一 月影
江戸の町の夜は、闇が濃い。雲間から差し込む月明かりが唯一の光だ。
竹刀を担いで、秋太は道を急いでいた。秋太ももう十二歳、剣を学ぶ道場である、美津濃館に入りかなりの年月が経つが、今日も稽古にのめりこみすぎて時間が過ぎるのを忘れていた。今度門限を破れば、飯を抜かれ蔵に閉じ込められる。
しかし、秋太はある路地で止まった。家の壁に、月明かりで影ができている。しかし、その影が人の形をしていたような気がしたのだ。
既に月光は雲に遮られ、影は見えない。あの一瞬を秋太が気づき、足を止めたのも奇跡に近いだろう。秋太は何気なく上を見た。月の前から雲が通り過ぎ、月光が再び差す。
屋根の上に人がいる。闇に紛れて顔の輪郭もよく見えないが、間違いなく人だった。屋根の上に腰を下ろし、足を空にぶらつかせている。
鳥肌がたった。影を見るまで、全く気づかなかった。命あるものの気配を感じなかったのだ。思わず竹刀に手をやる。
「誰だ」
声が裏返った。このまま立ち去ればよかったのかもしれない、という思いが脳裏を過ぎる。今自分が見ているものは、本当に人なのか?
風が吹き、長い髪が揺れる。影はふっと秋太を見下ろした後、くすりと笑った。馬鹿にされたようで腹が立つ。
「あんたの名は」
女の声だった。
「は?」
「相手の名を知りたい時は、まず自分から名乗ることって、おっかさんから習わなかったのか」
「……秋太。秋に、太」
「秋太、ね」
その影は秋太から目をそらしたようだった。興味がなくなったのか、沈黙が漂ってくる。
「お前の名前、まだ聞いてないんだけど」
「あぁ、そうだな」
そう言うと、また影は黙った。いい加減苛々してきて、竹刀で地面をタン、と叩く。
「いつまで屋根の上にいるんだよ。降りてこい」
榊原 秋太、痩せた体の上、同い年の友達の誰よりも背が低かったが、この気の強さは親戚中に知れ渡るほどだった。よく父に殴られ、母に心配される。だが秋太は誰に何と言われようと、この性格を直そうとしなかった。
腕を組んで顔をしかめる秋太。彼をちらと見た後、影は軽く跳躍した。屋根の上から地面に降りるまでにくるりと回転し、音もなく地面に降りる。
並んでみると、女にしては背が高い方だった。黒い衣を纏い、右目を布で覆っている。秋太には兄と、嫁いでいった四つ年上の姉がいたが、姉くらいの年齢ではないだろうか。
ふっとある名前が浮かんだ。野火よりも速く駆け、猫のように跳躍するという娘の呼び名が。
「お前、まさか夜叉姫か……?」
その言葉を発しても、彼女は秋太を直視したまま表情一つ変えなかった。
手を伸ばして枝に手をかけると、幹にしがみつくようにして足をかける。やっと腰を落ち着けるところに来ると、ふぅと息をついた。町を見渡せるこの大木は、木登りには少しきつい。そこかしこに切り傷ができたが、秋太は気に求めなかった。
秋太は首を回して、今夜わざわざ家を抜け出してまで会いに来た、目的の人を探した。目を擦ると、闇に目を凝らす。わからなかった。舌打ちする。
あの時、時間がなかったので今度いつ会えるかと訊いたら、昨日の影は明日の夜、時神様の上でと言った。時神様というのは、この大木の名だ。町の人々は皆そう呼ぶ。
「夜叉姫、そこにいるんだろ。出てくるな、自分の力で見つける」
助けを求めるのは嫌だった。何処の誰とも今は知れないが、お前の力はそんなものなのだと、甘く見られたくない。
大した力もないくせに他者を見下し、嘲る者を心底嫌う。自己の誇りを保つために、そのような方法しか取れぬ者を陰で侮蔑してきたし、反発してもきた。そのために生意気なと殴られようが、上辺だけで服従するよりは、自己を尊重し傷を作りながらも顔を上げる。
息を深くはき、肩の力を抜いた。目を閉じると、聴覚を研ぎ澄ませる。
ある程度時間が流れた時、上から音がしたかと思うと、声がした。
「秋太、諦めな。今のあんたじゃ無理だ」
驚いて、頭上を見上げる。木の葉が落ちてすっかり寂しくなった樹の上に、闇に慣れた目が確かに人の姿を捉えた。
「……何故出てきた。もう少しで見つけられたかもしれないのに」
「おれの姿を捉えたというあんたの父親だって、気配を完全に断ち切ったおれを見つけることはできなかった。お前は、確かに年の割には強いけど、無理なものは無理だ」
彼女は素早く、けれど静かに秋太の横へ下りてきた。
「何で知ってんだ」
「え?」
「父上が榊原 秋望だってこと、おれが美津濃館に入っていること」
「あぁ、それね。まぁ、うん。でも、よく来たな。まさか本当に来るとは思わなかったから、びっくりした」
ごまかされた。そうわかっていたけれど、何故か問う気にもなれずに、秋太はため息をついた。
「夜叉姫。お前、何者だ」
「……何者だと言われても困る。そこまで大層な者じゃない。夜叉姫が出たと皆が騒ぎ立てているだけだ」
彼女は自嘲気味に苦笑した。
「でも、名前くらいは教えてくれるだろ」
「…………」
いきなり押し黙った相手に、秋太は顔を上げた。しばらく待ってみたが、一向に口を開ける気配がない。いい加減何か言おうとした時、ぼそりと何かを言ったのが聞こえた。
「は?」
「華乃。もう、この名で呼ぶ者も少ない。そもそも、おれと付き合う者もそうそういないしな」
華乃、華乃と呟いてみる。華乃という名の娘。それが、夜叉姫の正体か。あまりに現実味がなかった。華乃が不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「大体お前は何故来た。怖いとは思わなかったのか」
「怖い?」
秋太は顔をしかめた。怖いなんて、ちらとも頭に浮かばなかった。むしろ、好奇心や興味の方が強い。
「おれは、怖いなんて思わない。ただ……」
「ただ?」
頬の内側を舌で押していた。
「お前に会ったこと自体、奇跡なんだ。わかるだろ? 父上だって、姿を捉えただけで自慢してるんだ。その姫様と話したとあれば、おれも鼻が高い。興味……うん、興味かな。いや、別に見世物にしたいなんて思ってるわけじゃないけど。……何だ?」
傍らの人の体が震えているのに気がついて、秋太は怪訝そうに訊いた。
「いや…あんたは本当に正直だな」
「……それは、誉めているのか?」
「もちろんだ」
少しの間くすくすと笑った後、華乃はふっと前を見た。その横顔が月光に照らされて、思わず秋太は見入ってしまった。こうして見ると、美人とは言えないかもしれないが、整った顔立ちをしている。
「久し振りだな、こうやって人と話すのは。たまにはいいものだ」
「華乃は一人なのか?」
華乃は、それには答えなかった。少しの沈黙の後、こちらを見る。
「秋太、お前が望むなら、剣術の稽古をつけてやる。けれど、その代わりおれのことは他の者には言うな」
「稽古をつけてくれるのか?」
「あぁ、前に手ほどきを受けたことがあるからな」
誰に、とは訊けなかった。彼女の無言に、秋太は黙って頷くことしかできなかった。
「秋太!」
声の方を振り返ると、少女が後ろで手を振っていた。道場に続く、整備された橋の上を美津濃 千鶴は単衣のすそを手繰り寄せながら駆けてくる。
今日は、見事な秋晴れだった。午前中は学問をしていたから遅くなってしまったが、午後からでも稽古に励もうと思いやって来たのだ。
千鶴は側まで来ると、はぁはぁと息をつきながら秋太を見上げた。お世辞にも娘らしいとは言えないが、こういう時の千鶴は目がきらきらしていて、綺麗だ。他の娘とは違う不思議な魅力を感じる。
彼女は、時々師範である父親の元に顔を出しては手伝いをやっている。みんなが戦っているのを見るのが好きなのだとも言っていた。
「何だよ、お転婆娘」
「うぅん。秋太も今から?」
「ん」
竹刀をぶらんぶらんと振りながら、歩き出す。千鶴もついてきた。昔から千鶴の方が背が高かったが、その差は今もあまり埋まっていない。
門の下ををくぐる。ここまで来ると、色々な掛け声が混じって少しうるさい。しかし、秋太はこの声を聞いて、帰ってきた、と思った。
「お願いしまーす!」
声を張り上げ、中に入った。
「おぅ、秋太! 今からか」
道場の向こう側から野太い声がする。見ると、師範は腕を組んで、眉を上げた。大柄で、褐色の肌が目立つ。秋太は返事をすると、練習している皆の横で手早く帯紐をしめた。
竹刀を持つと、深呼吸をした。見回すと、いつもの相手、六助は他の人と練習をしている。どうしようかと腕を組んだ時、肩を叩かれた。
「おぅ、秋太。今からか?」
「佐久間さん」
秋太より三歳年上、佐久間 斉助は歯を見せて笑った。
「どうよ、今から一本。相手いないんだろ」
「はい、お願いします」
秋太ははきはきと答えて頭を下げると、場所をとりに行く斉助についていった。落ち着いたところで相手と対峙すると、胸の高ぶりと共に、良い緊張を感じる。剣を構え、気を落ち着けた瞬間回りの音が断ち切られた。
そのまま、秋太は相手の隙を伺う。その時、斉助が剣を掲げて向かってきた。その剣を凌ぎ、相手の傍らをすり抜けると攻撃に転じる。
剣は、好きだ。その時が一番自分でいられる気がする。一対一、相手と向かい合い力を凌ぎ合う瞬間、身が震えるほどの快感を覚えた。
受け、凌ぎ、突く。静と動を見極め、空気の流れを肌で感じる。脳で思うより先に、体が勝手に動く。
父上は、強い。夜叉姫の姿を見たという父は、大名のご子息のご用人だ。榊原の代々の役目をしっかりと担っている。そのご子息が家を継げば、更なる出世も夢ではない。
最近、華乃と父上が戦えば、どちらが勝つだろうとよく考える。力では、華乃は負けるかもしれない。けれど、あの身の軽さ、回りのものと同化してしまう力では、華乃を上回る者はいないはずだ。そこを考えると、どうなのだろう。……いや。考えるのも無駄だ。父上が、戦うまでもなく、負ける。
「隙あり」
はと前に焦点を合わせると、相手の剣がこちらに向かってきていた。剣で凌ぐも、受けきれずに横に弾かれる。負けた、と思った。これでは、こちらが体勢を整える前に相手の剣に突かれる。
衝撃を覚悟した時、秋太の首筋に触れるか触れないかのところで、斉助の剣が止まった。
「ま、こんなもんだな」
「…………」
剣が下ろされて、秋太は息を吐くと、姿勢を正した。斉助が苦笑する。
「お前は背が低いし力も弱いけど、こきみよい動きが武器だ。師範もそう言ってるよな。でも、何か…変わったな、お前。動きが違う」
秋太は困って、下を向いた。
それは、華乃のお陰だろう。秋太が家を抜け出せる時には、毎晩彼女に稽古をつけてもらっていたのだ。もしかしたら、質だけでなく、根本的な動きも変化してしまっているのかもしれない。
「まぁ、いい。もう一本、行くぞ」
「はい!」
秋太はもう一度、剣を構えた。
夕日が赤い。夕日に照らされて、何もかもが赤く見える。
「今日、佐久間さんとやってたでしょ」
千鶴は無邪気に笑いかけてくる。秋太はおぅ、とぶっきらぼうに言った。
「どうだった?」
「どうだったって……。五本中二本はとれたけど。やっぱりだめだ。おれの力じゃ、凌ぎきれない。おれ、剣向いてないのかな」
「んー、まぁ、そんな細っこい腕してるんだから、頑張ってる方じゃない」
「あのなぁ」
軽く睨むと、千鶴はくすくすと笑った。
「大丈夫、大丈夫。焦らなくていいって。秋太も男の子なんだから、その内背も高くなって、力もつくでしょ……あれ、何だろう」
千鶴の視線を辿ると、大橋の真ん中に、赤いものが見えた。一瞬血痕かと思ったが、よく見ると風が吹くごとにくるくると回っている。
紅葉だった。紅葉の葉が数枚、橋の上に落ちている。近くに行って屈む。しかし、指でつまんだ瞬間パリッと音がして、それはあっという間に散っていった。
「紅葉…?」
千鶴が不思議そうな声を出す。何故か嫌な予感がした。思わず振り向いて、橋の向こうの木々を見る。暖色に染まった葉は、さやさやと揺れるだけだった。
夕日はもう、完全に暮れ落ちていた。
「ははっ」
木々の木陰で、彼は笑う。視線の先では、秋太が橋の向こうへ姿を消そうとしているところだ。
笠を深く被り、まるでずっとそこにいたかのように木陰に佇む。しかし、側を通り過ぎても彼を振り返る者は一人もいない。
「なるほど、勘は強いみたいだな……。さすが、華乃が見込んだだけはある」
自分以外の人には聞こえないほどの声で呟くと、彼はばっと衣を翻した。風に巻き上げられ、色とりどりの落ち葉がふわっと舞う。次の瞬間には、男の姿は消えていた。
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