三 朧月

 秋太は、目の前の少女と向かい合っていた。しかし、すぐに自分の部屋の床に目を向ける。そんな秋太を見て、千鶴は心配そうに顔を覗き込んだ。

「……何の用だよ」

 千鶴はため息をついた。

「ここんとこ、道場に来てないじゃない。秋太は何があっても剣を優先させるでしょ。何か心配になって」

「それが何だよ。余計な心配するな」

 陽だまりが、秋太の部屋の中にぼんやりと入ってきている。暖かい昼下がりだった。

 確かに、道場にはここのところ行っていない。あそこには師範がいる。あの人の顔を、まともに見られるとは思えなかった。しかし、ここで悶々と時が移り変わるのを待っているのも、そろそろやめなければならないのだろう。

「……夜叉姫様と、何か関係があるの?」

 華乃。彼女のことを思い出した途端、千鶴が自分を見た表情を見て、秋太は舌打ちをした。自分は今、どんな顔をしたのだろう。

「やっぱり」

 千鶴はもう一度、ため息をついた。

「お父様が言ってたのよ。あれは一体どういうことだったのだろうって。佐久間家の命を受けて夜叉姫様をおびき出し、襲ったのに、何故あそこに秋太がいたんだろうって……」

 訳がわからぬ顔をしていたのだろう。千鶴は苦々しげに笑った。

「そうよね、秋太は政のこととか、何にも知らないものね。兄上様に任せて、自分は関係ないとでも思っているでしょう。何よりも、剣が一番大事」

 黙っていると、千鶴は静かに座り直した。自分より年下の者に諭すような口調で言う。

「秋太、私はあなたが何を悩んでいるか、全てを知らないけれど、あなたの底にあるわだかまりは、きっと解かなければならないものだと思う。あなたはそれを知る権利があるわ。……秋太、二年前から、榊原家と美津濃家は敵同士なのよ」

 顔を上げていた。幼なじみの少女を、まじまじと見る。

「え…だって」

「二年前の騒動を忘れたの。あなたのお父様、秋望様は美津濃館をやめさせようとしたでしょう。けれど、美津濃館ほど、この近くに剣を学べるところでいい場所はない。あなたはお父様やお兄様の忠告も、がんとして聞かなかった。私と秋太は仲が良かったし、親同士の相談で事は収まったの」

 すぅっと息を吸った後、千鶴は続けた。

「大名のご子息であられる若君に榊原家は仕えているわよね。佐久間家はその弟君に仕えているの。佐久間家からすればその弟君が出世すれば自分も出世するのだから、兄である若君は邪魔。だから、榊原家と佐久間家は対立していた。お父様は、二年前、佐久間方にいったのよ。お父さんは美津濃館師範代だけど、やはり武家の一端で、前々から判断を迫られてたの。そして、半ば脅されるようにして……」

 秋太は、驚いて声もなかった。今までのことが頭に次々と浮かぶ。

 榊原家と佐久間家が対立していることは、何となくわかっていた。けれど、美津濃家のことは……。では、師範も千鶴も、親同士のことを抜きにして、今まで接してくれていたということか。

 秋太は頬の裏を軽く噛みながら千鶴を見つめていたが、やがて意を決したように立ち上がった。

「兄上のところに行こう」


 市は今日も賑わっていた。団子や稲荷が売られている屋台が所狭しと並び、駕籠屋や飛脚が忙しそうに動き回っている。

「秋太! こんなところに秋一郎さんはいるの?」

 千鶴が耳元で叫んできた。足は止めずに体を回す。

「家にいなかったんだから、ここにいる可能性は十分にある。兄上は暇さえあればここに来るんだ」

 兄、秋一郎は甘いものには目がない。ふらりと屋敷を抜け出て、学問から逃げてきた秋太とばったり出くわすこともしょっちゅうだった。

「ね、秋太」

 背中をつっつかれて、千鶴が指差した方を見ると、瓦版売がいた。そこに人が多く集まっている。

「さぁさ、皆様お立ち会い! また、浅草で二つの首を持つ犬が出没したよ!」

 秋太は顔をしかめた。心配そうな千鶴を振り返る。

「本当みんな、化け物好きだよな。どうせ、酔っ払いが野犬を見て、首が二つだと勘違いしただけだろ」

「妖怪なんてこの世にいるわけない、って?」

「そういうこと」

 そうかなぁ、と不服そうな千鶴を置いて、先を急ぐ。団子屋か、飴細工売りか……。首を回した時、ふと二人組の女の会話が耳に入った。

「そういえば、最近夜叉姫様の噂は聞かないねぇ」

「東海道で、金銀を運んでいた飛脚が襲われたんだろう。こないだ火つけも出たというじゃないか」

「まったく、何をしてるんだか」

 秋太は足を止めて、はぁ、とため息をついた。

 そういえば、そうなのだ。夜叉姫はここ最近姿を現していない。あの時負った傷が痛むのだろうか……。

「秋太じゃないか」

 声をかけられて、秋太はふと目を上げた。客寄せの女が、人のよさそうな笑みを浮かべている。

「おいとさん」

「どうだい、団子一本! 負けとくから」

「いえ、今日はお金を持ってないので」

 曖昧な笑みを浮かべて断ると、おいとはそうかい、とあっさり引き下がった。

「あんたの兄さんは来てるんだけどね」

「え」

 おいとの視線を追うと、優雅に座って茶をすすっている、着流し姿の若者が目についた。冷や汗が伝う。探していたのに、全く気がつかなかった。秋太の方に目を向けぬまま、秋一郎が口を開く。

「来るな、秋太。おれは静かに茶の時間を楽しんでるんだ。このまま見ていぬ振りをして立ち去れ」

「…………」

 無言で兄に歩み寄り、むんずと腕を掴む。軽い悲鳴を上げて、秋一郎は茶をこぼした手を振った。

「兄上、ここでは話せぬ用があるのです。家に帰りましょう」

 そのまま、引きずるようにして帰途につく。市を出ようとした時、千鶴がついてこないのに気がついた。

 振り返ると、数歩離れたところにいる。怪訝そうに見ると、千鶴は首を振って寂しそうに笑った。

「私はもう道場に戻らなきゃ。……さよなら、秋太」

 千鶴が言った言葉が、じゃあねでもまたねでもなく、いつもとは違うさよならだったことに気がついたのは、千鶴が去って少し経った時だった。

 あの寂しそうな笑顔には、どんな意味がこめられていたのだろう……。けれど、秋太はこれから兄と向かい合った時のことを思い浮かべ、そのことは頭から消していた。


「……何用だ、秋太」

 秋一郎は自分の部屋に行くと、不機嫌そうにでも秋太を迎え入れた。涼しい顔をして膝をつくと、顔を上げる。

「知恵を貸していただきに参りました」

「ほう、知恵を?」

 秋一郎は書き物を始めていた筆を止めると、愉快そうに笑った。

「何かしら様子がおかしいとは思っておったが。何だ、秋太。話してみよ」

「……ただ、兄上。このことは他言しないと約束して下さい」

 その言葉に秋一郎は一瞬怪訝そうな顔をしたが、静かに頷いた。それを確認すると、一瞬目を瞑る。

 ごめん、華乃。

 秋太は目を開け、唇を湿すと話し始めた。

「一月ほど前のことでした。月夜の晩、私は一人の娘と出会ったのです――」  華乃のことから千鶴が話したことまで、全て、秋太は兄に語った。全てを語り終えた時、秋一郎は苦笑した。

「そうか、これで謎が解けた。いや、お前が父上の前でついた嘘のことが気になっていたのだ。そういうことか」

「え、では父上は……」

 秋一郎は何を今更、というように秋太を見た。

「秋太、あまり父上を見くびるな。父上はお前の嘘も見抜いておる」

「…………」

「おれは、お前が夜叉姫にたまたま会ったということから気になるな。今まで、夜叉姫は姿を見せることも嫌っていた。その夜叉姫が、何の見返りもなく、お前に毎晩剣を教えたと? 馬鹿な。そんなこと、あるものか」

 ムッとして口を開こうとしたが、秋一郎は遮るように首を振った。

「おれはお前たちがどういう時を過ごしたのか、知らぬ。でも、こう考えれば全て辻褄が合うぞ。その華乃とやらが、敵方――つまり佐久間方についていて、榊原の情報を手に入れるために、秋太に近づいた」

 予想もしていなかったことを言われて、秋太は目を見開いて、兄を見つめた。

 思えば、華乃は秋太のことを知っていた。どうやってここにしのんでくるのかなど、秋太のことをよく訊きもした。何かが崩れる音が聞こえる。

 いや。秋太は納得してしまうのには早すぎると、踏みとどまった。

「……それでも、兄上、美津濃家は佐久間方なのでしょう。盗賊の中には師範もいました」

「そうだな。けれど、あの盗賊たちが、彼女への脅しだとしたら、どうだ? 例えば、定期的にあった報告に、彼女がずっと来ていなかったとか、与えられた命を受けるのを拒み続けていたとか……。そう考えれば、美津濃家当主が真剣を使わなかったことにも納得がいく」

「…………」

 秋太は、ひたひたと胸を満たしていく冷たさを感じながら、床を見つめていた。

 なかなか素直に頷けないけれど、兄上にそう言われれば、そうなのかもしれないと思ってしまう。それほど、秋一郎の言葉には説得力があった。

 やはり、兄に相談したのは正解だったのだろう。幼い頃から学問と武術の才を示し、父たちから厳しくしつけられて生きてきた。こういう出来のいい兄がいたからこそ、秋太がそれほど縛られることもなく、自由気ままに過ごしているのだ。

 いい加減な様だが、冷静で、頼りになる兄。まだ十八だが、秋望は秋一郎を頼りにしていた。

 秋一郎は、再び考え込むように顎に手を当てた。

「けれど、父上が知っていた謎や、紅葉のことはわからん。紅葉は偶然ではないのか?」

 紅葉を見た瞬間華乃が浮かべた表情を思い出すと、そういうわけではないような気がしたが、秋太は黙っておいた。ここで騒ぎ立てても、どうにもならないということが見えていたからだ。成長したな。自分で思い、苦笑する。

「でも、これらは机上の推理でしかない。おれが今言ったことを裏付ける証拠は何もないのだからな。後は、お前がどうしたいのか、それだけだ」

 自分は、何をしたいのか――。秋太は目を瞑る。けれど、目を瞑って見えたのは、虚ろな闇しかなかった。



 細い目をした背筋が伸びた武人と、一人の娘が向かい合っていた。武家の屋敷の一室で、娘の方は畏まっている。

「……華乃、面を上げよ」

 華乃は片膝を立てたまま、目の前の男、佐久間 斉雄を見た。斉雄が口を開く。

「お前は情報屋としてもなかなかに優れた奴で、今まで多くの情報を我らにもたらしてくれたな。けれど、最近は姿が見えなかった。何をしていた」

「……すみませんでした」

 華乃は何を言うこともなく、頭を下げた。秋太なら怒りを表すだろうが、華乃は何処までいっても冷静だ。

「まぁ、よい。今回は甘んじて見逃してやる。これからは改めること、よいな」

「はい」

「ふむ。それでだな」

 斉雄は顎を撫でながら、華乃にこれからのことについて、淡々と話し始めた。話が進むにつれ、華乃の顔が強張っていく。

「――となる。よいか」

「しかし、それは」

 顔を上げた華乃は、斉雄の表情を見て、言いかけた言葉を止めた。今まで力で道を開いてきた男の目には、有無を言わさぬ色があった。再度、念を押すように言う。

「よいか」

「……はい」

 華乃は唇が震えるのを、強く噛むことで耐え抜こうとした。

 表情のない目で、じっと闇を見つめていた人の姿が、眼裏に浮かぶ。本当に未来は、あの人の言う通り、裏を返してみれば虚無が広がっているだけなのだろうか……。

 部屋を立ち去り、すくっと立ち上がった華乃は、もう震えてはいなかった。ただただ静かな、無の表情がそこにあった。



 夕日が暮れ落ちていく中、時神様のところには秋一郎の姿があった。懐手で立ち、目を細めて時神様を見上げている。

「おーい、降りてきてくれないか。生憎おれは秋太のように身軽ではないのでな」

 すると、枝の間に娘の顔が覗いた。しばらくの沈黙の後、すたっと降りてくる。その速さに、秋一郎は関心していた。

 華乃は幹にもたれかかると、睨むでもなくじっと秋一郎を眺めた。

「何用だ、秋一郎殿。今更弟のことについて何か言うつもりか」

「いや……ただ、本当におぬしはやるつもりなのか、とそれを問おうと思っただけだ」

 華乃がふっと笑った。

「さすがだな、お見通しってわけだ」

「全てはわかっていない。ただ、斉雄は次の一手を打ってくるだろうと思っているだけだ。それも、榊原家が終わるような……」

「ふ、これだから世は醜い。出世したところで、何が変わるのか」

 秋一郎は苦笑した。

「華乃とやら、おれが思うに斉雄は息子である斉助のことを案じているのだ。彼が佐久間家当主となる時に苦労せぬよう……」

「あいつも、子を思いやる心はあるということか」

 華乃は切り捨てるような口調で呟いた。秋一郎はそんな彼女をじっと観察する。

 存外に、若い。それなのにこの冷静さといい、世を捨てるような口調といい、一体この娘はどんな体験をしてきたのか……。

 考えても仕方ないと、秋一郎は首を振った。

「華乃、秋太は今までのほとんどを知ったぞ」

「……そうだろうな。あれは自分が思っているより聡いし、勘がいい。……性格はちょっと問題があるけどな」

 苦々しげに笑う華乃を見て、秋一郎も弟の顔を思い浮かべてまぁな、と笑った。

 しかし、すぐに笑みを引っ込め、目の前の娘を見る。

「しかし、すぐ割れるという紅葉は一体何だ? 秋太は、それを美津濃館の橋の上でも見かけたというが。それに、父上は盗賊が襲ってきた夜の出来事を把握していたらしいが、おぬしと何か関係あるのか?」

 その時、華乃は打たれたように顔を上げた。心底驚いたような顔で、視線を空中に漂わせる。秋一郎の方が驚いて、思わず一歩後退した。

「どうかしたか」

「あ……いや。紅葉はおれの問題だ。お前たちは気にしなくていい」

 言いながら華乃は何か考えているようだった。しかし、すぐに秋一郎の怪訝そうな視線に気づいた様子で、視線を秋一郎に持っていく。

「それで、お前は止めないのか。お前の家に、おれが手をかけようとしているんだぞ」

「そりゃ、止められるものなら止めたいさ。けれど、おれなんかじゃお前の相手にはならんだろう。それに、おれは武術より学問の方が好きなんだ」

 懐手のまま、秋一郎は穏やかに笑う。その笑みを見て、華乃は苦笑した。

「奇遇だな。おれも武術は好きじゃない。まぁ、学問もそれほど好きにはなれなかったが」

「何だと?」

 秋一郎は片眉を上げた。

「じゃあ、何故……」

「これしかないからだ。こういう自分に生まれて以上、戦うしかない」

 爛々と光る黒い左目が、真っ直ぐ秋一郎を捉えていた。華乃は地面を蹴ると、日が暮れ果てた薄闇の中に溶けていった。

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