第14話 透明な柱

昼に一度帰宅して、静かな自分の部屋に戻ってきた。鞄の中から、あの「神のいない世界」を取り出してPCデスクの上に置いた。ラウンジにあったこの本は、実は売り物だったのだ。よく見るとハードカバーはシュリンクで覆われていて、バーコードのシールも隅に貼ってあった。


意外とあっさり入手できてしまった。深夜帯のラジオで著者の声を聞いた時は、なにか秘密の会話でも聞いているような気分になっていたのに。いざ手に入れてしまうと、どこか神秘さがふっと消えてしまう。


一旦読むのは控えて、僕は上着だけ脱ぎ捨てるとベッドになだれ込んだ。


夜勤だ、、夜勤。事案の後だが、緊張する事はない。


「降下兵は補助に過ぎない。」


不意に科長の言葉が蘇る。そうだ、、何も気にしなくていい。事案が起きても、言われた通りに動くだけの事。そうすればまた彼らは消える。


昼の日差しが仰向けの顔に当たって眩しい。部屋の半分くらいは窓からの陽光で白くなっている。差し込む日差し中で目を開けていると、空中の埃が次第に見えてくる。僕は目を閉じた。それでも日差しは届いてくる。明るく照らされた瞼に包まれて、次第に意識が遠のいてゆく。体が浮かんでいくようだ。布団の感覚がなくなっていく。全てが離れていく。でも寂しくない。この光に包まれているから。


まるで意識までもが離れていくような気がした。あらゆる走馬灯と、忘れない人たちの顔。葛藤の源となりそうなそれら全てが、自分の脳内のシアターから離れていく。その時に初めて実感した。それらが「自分ではない」という事に。ああ、、そうか。ずっとそうだったんだな。いつでも僕の心はあったんだ。


自分自身は、いつだってただ浮遊しているだけだったんだ。いや、それともいま浮遊し始めたのか。とにかく、あらゆる概念が僕から距離を置いて、僕の周囲を囲んでいた。それぞれ説明のできない観念やイメージ、思い出やトラウマが全て可視化されて、幾つもの透明な角柱のブロックのように並んでいる。それぞれ異なる記憶なのに、柱の大きさや形に違いは見えない。それら空中に浮かぶ透明なブロックは、僕の全周囲を囲んで、まるで矢のように僕自身と向き合っている。こんな感覚は初めてだ。


その時、大切なことを悟ったと思った。価値は人が決めるものなのだと。例え何もない真空のような空間に居ても、自分という存在は何かしらの欲を発するのだろう。そうだ、、やっぱりそうだったんだ。僕はレスポンスに溺れかけていたんだ。


昼の柔らかい日差しがこんなにいいものだったなんて。失いたくない。まだ夕日に変わって欲しくない。小さな幸福は、それを忘れたくないという焦りに変質して、僕は次第に目が覚めてきた。橙色のシャッターを開くと、改めて布団に埋もれている事がはっきりと分かる。僕は宙になど浮いていないが、胸に心がある事がはっきり感じ取れる。


価値しか求められないこの街。そんな強迫観念に囚われ続ける毎日が、いつしか当たり前になっていた事を自覚した午後だった。

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