四 火炎

 華乃は、脳天を突いたことで倒れた相手を見下ろして、唇を噛んだ。もうどっちにしても同じなのだから、殺してしまえばよかったのだろうか……。

 自分が手を下そうが下しまいが、佐久間家の悪行を知ってしまったこの男は、どちらにしろ殺される運命だった。遠い国へ逃げようかと幾度も考えたが、このまま生きるよりは、全てを終わらせてしまった方がいい。

 夜だというのに、明るい。視界の隅で、炎が揺れ、ゆっくりと、でも確かに、燃え広がっていく。華乃は、震えている自分の手を広げて、まじまじと見た。

 忘れていた、この感覚。

 秋太の、あの明るく真っ直ぐな光に照らされて。一瞬の幻だとわかっていたのに、束の間自分の立ち位置を忘れた。夢から覚めた後、自分を取り巻いているものは闇しかない。

 自分を信じてくれていたたった一人の人を裏切った後、華乃は今、一人だった。孤独が胸を締め付けて、へたりこみそうになる。自分が選んだことなのに、自分の不幸を嘆いてしまいそうになる。

 華乃はふっと自嘲気味に苦笑した後、炎の熱を感じながら、天を仰いだ。


 江戸の町が騒がしい。今、美津濃家が燃えていた。

 少し離れた丘で、秋一郎はその炎を見下ろしていた。美津濃家は他の家とも隣接していないので、火消し屋も打つ手がない様子で、何事かと野次馬たちが群がっている。

「…火事…野盗…美津濃家……そうか」

 何やらぶつぶつと呟いた後、秋一郎は答えを見つけたのか、一人頷いた。着物の袖を時折木枯らしがはためかせている。

「来たな」

 その声に秋一郎は振り向いた後、ふっと苦笑した。数人の男たちが、秋一郎を取り囲んでいる。一番大柄な男だけは腕を組んで秋一郎を見下ろしているが、後の人々は体に吸い付くような黒い服を着て、今にも飛び掛らんばかりに構えていた。

「これはこれは……おれ如きに大層なお迎えで」

「ふ、逃げられはせんぞ。しかし、本当に来るとは思わなかった。華乃殿は、あいつは自分が狙われることもわかっている、だからこそ呼び出しには受けると言っていたんだが、本当だとはな」

「まぁな。西国に逃げてもよかったのだが、そうすれば父上が狙われるだろうし、いつまで経っても帰れなくなるのは嫌だったもので」

 秋一郎が口を閉じたその時、男がかかれ、と言い放った。

 その時、何が起きたのか、秋一郎の目には見えなかった。横をすり抜けた者の風圧を感じた次の瞬間、呻き声も上げぬまま、男たちが倒れていく。

 秋一郎は肩をすくめると、男の方へ歩み寄った。

「華乃殿はおれを見誤っていたようだな。おれが何もせずここに来るわけないだろう。悪いけど、まだ自分の命を捨てる予定はないんだ」

「……何だ、今のは」

「いや、実はおれもよくわからないんだ」

 秋一郎は振り向いて、背後にひっそりと立つ男を見た。男が最後に一つうめくと、体の力が切れたようになくなる。完全に気絶したらしい。

 自分を狙ってくるだろうというところまでは予想がついていた。けれど、むざむざ死にたくはない。迷った挙句父上に相談すると、彼はいい護衛士をつけてやる、と言った。

 佐久間方の刺客に勝てるほどの者なのか疑わしかったが、実際会ってみると、秋一郎は彼の動きに舌を巻いた。

 ただ…彼は少し、怖い。その武術の腕など、人間業とは思えない。不思議な雰囲気を漂わせて、それこそ人というよりか物の怪のように感じる。

 そこまで考えて、秋一郎は一人、苦笑した。立ち上がると、再び美津濃家を見やる。

 美津濃家が燃えたことを知った時、斉雄の策はわかった。

 斉雄は、ただ敵を殺して排除をしようとする類型ではない。やるなら、他の者に気づかれぬようなやり方で、秋望に精神的な深い傷を負わせ、破局へと追い込もうとするだろう。

 父親の息子への思いは、斉雄は自分でよくわかっている。だから、秋望が手をかけて育てた秋一郎に罪を着せたまま殺そうとした。その罪が、あの火事なのだろう。

 夜叉姫に盗賊が襲いかかったことを、秋太を襲ったことにして、盗賊に扮していた美津濃家当主を敵の刺客だと根拠なく判断、捕らえて尋問をしようとしたが、火をつけられて焼死した――そんな感じの筋書きだろうか。ここで秋一郎を殺して、火の中に放り込むつもりだったのだろう。

 家を燃やすのだから、美津濃家を切り捨てたということになる。美津濃家が佐久間家のやり方に反発でもしたのだろうか。だとしたら、美津濃家当主も、あの炎の中にいるかもしれない。理由付けは、与力や同心の中に佐久間方の人間がいればどうとでもなることだろうし……。

 佐久間 斉雄、この世界を将棋かなにかの局面だと思っているのではないだろうか。佐久間家にとって邪魔となる、榊原家と美津濃家を同時に排除する。さすがといえばさすがなのだろうが、利用できるものは全て利用するあのやり方は、本当の目的を忘れてしまいそうで、自分だったら怖くなる。

 しかし。秋一郎は痛ましげに目を細めた。

 自分が起こした全てのことを、自分で片付けようとしているのか、華乃。

 お前が死ぬことで悲しむ人のことは思わないのか。それとも、そんな人はいないと思っているのか。

 秋一郎はしばしその炎を見つめた後、首を振ってその場を後にした。



 人ごみを掻き分けると、夜を明るく浮かび上がらせている正体が見えた。

 火事。秋太は息を呑む。ざわざわと騒がしいはずの人々の声も聞こえない。ただ、耳鳴りがさっきから耳に纏わりついて、離れなかった。

 千鶴、お前は知っていたのか。知らないにしても勘付いていたのか。その上で、おれにさよならと言い、あの家に帰っていったのか。

 本当に、自分は無力だと思った。華乃にも言いたいことを言えぬままぐだぐだ時を過ごしているくせに、本当に大切なものも、守れない。

「…太! 秋太!」

 その声を聞いた途端、一瞬、全ての思考能力が止まった。ばっと振り返ると、はぁはぁと息を切らした、寝巻き姿の千鶴がいる。さっきからずっと耳元で叫んでいたらしい。

「え…あ?」

 つい間抜けな声を出してしまう。千鶴は騒がしい周りを見回した後、手を振る動作をして、路地裏に行った。慌ててついていく。

「千鶴……お前、何で」

 千鶴は首を振ると、唇を噛んで炎の方を見やった。

「私は無事だったけど……お父様は中にいる。秋太、私、夜叉姫様に助けられたの」

「華乃?」

 千鶴は聞きなれないだろう名前の正体を問うこともせずに、唇を噛んで頷いた。

「寝てたら、何故か起きちゃって――そしたら、目の前に綺麗な女の人がいたのよ。外に運ばれたのか外にいてね、夜叉姫様は屈んで、秋太を頼む、って……。見たら、家が、燃えていた。その中に、夜叉姫様は入っていったの。そのままよ。

 ねぇ、秋太、夜叉姫様は何をしたの? お父様はあの人に倒されてしまったの? そんなことないわよね、お父様の強さは私が一番よく知ってるもの」

「……華乃は、完全に気配を消すことができるんだ。気配を消したまま背後から近付いていったら、たとえ師範でも――」

 言いながら、秋太も炎の方へ目を向けた。

 華乃。本当に、おれに近づいたのは情報を得るためだったのか。おれはそれだけじゃ納得できない。何故って、華乃と過ごした時は、本当に楽しかったから。

 時神様の上の明るい笑顔、嬉しそうに大福を頬張っていた横顔。それらは嘘とは思えなかった。

 そして、あの炎は、華乃と、師範を呑みこんだまま――。

「千鶴、そこで待ってろ」

「え? ちょ、ちょっと、秋太!」

 千鶴に目も合わせぬまま、秋太は走り出していた。竹刀を確認すると、裏通りを通って美津濃家まで近づいていく。

 秋太は、燃えている美津濃家をじっと観察した後、横の大木を見上げた。


「……行くのか?」

 秋一郎は、大木を見上げた弟に、静かに問う。目の前の少年が何をしようとしているのか、手にとるようにわかった。秋太はばっと秋一郎を振り返って、しばし兄の顔を見つめる。そして、静かに頷いた。

「……はい。おれはまだ華乃に何も言ってないし、華乃の言い訳も聞いてないので」

 その答えに、秋一郎は煙に咳き込みながらも笑った。

「お前は、あの娘の言い訳を聞きに命をかけるのか」

「まぁ。華乃の言い訳なら、聞く価値もあるかな、と。兄上、止めないのですね」

 華乃と同じことを言われたな、そんなことを思う。秋一郎は首を振った。

「おれが止めても、お前は聞かんだろう」

 それに、守る者がいる時、人は強くなる。華乃のためを思うなら、これもいい手なのかもしれない。……こう考えてしまう自分は、無責任なのだろうか?

「兄上は往生際が良すぎるのです!」

 一言言うと、秋太は身軽に木の上へ上っていった。勢いよく木の枝を蹴り上げると、屋根に竹刀をついて奥まで行き、その勢いのまま振りかぶって叩き割る。

「お前が悪すぎるんだよ」

 燃える家の中に消えていった弟の背中に呟いた時、秋一郎は自分がさほど心配していないことに気がついた。


 

 その姿を見た時、一瞬幻かと思った。天井から降ってきた人影は、着地すると、ごほごほと煙に咽んでいる。

「……秋太?」

 その名前を口にした瞬間、華乃は今の状況を悟った。唖然として数秒沈黙すると、ぱちぱちと火が爆ぜる音を聞いて、はっとする。

「お、お前は馬鹿か! 何しに、いやその前にこの火の中。あぁこの馬鹿!」

 そのまま頭を抱えて座り込む。混乱状態に陥った華乃を不思議そうに見た後、袖で口元を覆い、秋太は口を開いた。

「話は後だ。まず、脱出するぞ……師範!」

 華乃の隣に倒れていた大柄の男に、秋太は駆け寄った。気絶するだけだと気づくと、少し肩の力を抜いたが、すぐに辺りを見回す。

 炎は、既に辺りを覆っている。秋太が来た天井も、華乃だけなら上れるだろうが、この師範代と秋太もとなると、不可能に近いだろう。

 しかし未だ諦めていない秋太を見た途端、華乃の中で、生きる気力と呼べるようなものが、再び芽吹いた。それは自分が生きるためというよりも、今目の前にいる、自分の命を放り出してまでも他人を助けようとした少年を救い出すための使命感のようなものだったが、華乃の瞳に、再び生気が宿ったのだった。

 華乃はすくっと立ち上がった。一番炎に侵食されていない、外の壁に近いところを見つけると、腕を大きく振って舞う。一瞬炎が消えたが、壁を壊すまでにはいかずに、再び燃え上がっていった。

 すっと、横に竹刀が伸びた。振り返ると、秋太が竹刀を持って、頷いた。華乃も頷くと、再び地面を蹴る。次の瞬間秋太の竹刀が壁を壊した。

 少しも無駄のない動きで、一瞬にして師範をかついで外へ転げ出ると、銀色に輝く月が見えた。人々の息を呑んだ驚いたような顔が、次の瞬間歓喜の表情に変わる。

「夜叉姫様がおいでなさった!」

「夜叉姫様は健在じゃ!」

 江戸の町を揺るがさんばかりの拍手や掛け声に囲まれながら、華乃は首を回して、一人の少年の姿を探した。両手を地について、ごほごほと咳き込みながらも、生きてここにいる秋太をみとめると、華乃は微かに、安心からの笑みを浮かべた。

 美津濃家ががらがらと音を立てながら崩れ落ちる。目の前がふっと暗くなった。



「まぁ、このまま安静にしとれば問題ないだろう」

 秋一郎は明りの火を消して、部屋を出て行った。気持ちよさそうに眠る華乃を振り返った後、秋太も兄に続く。

「しかし、あいつは化け物だな。あれほどの煙を吸い込んでおいて、あそこまで持ったとは。信じられぬ」

「兄上、火事場の馬鹿力という諺もある」

 廊下を歩きながら、何故か胸をそらす秋太を見て、秋一郎はそれもそうだな、と笑った。

「ところで兄上、父上は……」

「大丈夫だ、了承は得ておる。それに、華乃を守るためにも、榊原家で匿う方がいいに決まっているしな。まぁ、佐久間家の悪行も美津濃家当主の手で明らかになることだろうし、一件落着だろう」

「でも……」

「美津濃家のことは大丈夫だ。美津濃家を保護するよう、父上が榊原家の仕えている若君に申請するらしい」

「失礼します」

 前を見ると、下男の吾作がいた。折り曲げて礼をすることで、小柄な体が更に小さく見える。

「あの、奥の部屋でお休みになっている方は……」

「あぁ、華乃のことか。夜叉姫とも呼ばれておったが」

 秋一郎が答えると、吾作はそうですか、と言って秋太たちの横を通り過ぎていった。

「…そうですか、生きておられましたか……」

 振り返る。さっきの声は、あの震えは、気のせいだったのだろうか? 

 呼び止めようと声をかけようとした時、秋太の肩に手が置かれた。上を見上げると、秋一郎がゆっくりと首を振った。

 この兄には、一体何処までがわかっているのだろう? 時々、そんなことを考える。


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