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やや低い位置から射す容赦のない日光とそれを反射する雪道の明るさに目を細めながら私は一軒の家の前に立っていた。
石川から教えられた住所は、こんなところで遭難事故が起こるはずがないと思われるような平凡な住宅街の端にあった。
意を決しインターホンへ指を伸ばしたところで、自分がアポイントを取っていないことに思い至った。
晴れてはいてもキンと冷えた空気を深く吸い込むも、熱をもった脳にまでその心地よい温度がいたることはなかった。
どれだけの時間を古ぼけた手紙を握りしめ、突っ立ていたのだろうか。
右肩に重みを感じ振り向けば石川と同年代と思われるダウンに身を包んだ長身の男性が、私の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか?ご体調が優れないようですが」
眼鏡の奥の穏やかな目と対峙した瞬間、彼が国後と同棲していた彼だと確信した。
「……根室さんですか?昨日、国後さんの訃報を石川さんから伺いまして。わたくし、国後さんの通われていた大学で、教鞭をとっている、」
「ああ、先生ですか。その節は直接ご連絡をせず申し訳ありません。生前の彼女からの話だけではどれだけの間柄だったのか測り兼ねまして。また家族葬でしたから、かえって気まずい思いをさせてしまうのではないかと……。わざわざこちらまで足を運んでいただきまして大変恐縮です」
自己紹介も半ばに、深々と頭を下げる根室を前に私はただ呆然としてしまった。
「もしよろしければ、あがってください。中はまだ温かいですし、何より先生の顔色が悪いのが気になります」
「先生だなんておこがましい。どうぞ名前で」
「彼女が先生、先生と申しておりましたから。私も先生、と呼ばせてください」
口調や仕草は柔らかながらも、私の背に手を当てながら家に引き込む彼は意外と強引であれよという間に、リビングのソファに座らされていた。
「外は冷えたでしょう。よろしければ」
根室から差し出された湯飲みには湯気をたてる緑茶が入れられていた。
急に訪問した私にも丁寧に接する彼は国後にとっても良いひとであったのだろう。
「彼女が亡くなったのはただの事故によるものではないと、石川さんから伺いまして」
「ただの私の邪推です」
私の正面にローテーブルを挟んで腰かけた根室は普段から使用していると見られる湯飲みを両手で包み、自分の膝を見つめていた。
「彼女、たまに立ち止まることがありまして」
しばしの沈黙の後、ポツリと落とされた言葉は昨晩夢に見た振り返ることのない黒い背中を思い起こさせた。
「自分自身を責めていたようなんです。ついに口にすることはありませんでしたが。特に寒い日に外で立ち尽くす姿は許しを乞うているように見えました」
石川さんから彼女の酷い過去について聞きましたか?と話を続ける彼は私と目を合わせない。
「彼女、男性に乱暴されてから恐怖心を抱くようになったようで。それなのに私と交際を続けるという行為は彼女にとって負担になっていたようです」
「別れるという選択は出来なかったのですか」
「そういう問題ではないんですよ」
悲しい笑みを口元に浮かべた根室はここでようやく顔を上げて私の目をみつめてきた。
「彼女、先生のことが好きだったそうです」
カチコチと規則正しい時計の刻む音だけがこの場に響いた。
「その好きがどのような性質のものか私は正しく図ることは出来ませんでしたが。ただ、あなたのことを話してくれる彼女はいつだって先生としか口にしませんでした。あなたとの境界線を明確なる役割で区分するかのように。立場を意識するかのように。一度だけ手紙を渡したと彼女は話してくれましたが、それをとても後悔しているようでした」
目の前に居るはずの根室の言葉が遠くから聞こえてくるような、嫌な心地がした。
しばらく忘れていた呼吸のし辛さが私を責める。
「先生は、国後にとって清廉潔白な人物だったようです。その様な人に出過ぎた真似をしてしまったと、枠組みを超える行いをしてしまったと。そのように露骨に口にすることはありませんでしたが、彼女の語る貴方と、そのエピソードを語る表情からそう推察することは簡単でした」
手に握られたままになっている色あせた手紙を意識する。
未だに未開封のままのこの手紙は。
「事故だったのでしょう。警察の調べが正しく。ただ、異性を恐れながら私と暮らすことを選んでしまう自身の矛盾を責める彼女が立ちすくむ姿を知る私からすればあれは自殺と形容する他ありません」
苦し気な表情を見せる根室は石川と同じ言葉を吐き出した。
「彼女を、国後を許してやってください」
「ゆるすもなにも」
「あの時から、先生には奥さんがいらっしゃったのでしょう?」
「だからといって」
「彼女もまた廉直な人物だったんです」
発露されることのなかった感情は清らかな思想を持つ彼女を蝕んでいったようだが、それはそれだけで罪なのだろうか。
『潔癖すぎるんですよ』
いつだったか誰かに言われた言葉がふと蘇った。
『伴侶が居ようが他の人に恋愛感情を抱くことは生物としてありえることです。そこから行動に移すかで人間という動物としての差が出てくるわけですが。しかしその好意というのは本能に基づいた感情ですから、そこまでも徹底的に抑制するのは少々不健全だと私は感じますがね』
いつどこで誰が発した言葉か一向に思い出すことはできないが、この話を聞いているときの自分の表情が渋い物であったことは容易に想像ができた。
「人の感情ってのが分からない人間の屁理屈だ」
無性に腹が立ってその日妻に話したことも覚えている。
彼女は薄く笑いながらもそうね、と同意してくれたのだった。
「お疲れのようですね。私は少し席を外しますが、どうぞごゆっくりなさってください」
気遣いの言葉を残して席を立った根室は、その実自身の方が疲弊しているように見えた。
一人残された私は乾燥した手の中に納まる手紙を見下ろした。
どうにも責め立てる形容しがたい感情は今更気づいた、一人の女性の想いを顧みることで解決出来るのだろうか。
ようやく向き合い、手紙の封を切るとき、自身の手が老いていることがやけに目についた。
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