4-1.ちいさいのはわたしには向かないようだ。
カーレリアとアダミスの国境にまたがるように存在しているナッサの黒森は「人喰い森」とも呼ばれている。世界に何か所か存在する魔界との境が薄くなっている特異点のひとつで、下手に踏み込めば魔界に呑み込まれて帰ってこられなくなるからだ。
ここを大人数で越えることはほぼ不可能なため、両国とも魔法での哨戒は行っているものの、それさえ誤魔化せれば他の地点に比べて国境警備の目がゆるい。魔界へ迷い込む危険さえ回避できれば、人知れず越境するにはおあつらえ向きの地点である。
「時間です」
手にしていた懐中時計が指定時間を示したのを確認し、ノーザレイは隣の上官――ただし今はねずみの姿――に声をかけた。薄茶色のちいさな毛玉がこちらを見上げ、ひくひくっと鼻を動かす姿に反射で腰が引けそうになるのをぐっとこらえる。
ねずみの髭が、しょん、とわずかに下がる。大雑把に見えて実は目端の利くロアのことだ。どうしてもねずみへの苦手意識をノーザレイが殺しきれていないことを、こちらの態度から見てとったのかもしれない。
傷ついたようにも見えるしぐさに何か言葉をかけたかったが、背後に隊員が並んでいる現状では下手なことは言えない。結局何もできずにいるうちに、ロアはノーザレイから視線をそらし、まっすぐ前を向いてしまった。
『スール!』
ラズシーの頭の上で彼女が呼べば、魔力が渦巻き、中空に十五羽の白い小鳥が現れる。
大きさはねずみ姿のロアと大差ない。純白の翼に赤い目をしており、翼の先端だけが白銀色に染まっている。
五羽一対で召喚されるゼフィレス同様、十五羽でひとつの魔獣名をいただく魔鳥。
雪白緋眼のスール。
ゼフィレスのような攻撃力は持たないが、高速かつ機動力の高い移動が可能の翼を持ち、十五個体がそれぞれの見た情報を共有し合う。きわめて斥候向きの魔獣だ。
『先行して情報収集をお願い』
ロアの言葉に、スールはぱっと散開して飛んでいく。彼らが得た情報は召喚主であるロアにも共有される。先行する「目」があれば、「人喰い森」も恐れるに足らぬ、というわけだ。
それほど待たずに次の指示が出るはず、と今もスールからの情報を受け取っているはずの上官を見守る。
それにしても、何度見ても、まごうことなきねずみである。
幼いころ、好奇心のままに伸ばしたノーザレイの指を思い切りかじった、あの動物である。
王都では下町でも表通りを歩いている限りはなかなかお目にかかることもない。視界の端を何かがかすめたような気がしても見なかったふりをすればなおさらだ。
別に今となってはむやみと手を出さねばあちらもこちらを攻撃したりしないと知っているし、ねずみの大群だろうと魔法で焼き払える。それでも目にした瞬間、どうしても身構えてしまうし、むくむくと湧きあがる嫌悪感は殺しがたい。
それでも、先ほどの自分は迷わずロアに手を伸ばしたし、彼女の身体を手のひらに包み込んで崩れた本からかばったときには心の底から安堵した。
手袋越しでも意外と触り心地の良かった薄茶色の毛、力を込めれば簡単に潰れてしまいそうなちいさな身体、表情の代わりに感情をあらわにする細い髭、つぶらな瞳は人間の姿のときと変わらず思っていることが筒抜けに浮かぶ。
普段であれば彼の隣で指示を飛ばすのは、ふだんの無邪気で無防備な雰囲気を霧消させ、軍帽の下、引き締まった表情でまっすぐ前を見つつも周囲への警戒も怠らないりりしい横顔だ。
作戦中のロアには、立っているだけで「指揮官」というよりは群れを率いる絶対的な主の風格があった。
自分の隣にいる彼女を認めるたび目を奪われたし、感嘆の吐息を押し殺したことも一度や二度ではない。
今は似ても似つかない毛玉の姿なのに、真剣な雰囲気で前を見つめる青緑色の目は変わらない。
『よし、出発しよう。総員続け』
スールからの情報をある程度収集し、整理したらしいロアが声を張る。
『隊列から外れたら、魔界落ちして戻れないかもしれないから。気をつけて続くように』
そう言いつつも彼女はスールに指示を出して、隊列の周囲を飛ばせる。安全な道から外れそうになればスールが鳴いて警告を発してくれるはずだ。
ナッサの黒森の中は生い茂った木々の葉が厚く空を覆い隠し、日の光がさえぎられているせいで昼だというのにずいぶんと薄暗い。木々には黒っぽい蔦が巻きつき、足元にはとげのある藪や、ぬめりのある苔、毒々しい色のきのこが生え、「黒森」の名にふさわしく暗く、鬱蒼としている。
山間に位置するため高低差もそれなりにあり、歩きやすいとはお世辞にも言えないが、「飛竜」の隊員にこの程度で音を上げる者はいない。
隊長であるロアは魔法士であるが、「飛竜」に回される仕事はどちらかといえば今回のような機動力重視であることが多いからだ。ついて来られなければ当然ながら戦力外通告で「飛竜」を追い出されることになるので、この隊に残りたければ血反吐を吐く思いをしてでも体力をつけなくてはならない。
足場の悪さをものともせず、ラズシーは飛ぶように駆け抜けていく。その首のあたりにしがみついているロアが振り落とされてしまわないだろうか、と内心ひやひやしながらもノーザレイも後を追い、零班から四班までが順に続く。
時おり、青紫の靄が立ち上る沼があったり、木の幹にぱっくりと鮮やかな緑色の切れ目が入っていたり、景色がグニャグニャと歪んでいる場所があったり、いかにも魔界との接点らしい光景が目に入る。そういったところではこちらも注意できるのだが、逆に視覚情報では何の異常も感じられない場所でスールが鋭い警戒音を発することがあり、そちらの方がおそろしかった。
かつてナッサの黒森を道楽で調査しようとした大豪商の調査隊は、出たときには入ったときの半分以下になっていたという。加えて、残った調査隊の隊員の大部分はもう二度と黒森には足を踏み入れたくないと訴えたと聞く。
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