5

太陽が天高く昇ったころ、私は研究室にいた。

学生たちの実験も一段落した日曜のため珍しく人気のない部屋は、検体を保存するための冷凍庫やインキュベーター等の機器が唸る他はひっそりとしていた。

誰かが作業台の上に出しっぱなしにして帰ってしまったマイクロピペットとチップを片付けていると入口が軋みながら開いた。


「あ、乾燥器が新しくなってる」


明るいヒールの音を響かせながら入ってきた石川は学生時代、ここで研究をしていた時と全く変わらなく感じた。


「その辺に掛けてて。コーヒー持ってくるから」

「風邪を引いたんですか?酷い鼻声」


後ろから投げかけられる石川の声に、「ああ」とも「いや」ともつかない返事をしながら比較的新しいカップと自分の物にインスタントコーヒーを開け、常時稼働させているポットからお湯を注いだ。


「すまんね。急に。こんなものしか出せないのに呼び出して」

「いえ。久しぶりに研究室を見学できて私はとても楽しいです。あの遠心機、まだ使っているんですね」

「使えるものはギリギリまでね。節約、節制は変わらんのさ」


私の答えにからりとした笑いを発した石川は柔らかい目だけは保ったまま、真面目な表情になった。


「それでお話というのは」


こちらを見つめる石川の顔から目をそらし掌にあるマグカップへ視線を落とした。

茶色い液体から立ち上る白い湯気がゆらゆらと踊るのを幾分か観察し、重い口を開いた。


「いや、国後のことで。わざわざ呼んで聞くことでもないかとも思ったけれど、機会でもないともう触れることがないと感じてね。昨日は聞けなかった詳細について教えてほしいんだ」


そう伝えた私の顔を一瞬泣きそうな表情で見つめた後、石川は静かな声で話し始めた。


「二年前の冬に亡くなったんです。凍死でした。記録的寒波に震えたあの時です。自宅から程近い道の雪だまりの中から見つかったんです」


吹雪の去った翌朝、雲一つない真っ青な空の下まぶしく光る真っ白な雪の塊の中から出てきた彼女は体に付着した氷の欠片が乱反射しきらきらと輝いていたという。


「前日の夜から行方不明で。その時彼女と同棲していた彼からの要請で警察が捜索して見つかったんです」

「それは、事故だったの?」

「公には遭難事故だってことになっています」

「公には?」

「……彼は、自殺だと思っているみたいで」


石川が少し口ごもった後に吐き出した言葉には苦い響きが含まれていた。


「先生はご存じないでしょうけれど、彼女、長いこと男性を恐れていたんです」


石川の告白に、私はなぜかうろたえた。

自分でも分からないが、うろたえる、という言葉が一番ふさわしい感情が私を支配した。


「……本当に?いつから?」


私の疑うような口調に気づかなかったのか石川は特に表情を変えることもなく返事をしてくれた。


「大学二年の時にです。当時、そんな気がなかった人から迫られて怖い思いをしたようなんです。詳しくは話してくれたことはなかったんですけれど、今思い起こすと、男の人とは二人きりで話をすることも出来なくなっていたので、想像しうる限りで最低のことが起こったんだと思います」


ここで言葉を切った石川はもてなされたコーヒーカップまで手を伸ばしかけたが、取らずに膝の上へと戻した。


「学科が違ったのでしばらく大学に来てもいなかったことにすら気づきませんでした。何気なく部屋へ遊びに行った時の彼女の表情が不自然で。自分の家なのに目が泳いでいるんです。玄関から見える部屋は普段通りで、彼女だけが異質に見えました」


その時の異様さに内心混乱したが、ここで引き返せば彼女が危ないと感じ半ば無理やり部屋にあがったという。


「体調を崩していた。なんでもない。しょうもないことだから。そんなことしか言ってくれませんでした。なにもないはずがないんですよ。彼女の腕にひっかき傷のようなものがみえましたし。でもこの時は乱暴されたかもしれないことまで考えが及びませんでした」


石川はその日は何も聞き出せなかったが、翌日も尋ねる約束を取り次ぎ帰宅した。


「それからほとんど毎日通いました。だんだん不審さはなくなっていきましたが、それでもどこか緊張しているのが伝わって。……その時は彼女自身が何か犯罪を起こしたんじゃないかって、むしろ疑っていたんですけれど。しばらくして半ば無理やり外に連れ出した時にその考えが違ったことを知ったんです。……アパートの廊下で男性とすれ違った時、小さな悲鳴をあげた後、目をつむってうつむいてしまって。その相手と何かあったのかと咄嗟に考えたのですが、当の男性は少し不思議そうな顔をしただけで去って行って。そこで初めて彼女が、男性が怖くて外に出れない現状を泣きながら話してくれたんです」


結局最後までなぜそうなったかは教えてくれなかったんですけれど、と石川は言葉を結んだ。


「迫られて怖い思いをしたってのは、彼女から聞いたんじゃないのか?」

「ええ。亡くなるまで同棲していた彼から、お宅へ訪問した時に。私も彼女が死んでから彼女の苦しみをやっと知ったんです」


手の中にあるマグはとっくに冷めており、苦い香りだけが鼻をついた。


「先生。一度でいいので彼女に向き合ってあげてください」


石川からかけられた思いもよらない一言に私は頭をかしげ、彼女を見やる。

すると、少し居心地が悪そうに座りなおした彼女が改まった態度で更に言葉を紡いだ。


「彼女の住んでいた家で、今も彼は暮らしています。一度訪ねてみてください。自殺かもしれない理由、先生にならお話になって下さるかもしれません」

「なぜ、私に」


卒業後は接点も何もなかった、とつなげる私をまたも泣きそうな表情で石川は黙って見つめていた。


「……彼女がまた大学に通い出した前日に、私は彼女をこの研究室に連れてきたんです」


石川の声が耳を打った瞬間、何とも形容しがたい感情が私の喉を締め付けた。


「彼女の友人としての頼みです。彼女をゆるしてあげてください」

「ゆるすもなにも」


静かに頭を下げる石川を前に私はただ呆然とした。

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