第16話 それは人間的な悩み

テロリストという存在を僕がなぜ完全否定できないのか。それはこの街が光しか認めない世界だから。スポットライトの外は、光が当たる場所よりもっと広く、放置された世界なのだろう。手付かずの自然。それが時折、悪党のイタズラによって一瞬の爆発を引き起こす。その時だけ、「彼らの自然」が垣間見え、あたかもこの街の全てが光に晒されたかのような境地を感じるのだ。閃光はすぐに消えてしまう。そしてその時の心境を言語化する気力も、記憶の風化と共に失われていく。そのスピードが不自然な程早いことに、僕以外で気付いてる人は居ないのだろうか。


ここまで深い話は、思いを寄せるカウンセラーのレイチェルにさえすることが出来なかった。彼女は組織の人間だ。僕の直感的には、生き生きとした個人を感じるけれども、女なんてよく分からない。実は、精度の高い打算で埋め尽くされた性格かもしれないじゃないか…


飛行船は、例のナイトクラブの上空を通過しつつあった。すでに船は現在、高度500。クラブは恐らく250辺りのテラスに位置しており、ゴンドラから身を乗り出して下を覗き込んでも、小さなお祭りの様に見えるだけ。あいつがVIP席で出来たての彼女とシャンパンを交わしている場面なんて見える筈がない。それでもクラブ全体の雰囲気は伝わってくる。動き回るレーザー光やDJのベースと共鳴して飛び跳ねる輩、スポットの光。全体が一つであるかの様な調和。一人でゴンドラに座っていても感じ取れる快楽。


しかし、あまりにも長時間下を覗き込んで居ると作戦用イヤホン越しに船長から注意を受けた。今日の船長は声に抑揚のない真面目そうな人だ。僕は大人しくなった。


その日、街で悪党が暴れることはなかった。そのまま朝を迎え、飛行船から降りてビルの降着デッキに至った頃には一気に緊張が解れ、眠気と解放感がミックスされた混沌の中でゆっくりと家に向かって歩いていた。


家に着くまでの頭の中は、科長への返信、妊娠初期の不満を顕にするしおりへの報告、そして遂に今夜に控えた、レイチェルとの再会…


部屋に着くと全てを忘れ、死んだ様にベッドに転げ落ちた。


「お久しぶりです」


僕が言うと、レイチェルは笑顔でこちらを見た。


「久しぶりね、イワマツさん。今日も夜なのね。前回もだったかしら」


「今日は夜勤明けです。そうですね、先月も」


「うんうん、そしたら早速始めようかしら」


そこからは淡々と受け答えが続いた。いつもの健康チェックに指摘事項。そして最後に来るのはいつもの備考欄。


「あれ、今日は何も書いてないのね」


何も書いていなかった。なんて書けばいいのか、スッキリした一言が思いつかず、何かを無理して書こうとすると、毎回ネタを用意しなければならないという様な焦りに変わり、それが却って面倒臭さを増長した。


「書いてあった方がよかったですか?」


いえいえ、そんなことないわよ、と遠慮がちに言う彼女を想定していた。しかし彼女は、


「ええ」


素っ気なく言う彼女に僕は驚いた。


「だって、何かを抱えてる様に見えるから。見た感じもそうだし、ここに出ているメンタルの指数も下がってるわ」


「なるほどね。100%の優しさかと思ったよ」


「え?」


「いや、そうだな…。厳密に言うと、悩む要素が多くて説明が面倒だから書かなかったんだ。人生選択の岐路にも立たされてるしね」


「うんうん」


「総合情報科に移るかもしれない」


「あら、そうなのね。そんなこと、この書面には一切書いてないけど」


「科長から直接指示を受けてる。主にそれが最大の悩みかな」


「なるほどね」


そこから僕は現状の全てを説明した。この一ヶ月内に起こったことはあまりにも濃厚だった。それを出来るだけ順序立ててシンプルに伝えることを心掛けた。


「あなたの能力をそのままに評価してくれるなんて素敵なことね」


「そうかもね。でも科長と話した感じもあの部署も、嫌な匂いはするんだよ。食わず嫌いかも知れないけどね。環境が変わる前だから、ストレスを感じるのが普通だとは思うんだけど」


「うんうん、それにあなたなら、その世界でも自分の生きる場所を得るためになんとかしていくんじゃないかしら。今まではそうだった様に、私はあなたの生き方を素敵だと思うわよ。今悩んでることも含めて、とても人間的だと思うわ。」


「人間的ってどういうことですか?」


「自分の意志があって、それに向かって生きようとする人。だからこそ葛藤もあるし、一人よがれになることもある。でもそういう生き方をしている人から一番人間味を感じられるわ。」


「人間味、か。それなら、大半の人間は人間らしくないという事になりませんか。何か太いものに依存して安心したいというのも、人間の本質ではないでしょうか。」


すると彼女は一瞬困った表情を見せてから、会話への熱が引いていくのを感じた。それは何かに失望した様な、残念そうな様子だった。


「ごめん、ごめん。ワザと言ってみたんだよ。」


「本当かしら?」


「本当だよ。じゃあ例え話をするね。うーんと、例えばこの街にはいっぱい可愛い女の子がいて、彼女たちにアプローチしたい時にどうするか。今は誰もが「魅せる時代」だから、男も見た目のトレンドを気にする。だから、コレがモテる、需要があるっていうトークスタイルやファッションに追従して女子の目を引こうとする。それが多数派に流れる人間の本質だと僕は思ってる。」


彼女はただ無言で、僕の眼を見つめている。僕は続ける。


「でもそこに僕は感動できないから魅力を感じない。そもそも男女ってなんで引き寄せられるんだろう。若造の僕にはよく分かんないけど、お互いの欲が重なった時、お互いへの興味を伴う様な強い接触がある気がするんだ。だから僕は、自分の欲を見失うことをとても恐れて、欲に忠実であることを尊んでる。コンテンツではない愛を求めて生きることが、僕はとても人間的だと思います。」


お互いがお互いの目から視線を逸らさない。


「僕が誤解してないこと、分かってもらえたかな。なんだか照れ臭い。長々とごめんね。」


「いえ、とんでもないわ。」


彼女は話し出したかと思うと、途端に吹き出した。


「でも、こんな例えを出すなんて、あなたも若くて元気な証拠ね。あなたはクールな印象があったから、なんだか意外な一面を見た気がするわ。」


「はは、見せちゃったな。」


「ええ、見せられてしまったわ。」


彼女の声のトーンが下がる。それから、机の書類を捲り始めた。僕は喋りすぎて喉が渇いたので、鞄の中からミネラルウォーターを取り出した。残りは一口分ほどしかなかったので、僕は顎を天井に向けて一気に飲み干した。その様子を見た彼女が、


「あ、水分ならあるわよ!」


僕は咄嗟に、「いいよ」と言って遠慮した。しかし彼女はすでに、部屋の脇に設置された2段式の小さな冷蔵庫目掛けて歩き出していた。冷蔵庫は僕と彼女の座る場所のちょうど中間的な位置にあり、僕も立ち上がってそちらへ歩み寄った。


二人は冷蔵庫の前で立ち止まった。彼女はしゃがんで冷蔵庫を開け、何本も並んだラベルのないペットボトルの列から一本取り出すと、僕へ差し出してくれた。程よく冷えた水分を受け取ると、その場で僕は一口だけ飲んだ。彼女がしゃがんでいる間、僕は上から彼女を眺めていた。白いシャツから強調される胸の輪郭と、少ししか開いていない襟元からでも垣間見える彼女の谷間に、熱い緊張を覚えた。


「素敵な香水ですね」


「えっ?ああ、ありがとう」


彼女とこんなに距離が縮まったことは今までなかった。そこで初めて彼女の纏う香りを知ったのだ。それは男性用の香水かと思う程の爽やかさを纏った、しかしほんのり甘さも漂う香りだった。僕はもう今しかないと思い、ペットボトルを冷蔵庫の上に置いて、立ち上がった彼女の腰に手を回した。


「素敵ですね」


向き合う彼女は僕の眼を一瞬見ると、恥じらう様に下を向いた。


「香水が、でしょ?」


「違いますよ。ずっと気になってたんです。」


僕は話しながら、緊張で心臓の鼓動が喉にまで届いていた。


「随分慣れてるみたいだけど」


「あんな例えを使っちゃってごめんなさい。でも信じて」


初めてレイチェルとキスをした。彼女との落ち着いた絡み合いは、しばらくの間続く様に思われた。しかし唐突に彼女は拒んで、


「ごめんなさい。ダメ」


「どうして」


僕は突き放されたと思った。しかし、


「カメラがあるの」


彼女は周囲に目線を送ってカメラの存在を示した。それに反応した僕が、咄嗟に室内を見回してカメラを探そうとすると、


「探しちゃダメ、怪しまれるかも」


「…分かった」


一旦外に出てから会おう、と彼女は約束してくれた。彼女はまだ事務作業のタスクが残っている。時間差で部屋を後にし、後で会社の駐車場前で合流しようと言うのだ。僕は全てを信じて部屋を後にした。もし来なくても、ここまでやったことへの後悔はないと思った。


時間は22:45。すでに駐車場は8割方のスペースが空いて閑散としていた。人影は、遠くの自動ゲート前に立つ警備員だけだった。僕がいつも着ている青白の警備服だ。


外の方を眺めていると、後ろの非常扉が音を立てゆっくりと開いた。何度か非常扉は開いたが、いずれも見知らぬ社員だった。今回は淡い期待を打ち消して、そのまま外を眺めていた。


「お待たせしてごめんなさい」


レイチェルの声が背後から聞こえる。オフの彼女は、服装はそのままでヒールの音を立てながら軽快な足取りで近付いてきた。


「ありがとう。全然待ってないよ」


初めて彼女の家を訪れようとしていた。手を繋いで会社を出つつあった時、先月に彼女と話した内容を思い出した。


「そういえば、ウイスキー買ってないや。」


彼女は一瞬すっとぼけ、話の意味を理解した。


「別にいいわよ。そしたら、次はお願いね」


「もちろん」


交差点の向こうに聳えるビルの上階に彼女の部屋がある。地上からでもちらほらと見える各部屋の灯りはどれも暖色で、高級タワマンなりのお洒落を感じる。殆どの車の居ない広大な交差点が今、青になった。

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