〔 二 罠 〕
上を見上げると、枝葉のない木の枝が見えた。蟻に食われ、今にも倒れそうな一本の木。こいつは生きているのだろうか。それとももう死んでしまっているのだろうか。
空は、相変わらず暗かった。いつから、この国には光が差さなくなってしまったのだったか。目を瞑ると、幼い頃の記憶が蘇ってくる。
抜けるような青空の下、カノンが家の裏の花畑で笑っていた。僕は慌ててその背中を追いかける。その頃はまだ、空は青かったのだ。
あの日々に戻ることは、おそらくもうない。
「おい、ヨセフ!」
振り向くと、野営地の骨を持った同じ第一軍の仲間がいた。自分が働きもせずにぼーっとしていたことに気づき、怒られると思って首をすくめたが、彼は気づいていないようだった。
「カノンはどこだ? 見当たらないようだけど」
「わかった、探してくる」
逃げるようにしてその場を後にする。もしかして少し不自然だったかもしれない。
命を受けた翌日、僕たちは仲間と一緒に情報があったシダヤ山脈に向かった。鬼族たちがどこにいるかもわかっていないから、今日中には帰れないだろうと野営地をシダヤ山脈の木々に囲まれたある場所に張ることになったのだ。
木々の間を幾らかくぐると、水の音が聞こえた。音がする方に向かって歩いていくと、急に視界が開ける。
一瞬、時が止まったかと思った。
カノンがいた。カノンが、長い髪を風になびかせて、佇んでいた。
小さな水の流れが山の麓に向かっていて、その近くに、芽が一つ顔を出している。それをカノンは無言で見つめていた。その表情は複雑で、彼女が喜んでいるのか、はたまた悲しんでいるのか哀れんでいるのかはわからない。けれど、その姿に自分が息を飲み込んだのはわかった。
僕は、見とれているのだろうか。ぼんやりと頭の片隅でこう思う。幼い頃からずっと一緒にいたこの少女に?
神秘的な、立ち入ることを許されない空気。全てを受け入れるようでいて、全てを拒む雰囲気。何故だろう。彼女は一人の戦士だし、背ではそれを示すように鞘にしまわれた真空刃が光っているというのに。幾つもの命をその手で奪ってきた彼女の目には、もう表情が宿ることはないのに。今、僕は彼女を誰よりも綺麗だと感じた。
「よお、少年」
いきなり後ろから声をかけられて、僕は必要以上にびくっとしてしまった。そんな僕をからかうように、声をかけてきた人は僕の顔を覗き込む。
「何だ? 俺に気づかなかったか。おいおい、そんなことでどうするんだ。お前は仮にも白皇隊第一軍の戦士だろう?」
「……誰だ」
知らない人だった。よく通る声は耳に心地よい。背はひょろりと高く、首元には鮮やかな緑色のスカーフが巻いてある。若者、青年、こんな言葉が似合う年代。僕より少し年上だ。
「俺を知らないか。まぁ、無理もない。俺はヒースクリフ。お前と同じ白皇隊の第一軍だ。この間の兵の増員で白皇隊には入ったばかりだからな、お前は知らないだろう」
「でも、砦を出てからここに来るまでの旅の間、僕はあんたを見なかったけど」
「見てるんだな、これが。考えても見ろ、ここはルーク王国の端の端、シダヤ山脈だぜ? 白皇隊の人間以外、誰がいるっていうんだ。それとも、俺が鬼族に見えるか?」
ヒースクリフと名乗った男は、そう言って腕を広げて見せた。目元には相変わらず軽薄な笑みが浮かんでいる。
彼は、風景からどこか浮いていた。いや、この世界から、と言った方がいいだろうか。背景の灰色の木々と彼が、僕には全く別の次元のものとして映る。スカーフの緑が鮮やか過ぎるためだろうか。
「ところで、お前はあの少女のことが好きなのか」
彼は、芽を見つめたままさっきからみじろぎもしないカノンを顎でしゃくった。僕はカノンに目を移す。
「好き……というと」
「もちろん、そういう意味だ。友達として好きとかそんな生半可な答えは求めていない。あるかないか。表か裏か。光か闇か。真実か虚構か。幸か不幸か。結局、どんな言葉で紛らわせようと、ものは大抵二つに分類されるのだから」
「…………」
わからない。僕にとってカノンは、誰よりも大切で、かけがえのない人だ。けれど好きかと問われると、困る。
ヒースクリフは、またからかうような笑みを浮かべた。僕の肩に馴れ馴れしく手を置く。
「早く自分の気持ちをはっきりさせろ、少年。でなければ、手遅れになるぞ」
「手遅れ?」
「いつまでも今の状態が続くとは限らないってことさ。あの少女がお前の元から去らないと、何故そう言い切れる?」
「放っておけよ。一体何なんだ、さっきから」
僕は肩に置かれた手を振り払った。キッと睨む。
「カノンがどこに行こうと、僕はカノンの側にいる。カノンが王国の幸せを望み、戦うならば、僕も彼女と一緒に戦う。これは僕の意思だ。人にどうこう言われる筋合いはない」
「そうか」
だめだこれは、とでも言うように、ヒースクリフは肩をすくめて見せた。
「お前も変な奴だな。その上救いようもない馬鹿ときた」
「なっ」
「そんなんじゃ彼女は振り向いてくれないぜ。それに、あんまり献身的になりすぎるのはよくない。自分というものを見失う」
「だから、それが僕の」
「ならばな、少年」
彼は一回ため息をついて、すっと真顔になった。目元に浮かんでいた笑みは消え、真っ直ぐな眼差しが僕を捕らえる。思わずたじろいだ。
「彼女を守れ。命を賭してでも、最後まで守りぬけ」
「……でも、あいつは僕よりも強い」
戦闘能力的にも……精神的にも。
ヒースクリフは、ふっと表情を緩めた。また元の笑みが浮かぶ。
「わからないか。うん、やっぱりお前は馬鹿だな。さて、この馬鹿をどうするか」
「いや、どうもしなくていいんだけど」
「ま、とりあえず俺の言葉は覚えておけ。どこかで役に立つかもしれない」
何回か頷いて、ヒースクリフはじゃあ、と手を上げた。
「あと、僕はヨセフだ。何だよ、少年って」
「それは失礼、ヨセフ・ニコラス」
知ってたんじゃないか。睨もうとした時、僕は背筋に怖気だつようなものを感じた。殺気。振り返ろうとした時、首筋に冷たいものが触れた。
「――――」
ヒースクリフでもカノンでもない声が、僕の耳元で何かを言った。意味を解すことはできないが、独特な抑揚に聞き覚えがある。目だけを下に向けると、ナイフにそれを持つ緑色の腕が見えた。
鬼族だ。辺りを見回すと、ヒースクリフはどこかに消えていた。もしかして、この鬼族のことをわかっていて、ここまで話を引き伸ばしたのだろうか。わかっていたはずだ、彼は僕と向き合っていたんだから……。
けれど、すぐに、自己嫌悪に陥った。ヒースクリフがどうだったとしても、僕の失態には変わりない。それよりも、今のこの状況をどうにかしなければ……。
「……ヨセフ」
見ると、カノンがこちらを見ていた。さすが、慌てているような素振りはない。落ち着いた目で、冷静に今の状況を受け入れたようだ。あまりに自分がかっこ悪くて、笑ってしまう。
「お前らの、仲間は、どこだ」
相手の鬼族の男が確かにこう言った。舌がもつれるような発音だし、不思議な抑揚も拭えていなかったが、僕たちが使う言葉だ。
「……私が教えたら、どうするっていうの」
口元に冷酷な笑みをたたえて、カノンは一歩こちらに歩み寄った。
「どちらにしても、あんたは私たちを人質にとるつもりでしょう。こちらが仲間の居場所を伝えて、何かメリットがあるというの」
カノンは、相手に自分の言葉が伝わっているはずないのに、言葉を途切れさせることなく口を動かした。
「それとも何? 自分は一人しかないから私たちのどちらかを助けてくれるとでも? だとしたら、後ろで弓を構えて私を狙っている、あの鬼族は何なんでしょうね……」
「おっと、失礼」
カノンの言葉を遮るように、後ろで聞き覚えのある声がした。からかうような調子がある、よく通る声。
ヒースクリフが、鬼族の男の後ろで立っていた。
「おい、これが何だかわかるよな。とりあえずそのヨセフ・ニコラスという名の少年を放せ。少しでも変な動きをすれば、この剣がお前の喉を掻き切るぞ……っと、この言葉は通じないか。えっと」
彼は少し考えるように視線を漂わせた後、また口を開いた。その口から出た言葉に、僕は思わず振り返るほど驚くことになる。ルーク王国の人間誰一人喋ることのできないはずの、鬼族の言葉だった。
相手も戸惑いを見せながらも、僕の首に当てられていたナイフを地面に投げた。
「ったく。あんた、誰だか知らないけど馬鹿ね。私がこちらに注意を向けさせてたからいいものの、何やってんの」
「すまない、ナイフが見つからなくて。腰に差しておいたと思ったんだが」
つまり、こういうことか。カノンはヒースクリフに気づいていて、彼が後ろから仕掛けるまで間をもたせたと。仲間外れにされたようで、僕としてはちっとも面白くない。
「ヨセフ・ニコラス、良かったな、助かって。でも、まず俺に感謝をするべきだと思うぞ」
「どこに逃げてたんだよ、お前」
「逃げたとは失礼な。俺はただ、こいつの姿を認めて、様子を見ようと木の上に飛び乗っただけだ」
「そういうのを逃げたって言うんだよ!」
「ヨセフ、そういう場合じゃない」
カノンはため息をつくと、背中の真空刃に手を掛けた。鞘と刃が擦りあう音が聞こえたかと思うと、次の瞬間には真空刃が鬼族の男に向けられていた。
「さて…と。状況が変わったわね。言ってもらいましょうか、仲間の居場所を。言えば、命だけは助けてあげるわ」
カノンが言い終えてから、ヒースクリフが鬼族の言葉を訳していく。謎な奴だ。僕はまだ、こいつのことも信じていない。
鬼族の男がふっと苦笑した。鬼族特有の、オレンジ色の目が光る。
カノンが僕に目を合わせた。頷くと、背中に背負っている弓と弓矢を確認する。よし、これだけあれば足りる。彼が何かを言った。その瞬間、僕は弓と弓矢を素早く構えた。
ジャキン。カノンが振り返り、僕と自分に向かって放たれた二本の矢を剣で叩き落とした。僕は、そのうちに木の陰に隠れている二人の鬼族の男に焦点を絞ると、弓を放つ。
弓は狙ったところを打ち抜いた。カノンは剣を下ろし、余裕を持って振り返ると、改めて鬼族の男と向き合う。
相手は脱力し、ある場所の名を、吐いた。
「さすが、白皇隊第一軍に選ばれただけあるな」
ヒースクリフが手を叩いた。今の状況を楽しんでるみたいだ。
「お互いを信頼しあってないとできないプレイだ。感心と賞賛に値する」
「そう……どうも」
そう言って、カノンは真空刃をヒースクリフに向けた。両手を上げるヒースクリフ。
「おいおい、何の真似だよ」
「……あんた、何者?」
「俺? 俺はヒースクリフという名の一介の男だぜ。この間の兵の増員で、白皇隊第一軍に入ってきた……」
カノンの目が冷たく光った。
「残念ながら、増員された兵の名簿の中に、ヒースクリフという名前はないのよ。私は仲間を把握するために目を通したから、間違いないわ」
「そうだったか? それはおかしいな。お前の記憶違いだろう」
「そうね……だとしても、さっきの鬼族の言葉はどう説明してくれるの?」
「そう言われてもな。俺は全ての言語を使えるんだよ。説明しろと言われても、生憎俺が俺であるから以外の答えはあげられない」
「は? 全ての言語を?」
この言葉はカノンにも予想外だったみたいだ。思わずといった感じに真空刃が下ろされる。その隙に、ヒースクリフは木の上に飛び乗った。
「ということだ。ひとまず俺は退散しよう。さらばだ、また近いうちに再会するだろう」
一つ手を振ると、彼は本当にその場から消えた。
「何だったんだ……」
ポツリと呟く。カノンは何回か首を振って、ため息をついた。
「今はあいつのことはどうでもいいわ。彼のことは後で隊長に報告しましょう。とにかく、鬼族の居場所のことをみんなに伝えなきゃ」
「今すぐ野営地に行くか?」
「事態は一刻を争うわ。鬼族に山脈を越えられて、村に攻めいれられたらそれで終了。その前に奴らを止めないと」
「じゃあ、どうするんだよ」
「走るよりもよりも早い方法があるでしょう」
カノンの視線が、僕の背中にある弓矢に注がれた。
木の陰からそろっと様子を伺い、僕は慌てて顔をひっこめた。目の前を人が通っていったところだったのだ。緑色の肌、オレンジ色の目。鬼族の特徴である。
数秒後、僕はもう一度顔を出すと、彼が遠くに行ったのを確認した。振り返ると、ひそひそ声で彼女を呼ぶ。
「行ったぜ、カノン」
カノンは茂みから顔を出すと、頷いて出てきた。僕が苛々するようなのんびりとした動きで、鬼族の野営地に近づくと、中の様子を伺う。
あれから、鬼族の野営地の場所、僕たちが先に乗り込むことなどを記した文矢を飛ばしてここに来た。二人だけで行動したことを後でダグラス隊長に怒られるだろうということはわかりきっていたが、カノンが行くと言って聞かなかったのだ。
「……おかしい」
カノンが横で呟いた。
「何だ?」
「数が少なすぎる。今までの小競り合いの時と同じくらいよ。それに、いつも見る奴がいないわ。あの、リーダーっぽい異様に体の大きい奴」
「何だって? ……ちょっと待て。思えば、さっき、ここのことを喋った鬼族、やけにあっさりと喋ったよな。山越えが真の目的じゃないってことは」
僕の後をカノンが引き継いだ。
「……砦。あそこを崩されたら私たちの帰る場所はなくなるわ。しかも、あそこには今、第三軍しかいない」
「……あぁ。元々戦士の数では断然向こうの方が上なんだ。攻め込まれたら、もう後がないぞ。大体、鬼族がここを山越えをするっていう情報が漏れたことからおかしかったんだ。……くそっ、あの時気づいていれば」
「後悔しても始まらないわ。……こっちに来て」
「え、おい」
山道を登っていくカノンについていくと、木々のない崖の上に来た。振り返ると、ざぁっと大きな風の塊が僕らを襲う。目を開けると、目の前に見慣れた荒野が広がっていた。
「……あれ」
カノンが指差したところに、何か黒いものが固まっているのが見えた。
「鬼族の野営地よ。もっと西南に行くと砦があるわ」
「……じゃあ」
どうする? 唇を噛む。
国が危ない。国のみんなの命が危険に晒される。今までのことも水の泡になってしまう。それに何より、カノンが……!
「ヒースクリフって叫んで」
顔を上げると、いつもと変わらないカノンの顔があった。怖くなるほど落ち着いていて、その目は揺らぐことを知らない。
「え?」
「いいから」
「……ヒースクリフ――ッ!」
僕の声は、響かずにすぅっと消えた。もう一度叫ぼうと息を吸い込んだ時、背後から声がした。
「よぉ。また会ったな、少年」
振り返ると、ヒースクリフが木の上に乗って、ニヤニヤと笑っていた。カノンは振り返ると、真剣な面持ちでヒースクリフに一歩近づく。
「ヒースクリフ。今からすぐに鬼族の軍隊が砦を襲おうとしているってことを野営地にいるネオン・ヒトラ副長に伝えて」
「あー、そう来たか。それは勘弁してくれ。それよりか、自分の足で伝えに行った方がいいと思うんだが……」
「緊急事態なのよ!」
カノンが珍しく大きい声を出した。ヒースクリフをキッと睨みつける。ヒースクリフもすっと真顔になって、カノンを見下ろした。
「……こちらもこちらの都合があるんだ。そう易々と君の願いを受けるわけにはいかない」
「何千人もの命がかかっているのよ!? それよりも大事って、一体どんな都合だっていうの!」
「君には悪いが、それがルーク王国の運命だったということじゃないか? それに、君たちがすぐに砦へ向かったところで一体何が変わるっていうんだ。少しは現実を見た方が」
「ヒースクリフ!」
僕は彼の名前を叫んだ。一歩近寄ると、彼を真っ直ぐに見る。彼の瞳はただただ静かで、僕のことを試しているようにも見えた。
「頼む」
「……はぁ」
ヒースクリフはかったるそうにため息を一つつくと、肩をすくめた。その動作は、普段のヒースクリフのものだった。
「そこまで必死に頼まれては断る訳にはいかないな。まったく、俺の流儀やスタイルはどこへ行った。まぁ、流れるまま流されるのが本当の〈浮浪者〉らしさ、か……」
独り言を言いながら自分で頷くと、ヒースクリフは僕たちに背を向けた。次の瞬間には、ヒースクリフは僕の視界から消えていた。
「さあ」
彼を見送った後、カノンは背の真空刃に手をかけた。視線を辿ると、下から鬼族たちが来ている。気づかれたらしい。
カノンが真空刃を構えた。真空刃の切っ先が光り、真っ直ぐ鬼族の方へ向く。
「行くわよ、砦へ」
僕は頷いて、弓を弓矢に番え、強く引いた。狙いを定めると、解き放つ。
僕らの眼前には、ただただ広い荒野が広がっていた。
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