第4話 神様のいない街 (上)

冬の空気は澄んでいる。熱を失った空気がダイレクトに風や景色を伝えてくれる。そよ風ですら何かを感じ、雲のない空は高く見える。それが上空500mであれば更に顕著になる。


夜間の巡回航行に就いていた。何か呼び出しが掛かれば飛行船から飛び降りて、単身で直接現場に向かう。そのための空中機動用のジェットパックは、背中だけで支えるにはやや重く、夜間勤務を連勤した後はマッサージに通うのがルーティンだった。


飛行船の外側に設けられたゴンドラのような通路が、船の後端まで続いていた。後端の行き止まりで僕は座り込んで、足をゴンドラの外へと乗り出してくつろぎながら時間をつぶしていた。ぶら下がる足は高空の強い風に揺られて、その下に広がる街の夜景を妨げた。


冬の空が高く見えるように、冬の街は広く遠くまで見えるような気がする。夜景であれば、光の点がより細かくはっきり見えるように思える。


見渡すかぎりを埋め尽くす光の集まりは、区域によって光の色合いに違いがあり、それはこの街が示したい姿なのだと見せつけられる。それぞれのエリアによってテーマとなる色が現れるのだ。


そして海沿いに航路を進める本船は、一つのエリアに染まろうとしていた。


ここは海浜地区だ。いま足元には、ピンクと紫の波が交互に混ざり合う巨大な光の波が見えていた。傷だらけの黒いソルジャーブーツにも、その光は微かに届いている。それはこの飛行船の直下に広がる、海浜地区の一帯が放つ景色なのだった。無数の街灯や電飾が、海沿いの公園や施設をピンクや紫に照らし出して、まるでひとつに共鳴するように大きな光の波を形成している。それはガラスの街の夜景の一つであり、あくまでも恣意的な波だった。それでも、この妖しいとも美しいとも取れる色調に視界を奪われて、心は不思議な落ち着きに呑まれていた。


航路がそんな幻から次第に遠のきはじめた時、ふと我に帰って、後方に広がる海の方へと目をやった。そちらには漆黒の太平洋が広がっていた。夜の海洋は果てのない闇そのもので、冗談ではなく引き込まれそうになる。「本物の波」の気迫に引っ叩かれたように、僕は背中に担いでいるジェットパックとの接続をチェックし始めた。手触りでエネルギーパックの接続を確かめた後、身体を固定するショルダーバンドを片手で引っ張って締め付ける。バックパックと背中は更に密着して、肩が窮屈になった。


装具の間にスキマがなくなったことで、身体は少し温まってきた。夜が明けるまでは、この態勢が続くのだ。飛行船は8の字のコースを取って街全体の上空を網羅する。一晩かけて一周し、他の飛行船群も同じ8の字軌道で、互いに少しズレたエリアをそれぞれ航行している。街の中心街の上空では、本船よりすでに先をゆく船体の姿がネオンに照らされている。それに応じるかのように飛行船もまた地表に向けて、船体を覆う程の大きなスクリーンから映像の光を発している。最近スポンサーが変わったのか、馴染みのない俳優が出ているCMを流しているようだ。


美しい夜景の感動は次第に麻痺してくる。空中を彷徨うだけの夜がまたひとつ過ぎようとしていた。


ふと、胸ポケットに小さなラジオを隠していたことを思い出し、端末に巻き付けていたイヤホンをほどいて右耳に押し込む。作戦通信用のヘッドマイクがすでに両耳を覆っていたが、そこへ割り込んで私物のイヤホンを忍ばせる。ラジオの深夜番組でも流しておこう。もう1時をまわった深夜帯だが、どんな番組があるだろうか。


端末のツマミを弄って周波数を探りながら、ラジオノイズが消えるポイントを探す。もうこの時間では番組は少ないのか、ゆっくりとツマミを回してもノイズばかりが続く。諦めてスッと最後までツマミを回し切ろうとした時、ある声を一瞬だけ拾った。ビンゴ!


「・・・、ヘンリー・スピルマンさんにお越しいただきました。・・・


「ええ、よろし・・・・ねが・・します。」


少し周波数帯を戻すとノイズは完全に失せ、司会者らしき女の声が現れた。


「彼の著書、『神のいない世界』は米国に於いてベストセラーとなり、今や世界中の言語に翻訳されております。とても大きな反響を呼んでおりますが、この『神のいない世界』についてお話を伺えますでしょうか?」


「ええ。私がこの本で最も伝えたかったメッセージというのは、信仰の喪失です。どんな時代と比べても、現代ほど人が孤独を感じる時代は他にありません。他人との絆を利害関係の中で作ろうとしたり、虚しさを物欲で満たすだけではあまりにも救いがない。」


それは低くて落ち着きのある男の声だった。女性司会者からひとたびコメントを振られると、彼は低い声で淡々と語り出していた。その時すでに、僕はこのラジオに引き込まれていた。


「信仰」という言葉にどこか前時代的で古臭い印象を感じながらも、初めて耳にする本のタイトルと著者の語りに惹かれて、この深夜帯に残る唯一の番組に耳を傾けていた。

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