた。きょとん、とした瞳でその人を見るナーガ。

「本当は、俺は自由気ままに放浪するのが好きなんだけどな。今回は、ある人物から頼まれ送り込まれてきたんだ」

「ある人?」

「人は彼女を〈一律の番人〉と呼ぶ。世界を管理し、守る役。世界には、ここ意外にも多くの世界が存在していて、それらは番人が住んでいる世界を中心に太陽系のように軌道を描いて回っているんだ。お前が住んでいる世界は、さしずめ金星か地球だな。そんな風に成り立っている世界だが、ある時木星と金星が一瞬掠った」

 ……何か木星と金星の間には二つくらい星があったような気がするんだけど、それは気のせいだろうか?

「だから、例えばの話だよ。その掠ったところに存在していたのがたまたまこの白皇竜、ナーガだったって訳だ。こんな事体になったことに、あいつも一応責任を感じてるみたいでな。どちらにしろ、このまま行けば不純物が入り込んだお前の世界の軌道は、完全に狂うことになるだろうから、近いうちにどうにかしないといけないんだが」

 ってことは、いつかは必ずナーガは私たちの手の届かない遠くに行っちゃうってこと? 自分の胸がズキン、と痛んだ。

 いやいや、これは決して私がナーガがいないと寂しいって思ってるわけじゃなくて、ナーガがいなくなったら勇希くんは寂しがるだろうなぁ~と思っての……。

「彼女は〈一律の番人〉だが、ある世界の住人もあるから、身動きが取れないんだ。そこで、俺を呼んだって訳さ。でも、俺だってどうすりゃいいんだか」

 わざとらしく肩をすくめてみせたその人は、そこで何かに気づいたように、ピクッと肩を上げた。何もないはずの窓の外に視線を移す。

「……呼んでる」

「え?」

「すまない、ナーガを元の世界に返す方法を思いついたらまた戻ってくる」

 その人はぶらりと立ち上がると、勇希くんのように窓の縁に座った。

「ということで、俺はここで去る。さらばだ、井伏真緒」

「あんたなんかに名前を呼ばれる筋合いはないっ!」

 叫ぶと、その人は愉快そうに笑った。一つきざっぽく手を振ると、窓の縁を掴んでた手を離す。……離す。離した。窓の縁を掴んでた手を。

「ちょっ!」

 慌てて窓に駆け寄って下を見る。けれど、そこには誰もいなかった。

 とりあえず死体がなかったことに安堵。何だったんだろう……さっきの人。けど、とんでもない奴だった。

「もう来なくていいからねっ」

 誰もいない窓の外に、べーっと舌を出す。すると、何故か勇希くんと目が合った。この部屋に入るつもりだったのだろう、木の上できょとんとしている。

「……忘れ物をとりに来ただけなんだけど。そうか、そんなにオレが嫌だったのか……」

「勇希くん、誤解っ! 誤解だってっ!」

 井伏真緒、人生最大の汚点! 勇希くんに向かってあっかんべーをしてしまうとは!

「……いや、いいんだ。真緒がそういう気持ちなら、オレは別に無理をする気はないし。荷物はオレの家のポストに入れておいてくれ」

 力なく手を上げてすごすごと去ろうとする勇希くん。勇希くん、意外に打たれ弱いんだよね。

「勇希くん、ちょっと待って!」

 私は慌てて窓を跨ぐと、勇希くんを追うために木の上へ飛び乗った。

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