6-6.世界でいちばん美しい獣

『やっぱり、大尉の負担が大きすぎたね』

 案の定肩の上のロアが髭と耳と尻尾を力なく落としてこちらの顔をのぞき込んできた。

 作戦を立てたときにも彼女はノーザレイの魔力切れを心配していたのだ。自分のことは棚に上げて、とは思うものの、彼女に注意した手前たとえ魔力切れ直前であろうとそれを悟らせないように――と思っていたのに。

「まだ大丈夫ですよ」

『でも顔色が悪いよ』

 肩からさらに顔のわきまで近寄ってくる。至近距離――髭が触れそうな近さ――から手を伸ばしてノーザレイの頬に触れようとして、伸ばした自分の手が視界に入った瞬間固まってぎこちなく引っ込めた。

 別にかまわないのに、と思う。

 ねずみの手だろうと、たぶん自分は大丈夫だ。その手が、ロアのものであるならば。

「……そうですね。少し疲れました」

 だから、その思いが伝わるように、と自分から頭をかたむけて彼女に頬を寄せる。ふわふわの毛皮に包まれた身体がびっくりしたのか大きく跳ねてから、それでもおずおずとノーザレイの頬に寄りかかるように身を添わせる。

 彼女は頼られることを当たり前に受け入れる。弱音めいたことを言えば受け止めてくれると思ったが、そのとおりだった。思ったとおりすぎて、良くない相手に利用されやしないかと少し心配になるが、まずそうな相手は片っ端から彼女近くの人間が遠ざけるはずなので、たぶん大丈夫だろう。もちろん、ノーザレイも定期的に彼女の周囲で問題になりそうな人物については調査をして、必要であれば対処している。

 お節介かとは思うのだが、彼女が食い物にされたり傷ついたりするところは見たくない。

 彼女には、今のまま、このままの「ロア=ウェロック」でいてほしい。

 そんなノーザレイの内心を知るわけもないロアはのんびりとした声をあげる。

『帰ったら、すこしは休暇がもらえるといいな』

 ポンポンと、ちいさな手がなだめるように今度こそ頬に触れた。

 ゆっくりと、先ほどまでの苛烈な振る舞いが嘘のようなおだやかさでエルドルム・ハルムがが高度を上げ、帰途につく。

「そうですね」

 呪いの解除法をいろいろ試すためにも、休みはあったほうがいい。

 それもこれも、とりあえず王都に戻ってからだ。

 互いに身を寄せ合ったまま、しばしぼーっとする。ゆっくり、とはいえエルドルム・ハルムの翼であれば隊員たちとの合流地点まではすぐに到着する。合流すれば、事後処理が片付くまでまたやることが山積みだ。

 だから、全身を浸す疲れのままにぼんやりとできる時間は貴重なのだが。

 すぐそばに他人――それもノーザレイの苦手なねずみの姿――がいるというのに、気持ちは落ち着いている。むしろ、頬に触れるぬくもりがじわりと心を満たしてくれる。

『あ、レイ、見て』

 何に気づいたのか、ロアがぱっと身を起こしてしまう。頬から彼女が離れてしまったことにじゃっかんの不満を抱いたものの、彼女もだいぶぼんやりしていたのか軍服を身にまとっているときには滅多に口にしなくなった「レイ」呼びにうながされ、ノーザレイは彼女が見ているのと同じ方向へ視線を向けた。

 上空から見える山々の連なりの向こう――母国カーレリアの山の端が黄金色に輝いている。先ほどまで星の瞬いていた夜闇は遠ざかり、空が刻一刻と色づいていく。

『夜明けだ』

 ロアの言葉とともに、現れた太陽の光が矢のようにすべてを照らし出す。

 あまりのまばゆさにノーザレイはとっさに顔を背けたのだが、その視線の先にいたロアの姿に目を奪われた。

 ノーザレイと同じように太陽を直視できずに伏せた目は、それでも光を受けて明るく透き通って山奥の湖の水面のように揺らめく。薄茶色の毛は光に照らされ黄金色に輝き、全身光に縁取られ、そのまま輪郭が溶けて消えてしまいそうだ。

『まぶしいなぁ……』

 どこか笑みを含んだ声で言い、ちょっと首をかしげて見せるちいさく細い身体のなめらかな曲線。光に透け、濃い桃色に染まった耳。上機嫌そうに揺れる髭も金色に光っている。

 美しい、という言葉が自然と浮かんだ。

 ねずみは苦手なはずなのに。

 それなのに、目の前にいるちいさな獣は、これまで見たどんな生き物よりも――世界でいちばん美しかった。

「……そうですね」

 さきほどと同じ返事を繰り返す。

 朝日もまぶしいけれど、ノーザレイの視界の中いつだってもっともまばゆく輝くのはロア=ウェロックという存在だ。

 子犬のような無邪気な姿も。

 死の女神のような妖艶さを感じさせる姿も。

 そして、神々しさすら感じさせる獣の姿も。

 すべてが同じロア=ウェロックだということにいつまでも慣れず、いつだって目を奪われる。

 魅力的で、ときに無防備で、頼りになって、そのくせなかなか頼ってくれない、だいぶ理解してきた思った瞬間、いまだに知らない一面をのぞかせる――ノーザレイにとっての永遠の神秘。

 だから、いつまでだって見ていたいと思ってしまう。

 彼女をいちばん近くで見続けるために、隣に居るのにふさわしい自分でありたいと思う。

 そっと手を伸ばして、ちいさな身体を持ち上げて両手で包み込む。

『?』

 ノーザレイのいきなりの行動に不思議そうに瞬きをしながらも、じっとおとなしくしている。そんな彼女を見ているとこのまま隠してしまえればいいのに、なんて考えが浮かんだ。

 いつもの生命力に満ち溢れた、どこにだって飛んでいってしまいそうな人間のロアを隠しておくのは無理だけれど、これほどちいさな姿ならばどこかに簡単に閉じ込めてしまえる――とそこまで考えて苦笑する。

 そんな馬鹿な真似をしても、ロアは困惑しつつ許してくれそうだ。間違いなく自分の方が先に己の愚かな行動に耐えかねて、後悔するのは目に見えている。

「王都に帰ったら、呪いの解き方、いろいろ試してみましょうね」

 自分がうっかり愚かな考えにとらわれたりしないよう、彼女には人間の姿でいてもらった方がよさそうだ。

『うーん。簡単な解き方で何とかなるといいなぁ』

 やはりノーザレイの内心など露知らぬロアは、のんびりと首をかしげていた。

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