二 印籠

 夜、黒く見える川の川原、そこに二人の人影があった。一人は黒服の娘、一人は背の低い少年だ。稽古の休憩途中なのか、彼らの横には竹刀が一つ、投げ出されていた。

「華乃って、普段は剣とかの武器、使わないよな」

 秋太は、持ってきた土産の大福をほうばった。華乃は右手で食べかけの大福を持って、視線を宙に漂わせている。

「ん……剣は、落とした時に危険だし、動く時に邪魔だからな」

「邪魔?」

「そ、邪魔。秋太は感じない?」

「……うん」

 感じるどころか、思いもしなかった。けれど、華乃の動きを見ているとなるほどそうなのかもしれないと思ってしまう。秋太の相手をしている時は加減しているだろうけど、目で追うことも困難な華乃の動きは、武器を必要としない、完成されたものだった。

「ってか華乃、大福食いすぎじゃないか?」

「気のせいだろ」

 言いながらも、華乃の手は最後の一つとなった大福の方に伸びる。秋太はその手をぴしゃっと叩いた。

「だめ、もうこれはおれんの」

「何だよ。秋太って、見かけ通りのケチだよな」

「何だそりゃ」

 華乃は不機嫌そうに足を伸ばして寝転んだ。その姿を不思議な気持ちで眺めながら、秋太は口を開いた。

「あのさ、ずっと聞きたいと思ってたんだけど。華乃は今まで何をしてたんだよ? 夜叉姫が出たのって、初夏くらいだろ」

「聞きたい?」

「うん」

 華乃はむくりと起き上がって、秋太に向かって手を出した。訝しそうに見やる。

「何だ、この手」

「大福」

「…………」

「聞きたいんだろ?」

 しぶしぶ大福を渡すと、華乃は嬉しそうに大福にかぶりついた。その顔がいつもの華乃と比べてあまりにも子供っぽいので、少し驚いてしまう。

「江戸にはいなかったんだ、おれ」

 手を舐めながら、華乃がぽつりと呟いた。

「松前にも行ったし、土佐にも行ったし。一箇所に留まらないで、転々と暮らしてた。盗賊たちに雇われたことも多くあったよ。ははっ、今とは逆だな」

「盗賊に?」

「盗賊たちも人だからね。過去がある。よくあるのがね、無実の罪を被らされ、逃げてきた武士の、成れの果ての盗賊。どうしても復讐したいというんで、手を貸すんだ。けど、多くが思いを遂げた後、自害する。……それが嫌だった」

 華乃の顔が、珍しく苦痛に歪んだ。しかし、目を瞑って息を深く吐き、無表情に戻る。

「おれは、見かけはただの娘だから、認めてもらうまでが一仕事だった。けどね、何処に行っても同じなんだ。どうせ、おれより強い奴なんていない。少なくとも、まだ一人も見ていない……いや」

「いるのか? 一人」

「……あぁ。結局、その人には一度も勝てなかった」

 秋太は首をひねった。華乃より強い人など、想像もできない。けれど、その前に、華乃がその人のことを語る時に浮かべた表情が、気になった。悲しさ、寂しさ、懐かしさ、そんな感情が入り混じったような、微妙な表情。けれど、その中に、確かに愛しさと呼べるような、温かいものを感じる。

 大切な人なのだろうか。

「今日は一緒に行ってみるか」

 ぼんやりと空を見上げていた華乃が、いきなり口を開いた。

「何だって?」

「夜回り。盗賊たちは最近大人しくしてるけど、昨日出たんだ、秋太が帰った後に」

 華乃は小さくなった大福を投げると、口で受け止めた。地面に片手を添えると、とんと立ちあがる。

「おれの勘では、今夜も来る」

 秋太は黙ったまま、目を落とした。竹刀を地面について立ち上がる。

「商家町の辺りだな……」

 粉がついた唇をなめてから、華乃は町の中に向かっていった。


 華乃の言った通り、屋根伝いに商人の家が集まっている商家町に近づいていくと、揉め事のような何やら騒がしい音が聞こえてきた。

 しかし、秋太は眼下に広がった戦いの図を見ると、足が竦んでしまった。盗賊たちが、一軒の商家を襲っている。もう既に一人、この家の者と思われる者が切りつけられていて、混乱の渦となっていた。                                                                                                                                                                                           

 華乃がこちらを振り向いたのがわかった。目を合わせる。屋根の上、今まさに降りようとしている華乃と、突っ立って呆然としている秋太と、数秒二人の視線が交わった。ふっと華乃が目をそらす。

「わかった。お前はそこから動くな」

 次の瞬間には、華乃はそこにいなかった。わー! という歓声や怒声が下で響いて、秋太は慌てて下の様子を覗き込んだ。

 混乱の渦の中に華乃がいた。盗賊たちがさっと華乃から身をひいて、取り囲む。次の瞬間、一斉に掛け声を発して、華乃に襲いかかった。華乃はその瞬間、地を一つ蹴って宙へ身をおいた。

 その姿は、黒い焔のようだった。月夜の晩、江戸の町に閃く焔は一瞬も止まることなく、息を呑むほど美しい。

 何故、視界に捉えられない者の動きもわかるのだろう。こうしていると、本当に不思議に思えてくる。華乃は右目を布で覆っている。視界が狭くなるだろうに、何故そんなことをしているのかと訊いたことがあるが、右目を押さえて、華乃はふっと苦笑した。

 ――ここには傷があるんだよ。ざっくり切られた、大きな傷がね。

 しかしすぐ真顔になって、静かにこう言った。

 ――けどね、秋太。相手の動きを捉えるための目は、あまり必要じゃないんだ。それど

   ころか、邪魔になる時がある。

 あれは、どんな意味だったのだろう。

 集まってきた町人たちの歓声が響いた。戦いを遠巻きに見て、何やら叫んでいる。しかし、転げ出た盗賊の一人が刃を向けると、その歓声は悲鳴に変わり、人々は逃げていった。

 その間も、華乃は人々の様子など構うことなく、盗賊たちに目を向けている。しかし、その背後に迫る影に、秋太は息を呑んだ。男が気配を消して、ゆっくりと近づいている。

 華乃は気がついていないのだろうか。いや、よく見ると彼女の体の線が強張っている。彼女は今、一度に何人もの人を相手に戦っている。おそらく、そちらに隙を見せればやられてしまうぎりぎりの状態なのだ……。

 そう思った時、息を殺して見ていた秋太は、だっと駆け出し、宙に身を投げた。着地する一瞬の間に竹刀を構えると、はー! という掛け声と共に、男の背中に竹刀を叩きつける。

 男の手から、木太刀が転がる。守備よく着地したのはいいが、倒れていく男の顔を見て、秋太は自分の目を疑った。見覚えがある、褐色の肌の大柄な男……。

「秋太!」

 はっと声の方を見たのと、華乃が自分を突き飛ばしたのが同時だった。自分に向けられていた剣が微かに華乃の肩に触れ、目の前が赤い血に染まる。

 しかし華乃は少しの呻き声もたてず、間髪いれずにその盗賊の眉間を秋太の剣で突いた。自分の血を見ても表情一つ変えない、その一瞬、秋太は華乃が恐ろしく思えた。

「秋太、逃げよう」

 そう言うや華乃は跳び、屋根の上へ行く。秋太はさっき見た男のことを頭から放り出し、華乃の後を追おうとした。追いかけてくる盗賊から逃れるために竹刀をぶんぶん振り回して、やっとのことで屋根に手をかけると、上から引き上げてくる力を感じる。華乃は秋太の無事を確かめると、静かに頷いた。

 ちらり、と赤いものが視界を過ぎる。思わず振り向くと、秋太たちに向かって、紅葉がゆらゆらと舞いおりてきていた。


 今日起こったことが信じられないまま家に帰ると、玄関に手燭がおかれていた。顔を上げると、初老の小柄な男が、静かに座っている。榊原家の下男の吾作は秋太に気づくと、ゆっくりと礼をした。

「ご当主様が奥でお待ちになっておられます」

 家を抜け出したのがばれたのだ、と思った。妙に静かな心を持て余しながらも静かに頷き、竹刀を吾作に預けて奥へと向かう。

 微かな明りが漏れ出ている襖の前で正座をすると、向こうの相手へ呼びかけた。

「秋太です」

 入れ、という低く響く声が聞こえて、秋太はしゃっと襖を開けた。俯きながら、前へと進み出る。

 秋太の父、秋望は冷たい光を放つ目を秋太に向けた。いつもとは違い、触れれば切れそうな、張り詰めたものを感じる。

 秋望はいかにも武人らしい、誇り高く、すぐにかっとなってしまう気性の男だった。その父がこのような雰囲気を感じさせることに、秋太は完全に気圧されていた。

「夜叉姫が今夜も姿を現したそうだな」

「…………」

「不思議なことに、その娘の横には、秋太、お前の姿もあったという。これはまた、どういうことなのだろうな」

 秋太は奥歯を噛みしめた。何か事情がありそうだったのに、少しでも夜叉姫と繋がりがあるとばれれば、問いただされてしまうかもしれない。何より、自分のことは言うなという約束を、違えることになってしまう。

「……父上、おれと夜叉姫様とは何の関係もありません。黙って家を抜け出したのには謝ります。しかし、それは剣術の稽古がしたくなったので家を抜け出した、それだけのこと。何やら騒がしかったので商家町へ向かい、夜叉姫様と思われる女が窮地に追い込まれていたので加勢しただけです」

 言い終えると、父が深いため息をついたのがわかった。思わず顔を上げる。

「お前を見ていると、時々、昔の自分を見ているような錯覚に陥る」

 秋望は、悲しそうに秋太を見ていた。

「秋太、その夜叉姫という娘は、お前を庇ったせいで肩に傷を負ったそうだな。お前がいたらなかった故に」

 目の前で吹いた血を思い出し、秋太はさっと青ざめた。秋望がさっきとは転じて強い調子で言う。

「秋太、思い上がるな。お前は無力だ。お前はお前の母の兄、叔父である芳惟様が気に入らぬようだが、芳惟様を敵に回せば榊原家は終わるのだぞ。お前も生きていられない。そろそろお前も世の理が見えてくる年頃であろう。己の無力さを、そろそろ自覚しろ」

 顔を上げられなかった。つけあがっていた自分を思うと、体が熱くなるほど恥ずかしかった。奥歯を噛みしめ、震える声で言う。

「……はい、父上。申し訳ありませんでした」

 その声があまりにも弱々しかったからだろうか。秋望はもう一度ため息をつくと、下がれ、と言った。

「しかし、もう夜に家を抜けることはするでないぞ」


 秋太は自分の部屋に行くと、のろのろと夜具に潜り込んだ。もう華乃に剣を教えてもらえないのかと思うと、寂しかった。

 けれど、あれはどういうことなんだろうか。ふっとあの時のことが頭を掠め、再び数々の疑念が持ち上がってきた。

 あれほど強い華乃が、あそこまで窮地に追い込まれた。盗賊というものがどういうものなのかよく知らないけれど、あの中にはかなりの手練が多くいたのだ。それに、華乃が現れた時の素早さといったら、ない。まるで、始めから彼女が目的だったかのような……。

 それに、秋太が倒したあの男。あれは、間違いなく美津濃館師範代だった。そして、彼のもっていた木太刀。あれほど大掛かりで華乃を襲っていながら、真剣を持たず、華乃を気絶させようとしていた……。

 秋太はそれが意味するものが全くわからずに、ぼんやりと闇を見つめていた。こうして一人になってみると、父に対する疑念も沸いてくる。何故、父上は今夜起こったことをあそこまで明確に知っていたのだろう。野次馬はすぐ去っていって、秋太の姿は見ていないはずなのに。

 それに、触れれば割れる乾いた紅葉のことも。

 わからない。色々難しいことを考えたからだろうか。秋太は頭が痛くなって、枕に突っ伏した。


 華乃はため息をついていた。

 もうすぐ夜が明ける。空は灰色がかって、あちらこちらで物音がした。彼女はその様子を、時神様の上で眺めている。けれど、今、時神様を見上げた者がいたとしても華乃の姿には気づかなかっただろう。

 秋太は無事自分の家に帰っていったが、もう来ないだろうな、と思った。彼女にはあの盗賊たちの正体が見えていたのだ。

 あの盗賊は、明らかに華乃を狙っていた。さっきはかろうじて助かったものの、今度は逃げ切れないかもしれない。布で縛ってある、切られた肩を押さえてみる。もう血は止まっているが、まだ疼いた。

 まだ、自分は生きなければならない。つきまとう孤独に負けそうになっても、幾度も飢えに喘いでも、人を手にかけても、……大切な人を、騙しても。

 秋太が羨ましかった。彼は多くの愛に支えられて生きている。日の光を真正面に受け止め、顔を上げられる。

 光は嫌いだ。見たくないものまで見てしまう。自分も知らない、心の内に隠し持っている何かを人に見通されそうで怖い。

 夜回りはやめなければならないな、と思った。戦いのための稽古だと思って今まで盗賊たちを相手にしてきたが、今回、その行動が利用されている。

 稽古? 本当に、それだけだろうか。そう考えて、華乃はふっと苦笑した。もしかしたら心の奥の方では、罪滅ぼしと思っていたかもしれない。救った後に見せた、人々の泣き笑いの笑顔が、胸に焼き付いていたからかもしれない。

 紅葉の赤が、さっきからちらちらと脳裏に浮かぶ。その赤に、華乃は焦燥感と同時に、寂しさも感じていた。どうにかしなければならない。もう、終わらせなければならない。ぱきっと、手の中の紅葉が音を立てて砕ける。

 そろそろ冷え込む時期だ。そう思い、もう一度ため息をつきそうになるのを、華乃はすんでで堪えた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る