002

「あん、名前? そんなんねぇよ」

「名前がない? 冗談でしょ? 人は生まれたら名前を貰うことになってるんだよ」

「知るか。だったら、オレは人じゃねぇってことなんだろ。オレにあるのはОGA49っていう固体識別用の呼称だけだ」

「おーが? それにフォーティーナインって、四十九?」

「……お前、わざと言ってんじゃねぇだろうな?〈聖都市〉の人間で、オレを知らねぇ奴がまだいたっていうのかよ」

「あ、いいこと思いついた。名前がないなら、私が考えてあげるよ。んっとねー。よし、決めた。王河翼。王様に、大河の河に、翼って書くの。かっこいいでしょ」

「…………」

「私は新石初音。新しい石に、初めての音。よろしくね、翼くん」


          *

 一方、〈滅びゆく町(ダイイング ファイア)〉。廃墟と化した背の低い建物が多いこの町で、焔のように見え隠れする人影があった。

 屋根をつたい窓をつたい、縦横無尽に町を飛び回る。しかしその影は小さく、よく見るとそれはまだ幼い少年だった。薄汚くはあったが、目は爛々と生気を放っている。

 しかし、ある屋根の上で急に彼は止まり、ぶらんっと上半身を投げ出すようにして路地を覗き込んだ。一人の老婆が歩いている。

「あ、おばばじゃん」

 老婆はゆっくりと顔を上げ、眩しそうに目を細めた。

「あぁ……貉か」

 貉と呼ばれた少年は、からからと笑った。引っかかっていた足を屋根から離すと、猫のように空中で半回転、老婆の前に着地する。

「斎木の爺さんが、鬼蜘蛛の婆さんにって。また佳羅が病気になったんだって。すぐに来いって言ってたぞ。へへっ、変なことする奴もいるもんだよな、おいらに託けを頼むなんてさ。盗るだけじゃなく嘘をつくのも騙すのもおいらの仕事で得意分野だってのに。まー面倒だしいっかーとか思ってたんだけど、やめといた。あとでおばばが怖いからな」

「佳羅か……可哀想だが、あの子もそろそろだろうな。今度こそ身がもたんだろう」

「へ、何で? あの子、まだ五歳とかそこらだろ。おいらより年下じゃん」

 貉はきょとんとした。老婆、鬼蜘蛛は口だけで笑う。

「寿命は全てが年で決まるわけじゃないからね。あの子の場合、それが運命だったってことさ」

「何それ。それって、どっちのおばばの言葉? 医者? それとも、占い師?」

 鬼蜘蛛は答えずにまた口だけで笑った。つまらないとでも言うように、貉は足を組んで口笛を吹き始める。

 適当な旋律、ふざけた音色。自由で開放的で、まるで彼の生き方のような口笛だった。

 鬼蜘蛛はそんな貉の姿を、孫でも見るような優しい目で眺めていた。風が一陣路地を通過していく。

「貉。もし、例えばの話だがな」

 鬼蜘蛛が口を開いた。

「数時間後に世界が終わるということを知ったら、お前はどうする?」

 いきなりの突拍子もない言葉に、貉の口笛が止まった。

「へ? 世界が終わるって……どういうこと?」

「言うなれば、リセットさ。〈聖都市〉も、〈滅びゆく町〉も、呑まれてなくなる」

 しばし思案するように貉は口をつぐんだ。数秒後、口を開く。

「おばば……それ、ほんとに仮定の話? ほんとのことなんだろ、なぁ」

 鬼蜘蛛は答えなかった。しかし、それは何よりもはっきりとした答えだ。

「そういえば昔、誰かが言ってたっけ。おばばの能力は占いというよりも予言とか、時見に近いって。世界最後の、純血の占い師の生き残りだって」

「ふふふ……どうだかね。けど、サイキックには負けるだろうよ」

「あぁ、市長の娘だっけ? よく知らないけど」

 貉は少し考えるようにしてから、真っ直ぐ鬼蜘蛛の方を見た。

「……おばば。おいらは変わんないよ。明日に世界が終わるって聞いても、昨日と同じようなことをする。仁野んとこの魚を盗んで、犬のキョンたちと喧嘩して、空を眺めながら眠ると思うよ」

「なるほどね。お前らしいな」

 貉はその言葉が最高の誉め言葉であるというように、得意そうに笑った。

「んじゃ、おいら、そろそろ行くわ」

「あぁ」

 貉はひょいっと窓枠に足をかけると、屋根に手をかけてぶらさがった。勢いをつけ、屋根の上に行く。そのまま行ってしまうように見えたが、貉は鬼蜘蛛に背中を見せたまま動かなかった。ポツリと独り言。

「けど、やだな……。終わっちゃうのか」

「そうか、お前は嫌かい」

 貉はばっと鬼蜘蛛の方を振り返った。

「おばばは嫌じゃないの?」

「わたしはむしろ、その方がいいと思ってるよ。人は長く生き過ぎた。ここらへんが潮時だ。まぁ、長く生き過ぎたのはわたしか。もう自分の年齢もわからない……本当の名前も、捨てた」

「おばばは生き過ぎてなんかないよ。〈滅びゆく町〉の人はみんな、おばばの医術や占いに救われてる」

「ふふふ……さてね」

「おいらはおばばが好きだ」

 それは、ひどく確信的で、少しの濁りもなく、一切の打算もなく、純粋だった。そんなことを思いもしない義足や、全てをはぐらかす人工人間とは全く別の、〈滅びゆく町〉の泥棒、貉の言葉だった。

 鬼蜘蛛は嬉しそうに笑う。

「そうかい。嬉しいね」

「〈滅びゆく町〉も好きだ。〈聖都市〉の嫌味な奴らは嫌いだけど……初は好きだった。友達だ」

「初ね……懐かしい。よく、ここに三人が集まってたな。漸の元に二人が度々訪れて。あれは、二年も前か。もう、あの子は二人に会ってさえもないようだけど」

「漸なら、今日〈聖都市〉に向かってるところを見たぞ。初は好きだけど、漸は嫌いだ。翼とかいう奴も嫌いだ」

「ほう、何故かな? 二人とも、〈聖都市〉の住民らしくなかったじゃないか。むしろ、この町の方が馴染んでいるように見えたがね。何があったか知らないが、漸は〈聖都市〉の住民でありながら、自ら〈滅びゆく町〉への移住を願い出たというし」

「それでも、嫌いなものは嫌いだ」

 貉は不機嫌そうに鼻を鳴らす。そして空を仰いだ。

「あぁ、初に会いたいなぁ……」

 闇がたまるこの町とは対照的に、空は青く澄んでいた。あらゆる悪も全て浄化するような無限の青。雲はなく霞みがかり、何もかも受け入れてくれるように優しい。

「ま、無理だよなぁ」

 呟いて、貉は寂しげに笑った。鬼蜘蛛の方を見ると、鬼蜘蛛は優しい目でこちらを見ていた。

「じゃあな、貉。楽しかったよ」

「……うん」

 その言葉を聞いて、貉は一瞬寂しそうな表情を見せたが、すぐに笑った。

「じゃあな、おばば」

 貉は背を向け、鬼蜘蛛の元を去っていった。


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