五 蜻蛉

 秋太は、大股に廊下を歩いていた。さっきから、嫌な予感が絶えない。呼ばれた相手のいる部屋の前で立ち止まり、襖に手をかけると、一度息をついた。

「おれだ」

「あぁ」

 襖を開けると、秋太は息を呑んだ。華乃が、あの黒の服を着て、障子にもたれかかっていたのだ。片方の障子は開け放たれて、そこから風と共に落ち葉が入ってきている。

「華乃! もう具合はいいのか?」

「あぁ、ありがとう」

 華乃は静かに頷いた。闇の中、華乃はまるで自身が闇であるかのように、ひっそりと佇んでいる。何故だか彼女の纏う雰囲気に、秋太はそこから一歩も踏み出せなかった。

「……人々は、夜叉姫が美津濃家当主とお前を助けたと思ってるんだろうな」

「…………」

「結局、おれは全てを欺いたのか」

 何も言えずに黙っていると、華乃が深いため息をついた。

 華乃、苦しかったのか。心の中で、問うてみる。自分の意思でやったこととはいえ、夜叉姫などと呼ばれ、騒ぎ立てられることに、苦痛を感じていたのか。

「秋太、何故あの時、助けに来た?」

 独り言のような華乃の問いに、目を逸らして床を見る。何故か悔しくて、怒ったような口調になった。

「理由がいるのかよ? 人を救うのに、理由がいるのか」

「知ったんだろう、おれが何をしていたのか」

「それが?」

「…………」

 そこで華乃は口を閉ざした。考えるように目を伏せて、じっとしている。

「……なんで黙ってるんだよ」

 秋太は唸るように声を押し出し、華乃を睨んだ。

「本気の時くらい、一対一、真剣に向き合え。駆け引きなんて必要ない。身の内の思いは、口にしないと伝わらない。それくらいのこともわからないのか」

 秋太の声に、華乃は驚いたように顔を上げた。再び時が流れた後、静かに口を開く。

「……ない」

「え?」

「ないよ。言うことなんて何もない。許してもらおうなんて思わない。あのまま死んでも構わなかった」

 秋太は歯を食いしばって、手を握り締めた。

「何でだよ。何でそんなこと」

 自分たちと同じ人間なのに、何故そんなことを言うのか。生きたいとは思わないのか、やりたいことはないのか。何故、そう簡単に断ち切ってしまえるのか。

 それがどうしようもなく悲しかった。自分の手は、いつまで経ってもこの人の心に届かないような気がする。

「……はずだったんだけどね」

 華乃がぽつりと呟いた。

「決着をつけないといけない人がいたことを思い出したんだ。おれは、もう一度その人と会わないといけないんだと思う」

 華乃は横へ踏み出し、そこにその人がいるかのように、ふっと外を見た。

「行くのか、華乃」

 消えていく。そう思った。華乃が、おれの前から消えていく。

 けれど、まだまだ自分は、この人に伝えてないことがあるんじゃないのか。伝えたいことは、自分が一番望んでいることは……。

 口を開いた。

「華乃、生きろよ。この世界は今回のことみたいに惨いこともあるかもしれないけど、お前が知らない、楽しいこともたくさんあるんだから。……そして、もう一度おれに会うと約束しろ」

「……秋太、お前に会えて本当に良かった」

 穏やかなその笑みを見た途端、もはやこの人に何を言っても無駄なのだと、秋太はふいに悟った。

「大丈夫、秋太。お前の声はおれにちゃんと届いているから。だから、悲しむ必要なんてないんだ」

 月光が外から差し込んで、彼女の姿を美しく照らし出す。風が吹いてきて、長い髪が揺らめいた。

 突風が起こる。次の瞬間、彼女の姿はそこから消えていた。



 がたがた、がたがたと障子は揺れていた。今夜は風が強い。

 華乃が去って、一日が過ぎた。秋太は寝るに寝れずに、夜具から抜け出して明りに火を灯した。闇の中、ぼんやりと火の光が揺れる。

 その火をぼんやりと見ていたら、部屋の外から声が聞こえた。

「秋太様、起きていられますか」

 答えると、すっと襖が開いて吾作が顔を出した。明りを持って、ひっそりと正座している。吾作はすっと立ち上がると、ゆっくりと部屋の中に入ってきた。

「寝られませんか」

「……まぁ」

「ならば、私が昔話を語り聞かせましょう」

 そんな子供っぽいこと、と秋太は顔をしかめたが、吾作は微笑むと、口を開いた。

「昔、江戸の町にとある武家の一族がいました――」


 風がごうごうと音をたてて吹いている。特にこの川原は、遮るものが何もないため風が強い。吹きつけてくる風は刺すように冷たく、落ち葉やらを巻き上げていく。

 そんな風に髪をなぶられながら、華乃は前の闇を見つめていた。やがて、その闇からぬっと一人の男が現れる。笠を深く被り、顔は見えない。緊張した面持ちで息を止めている華乃とは違い、男は何処までも自然体だ。ふらりと華乃の元に歩み寄り、ある程度のところで止まる。

 ゆっくりと顔を上げたその顔は存外に若く、なかなかの美形だった。鼻筋が通り、何処か華乃と似ている。何気なく手を下ろしただけでも、優美というのか、その動きはとても美しかった。

「……兄者」

 華乃が兄と呼んだ若者は、華乃を見て微かに頷いた。

「何のつもりだ。榊原家に仕えたりして、おれだけでなく秋太にまで手を出して」

「ほう。何故そう思った?」

「榊原の当主に、盗賊のことを言っただろ。おれに気配を気づかせず監視していたとしたら、兄者以外に誰がいる。それに、わざわざ紅葉まで残してやがる」

 華乃の答えに、若者はふふっと笑った。

「別に。暇つぶしだ。お前が佐久間家についていたから、敵方に回るのも面白いと思ってな。それだけさ」

 華乃の指が、掌に食い込んだ。


「その武家の一族は、将軍様に直に仕えていて、表向きはただの奉公人なのですが、実は将軍様の命を受けて人を殺す、暗殺の役割を持っていました。その者たちは皆、素晴らしい武術の才を持って生まれてくるのですが、ある時、他の者たちとは各段に違う、並外れた才に恵まれた兄妹が生まれてきたのです。兄は、蒼之介。妹は、華乃という名前でした。私は、その武家に仕える下男だったのです」

 秋太は驚いて顔を上げた。ゆらゆらと闇の中で揺れる火を見つめながら、吾作はとつとつと語り続ける。


 若者、蒼之介は巾着を一つ取り出した。紐を解くと、猫が鼠を扱うような動作で逆さにする。中から真紅の紅葉が出てきて、風に巻き上げられ散っていった。

「お前にしては、迂闊だったな。おれはいつもお前を監視していたが、一度もおれの気配に気づかなかった」

「……兄者は、いつだっておれより上をいっていた。存在すら兄者が印に使っているその紅葉を見るまで気づかなかった」

 華乃は呟くように言った後、蒼之介から逃げるように視線をそらした。

「兄者、まだあんなことを言ってるのか」

 蒼之介はわざとらしく肩をすくめた。

「おれも成長しているからな。もうおれの家族を壊した者たちに復讐しようとなど思ってないさ。雑魚の相手をするほど暇じゃない」

 いつでも、誰であろうと簡単に潰せる――そういう口調だった。

「まぁ、そんなことどうでもいい。華乃、二人になってからおれたちは協力し合って生きてきたが、お前はおれの元からある日姿を消したよな。何処に行ったかと思えば、こんなところで何をやっている? それこそ、時間の無駄じゃないか」

「……おれは、兄者から離れたかったんだ。兄者が言うように、この世界はくだらないものなのか、自分の目で確かめたかった」

 蒼之介はそうか、と言った。それじゃあしかたないな、とも付け加えた。

「けれど、兄者。この世界も、捨てたもんじゃない。そりゃあ、思わず目を塞ぎたくなることも多くあったけど、守るべき人たちも、たくさんいた。今はあの笑顔の中に入れないとしても、いつかは――」

「この世など、すぐに終わるさ」

 蒼之介は、すらりと言った。

「いつか、おれたち兄妹のこの能力も、あちこちで起きている勢力競争も、意味のないものに変わる。生きる価値のない奴らも消えていく」

「そんな……」

 変わってないのだ、と思った。この兄は、少しも変わっていない。その冷ややかな眼差しも、自分を含む全てを捨てているような、冷めた口調も。

 夜の闇に囲まれ、月明かりを浴びて立っている姿は人形のようだ。感情を持ち息をしている人間とは思えない、ただただ綺麗な作り物。

 華乃は息を吐くと、気を静めた。顔を上げ、兄の顔を見る。

「兄者、おれはお前に決闘を申し込む」

 蒼之介は身じろぎし、じっと華乃を見下ろした。その沈黙が肯定の意味だと捉えて、華乃はたんと地を蹴る。いつの間にか、風は止んでいた。

 ふわり。華乃の体は重力から解き放たれたように跳び、回転した。足が蒼之介にまで届くか届かないかの時に、蒼之介の手が弾く。

 地面に降り立った華乃は、再び蒼之介に向かっていく。その瞬間、彼の目が冷徹な光を放った。

 闇が纏わりつくように深い。微かな月明かりに照らされて、二つの影は舞いのように絡み合う。跳び、翻り、少しの無駄もない流れるようなその動きは、ただただ美しい。

 その時、華乃の怪我を負っている右肩に、蒼之介の手刀が入った。


 吾作は何処か遠くを見る眼差しで、火を見つめている。

「特に蒼之介様は、数えで十になっている頃には普通の大人では相手にならないほどになっていました。皆、彼の将来に期待しました。ところが、です。当主様が無実の罪を着せられてしまったのですよ。

 そして彼らは家を追われ――その後、あるところで一家全員の死体が見つかりました。人々は、一家心中をしたのだろうと考えました。けれど、その死体の中にはその兄妹の姿はなかったそうです」

 呆然としている秋太に深く頭を下げると、吾作は淡々とした動作で手燭の火を消した。そのまま、持ってきた明りを持つと、部屋を出て行く。吾作が立ち去ると、闇と静寂が部屋に訪れた。

 秋太はしばらくの沈黙の後、急にじっとしていられなくなって、衝動的に立ち上がった。つかつかと障子に歩み寄り、開け放つ。乾いた風の匂いに落ち葉のざわめきを感じたが、闇しか見えなかった。

 もしかして、華乃が決着をつけようとしている相手って……。生きている彼女に二度と会えないような気がして、秋太はきつく目を瞑った。


 ひるんだ一瞬を見逃さず、蒼之介は華乃を蹴ると、押し倒した。首筋に手を当てられる。華乃が微かに目を開けた時、蒼之介の顔が苦しそうに歪んだ。

「――んでだよ。知ってるくせに、お前はおれに敵わないって……。このまま、おれの手によって殺されるつもりか」

 馬鹿、こう言って蒼之介は華乃を突き放した。肩が地面に打ち付けられ、思わず呻く。

「馬鹿が。一人で勝手に諦めて、絶望して、気がついたらおれから離れていって、姿を消して……。やっとの思いで希望の光を見つけたと思ったら、簡単に手放そうとする」

「蒼之介兄様……」

「何でだよ。何でそんなことをするんだ。お前は何を真に望んでいる? おれに何を求めている?」

 静かに体を起こすと、華乃は目を瞑った。気の強そうな一人の少年を思い出す。

 ――本気の時くらい、一対一、真剣に相手と向き合え。駆け引きなんて必要ない。身の

   内の思いは、口にしないと伝わらない。それくらいのこともわからないのか。

「……兄者。おれはいつも不思議だった。何で、兄者は生きようとするのかなって。いつも世界を冷めた目で見ているくせに、生きようとしているんだろうって……。あの時……家を追われた時、父様は心中をしようと言い、母様たちはそれに従った。吾作は元々家の者じゃなかったから、逃がしたみたいだけど。けれど兄者は、このまま負けていられるかよって……死んでも死にきれないって……。何が何だかわからなかったおれを連れて、逃げた。その頃にはもう、兄者は父様よりも強かったんだ。

 考えて、考えて、兄者は完全に世界に絶望してるわけじゃないって思った。だって、あの頃は本当に楽しかったから。父様がいて、母様がいて、ばば様に、吾作に……。あっという間で、微かな記憶しかないけれど、それでも。家を追われるまで、幸せな日々が確かにあったから」

 蒼之介が身じろぎをした。華乃を見下ろしたまま、しばらく黙っていたが、やがて、そっか、と言った。

「変えたいと思ってたのかな、おれ。この世には虫けらみたいな奴らが消えることはないし、苦しみや悲しみがなくなることはない。人が生きている限り、理不尽や不条理も繰り返される、それがわかっていても?」

 ふっと視線を空に向ける。冷徹な光を灯していた目が細まり、微かに揺らいだ。

「なぁ、華乃。未来には、もっとましな世界が広がっているのだろうか。一生背に刃を感じながら生きることのない、人を傷つけないでいられる世界があるのだろうか……」

 その時、東に朝日が顔を出した。真っ直ぐな光が江戸の町を映し出し、やがて人々の声や物音が聞こえてくる。

 華乃は、息を深く吐き出して、それら全てを受け入れた。

「闇があるから光なんだ、兄者」

 蒼之介はふっと笑った後、衣を羽織りなおした。笠を被り、華乃に背を向けると、静かに言う。

「異国の船が日本に来たそうだな」

「……あぁ」

 蒼之介は横を向いて、独り言のように呟いた。

「共に来ないか、華乃」

 言われなくても、そのつもりだった。

 華乃はゆっくりと立ち上がると、すっと背筋を伸ばした。兄の背中を見つめると、頷く。

 種を蒔こう。そう思った華乃の心は、晴れ晴れとしていた。この国が、平和な朝を迎えられる日が来るように、この命を費やしてみよう。

 蒼之介はやっと肩の荷を下ろしたかのように息を吐き出すと、ばっと衣を翻した。気がついた時には、彼は岸辺に立っている松の上におり、そのままだっと駆け上がると、空を突っ切って飛んだ。兄が川の向こう岸に渡ったことを確認すると、華乃も蒼之介の後に続いていく。

 二つの人影は、朝靄の中にすぅっと溶けていった。


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