第16話  遠い記憶〈後編〉


「モネ、ラドシェリム殿下のご様子はどう?」


「どうも何も、お声がけしても一向にこちらにお気付きにならないの。

何もいらないとおっしゃっていたけれど、今、リラックス効果のあるお茶をお待ちしたわ。ベンチに置いておくことになってしまったけれど」


「古書をご覧になり始めてかれこれ二時間は経っているわね。お疲れが出ないかしら」


「……リリアナ様とユリウス様はいつ戻られるかしらね」


「そうね……」



モネとルルは女神の間に備わる窓から外の様子を伺っていた。


シェリは相変わらず。

ベンチに腰掛け、ほぼ体勢を変えないまま古書を読みふけっているようだ。



「ラドシェリム殿下はリリアナ様のことをとても好いていらっしゃるのね。

わたくしたちの前ではそういう素振りをなさらないけれど、十分に伝わってくるわ」


「対してリリアナ様は……ご自身の気持ちに気付いていないふりをされている気がするわ。最近お元気もないように見えるし、とても心配よ」


「今朝もそうだったものね……

それこそユリウス様は、隠すことなくリリアナ様への好意を全面に出されていたけれど、少し気になることがあったの」


「気になること?」


「早急というか、焦っていらっしゃるというか」


「今朝もすぐに発たれたものね」




「……この間のようなことにはならないわよね」


「この間?」


「シリスハム様の……リヴァイアサンの一件のような」


「?! ま、まさか」


「……今、お二人はどちらにいらっしゃるかしら」




モネとルルが少し顔を青ざめさせ、そう言葉にした時、突然この女神の間内に、耳を貫くような "超音波" が響き渡った。


例えば鮫の超音波などは、穏やかな時のものであれば、キュ、キュ、と何とも可愛らしい"音"として耳に入ってくる。


彼女たちは海人族のため、海洋生物の発する超音波であれば感知することが可能なのだが、今のそれはとても穏やかなものではなさげだった。


どちらかと言うと、"警笛"に近いような。



二人は慌ててテラスへと出たが、もうそこにシェリの姿はなかった。



ベンチの上には倒れたティーカップ。

そしてベンチ下には、彼が先ほどまで手にしていたあの古びた古書が、無造作に置かれているだけだった。





------



「10年前の……

私が初めて海に行った日……?」



意図せず閉ざされていた記憶が、私の脳内で少しづつ映像化され始めた。


最初に映し出された画面には、海霧が立ち込めるどこかの入江にたった一人でたたずんでいる、7歳の私が映り込んでいた。




「僕はエーギル一族の者だけど、いわゆる"妾腹"の子供なんだ。


王族ですら妻は一人なのに、左大臣がそれじゃ黙ってない人たちがいるでしょ?

本妻とか、その親族とかね。


あ、ちなみに母親は僕を生んですぐに、病気で亡くなったみたいだよ」



ユーリは自身の生い立ちを話し始める。


彼の母親はもともとエーギル家の使用人だったそうだ。

父母は深い愛で結ばれ、ユーリを授かったようだが、父親は彼女と出会う以前に、すでに愛のない結婚を済ませいたとのこと。


ユーリは生を受けてからというもの、娼婦の子だと言われ続け、ずっと一族の者たちから虐待を受けていたようだ。


彼が学校を卒業してからは、唯一の味方だった父親のもとで、彼の仕事の補助をしていたらしい。

しかし、それをよく思わなかった義兄がユーリを暗殺しようとしたため、とうとう見かねた父親が、彼を宿舎のある騎兵団に放り込んだのだという。



「あの時は、ついに父親にまで捨てられたと思った。

……でも今思えば、お前もやられっぱなしじゃなくて、対抗できるくらいの力を付けてこいってことだったんだと思うけど」


そう言って、ユーリは少し笑った。



「その後のことはシェリからなんとなく聞いてるんじゃない?


家では、娼婦の子とか、生まれたことが罪だとか、あとは、この見目がおかしいってずっと蔑まれてきた。


なのに、騎兵団に入ってからはこの容姿が逆にうけちゃって。

"可愛い系海人騎兵" とかなんとか。ギャップ萌えなんだって。


だから今までのストレスを発散するみたいに女の子たちと遊びまくったよ」



私は口を開き、何か声をかけようとした。

しかし、内容は決して軽々しいものではない。そのため、ついつい言葉を飲み込んでしまう。



「でも。みんなにとっての僕の価値は、家では毛嫌いされてたこの見目だけ。それと、オプションでエーギルの家柄。


それに気付いたら何だか虚しくなってさ。

だから腹いせに、女の子たちには僕が使用人にすら呼ばれなかった呼び名を指示した。

"ユリウス様"と呼べってね。



ほーんと、滑稽こっけいだよね。

そんなことで他人より優勢に立ってる気になるんだから」



ユーリはそう言って、自嘲気味に笑う。 

彼は騎兵団に入ってからのことも話し出した。


ユーリは数年前に第三部隊の隊長に就任したそうだ。

その報告を受けた父親は、あまり出来の良くなかった義兄を差し置き、彼をエーギルの後継者にしたらしい。


ちなみに本妻とはすでに離縁済み、義兄も遠縁の家業を手伝うことになり、すでに家を出ているとか。



「こんな容姿ナリだけど、他の奴らよりも100倍以上努力したから、訓練の成績も上位に入るようになったんだ。


リリィはどうして、僕がそんな地位になるまで必死に這い上がったと思う?」



心臓がドクリと鳴る。

脳内で、また映像が再生され始める。



「僕ががむしゃらに努力し始めたのは10年前から。それまではほんと、全部どうでも良かった。


……ある人に出会うまでは、本当にそう思ってたんだ」



次の場面は、7歳の私が入江から海中へと落ち、そのままどんどんと下方へ吸い込まれていく様。



「あの日、僕は仕事で怪魚の調査に出てたんだよ。でも、あの頃は全然やる気がなかったから、調査対象じゃない海上付近で適当にやり過ごしてた。



そうしたら突然。

小さな人間の女の子が、海上の方からゆっくりと僕の元へ落ちてきたんだ。

でも、その子は気絶しちゃってて……


僕は、人間が陸上で生活してるっていうのは聞き知ってたから、取り敢えず海岸の方に連れてったんだ」



7歳の私は海人族の男性に救われ、海岸へと運ばれていた。



「その子はまだ小さかったし、目が覚めた後はずっと泣いてた。

おばあちゃん、おばあちゃんって、言いながら。


僕は、大丈夫だよとか、すぐにおばあちゃんに会えるよとか、そんなありきたりな言葉しか言えなくて。


でも」



目覚めるなり泣きじゃくっていた7歳の私が、何故だか突然にその男性の頭を撫で始めた。



「女の子は急に泣くのを止めて、"あなたも悲しいんだね" って言い出した。


……それで、どうしてか僕のことを思い切り抱きしめた。


突然だったからびっくりしたけど、その子が抱きしめてくれると、何だか身体がポカポカとしだして、リラックス出来るような、心地良いような、そんな不思議な感覚になったんだ」



脳内の映像からは私の声が聞こえてきた。



"お魚のお兄さん、なんだかとっても寂しそうな顔してるから私が抱きしめてあげる。


おばあちゃんがね、私がくっつくとすごく嬉しそうな顔をするの。

お兄さんも、私がこうすると嬉しい?"




「僕、その子にはずっと笑顔で接してたつもりだったんだ。

だって大人がこんな小さな女の子を不安にさせちゃまずいでしょ?


なのに、その子は僕も寂しがってるって言うんだ」



脳内の映像では相変わらず、7歳の私が男性のことを抱きしめ続けている。

そしてやがてはその彼も、おずおずと私の背に手を添えていた。



「なんて、無邪気で心の綺麗な子だろうって思った。

迷子になって心細いはずなのに、この子は自分じゃなく他者の心配をしてる。


でもそれでようやく気が付いた。



本当は、僕はずっと寂しかったんだって。

本心に気付いてくれる誰かに、抱きしめてもらいたかったのかって」



ユーリが私の頬へと手を伸ばした。

今は彼の方が泣き出しそうな表情をしている。



「その後はお互いの自己紹介タイム。

その子とは色々なことを話したよ。

それでいてやっぱり、たくさんの優しい言葉をくれた。


それに彼女は、僕が海上まで運んだことにも、大人たちが来るまで一緒に海岸で待ってたことにも、何度もありがとうって言ってくれたんだ。



……リリィにお礼を言わなきゃなのは、僕の方だったのにね」


 


"私はリリアナ・マリンクロードだよ。

あなたのお名前は?"


"瞳がキラキラしていてとっても綺麗。

太陽みたい"


"海を守るお仕事をしてるなんて、すごいね。


助けてくれてありがとう、お魚のお兄さん。

これからも、素敵なお仕事頑張ってね。


また会おうね。私の、『     』"




私が見た最後の映像は、ユーリに抱っこをされ寝入ってしまった自身の姿。

そして彼が、そんな私をそっと、海岸へと横たわらせてくれる様。



しかし眠りに落ちてしまう前、私は一体彼に何を伝えていたのだろうか。

最後の一言が聞き取れなかった。




「あの日リリィに出会って、僕も変わらなきゃって思った。


だって君ってば、僕の仕事に興味津々でキラッキラの目で色々と聞いてくるんだもん。

あの時はちょっと焦ったなー。真面目に仕事してなかったからさ。


なんだか恥ずかしくなっちゃって、このままじゃ、また会おうねって言ってくれた君に顔向け出来ないなって思って。

仕事とちゃんと向き合い始めたのはそこから。


ついでに、女の子たちと遊ぶのも止めちゃった」



ユーリはそう言って、私の頬を指で撫でた。




どうして、こんなに大切な思い出を今まで思い出せなかったのか。



7歳のあの日。

海で溺れた私を助け、海岸まで送り届けてくれたのは、ユーリだ。


私の、命を救ってくれた人だ。



「リリィと出会った数ヶ月後に、僕も騎兵団の書庫であの古書を見つけたんだ。

ページの中に君の名前を見つけた時は、本当に心が震えた。


リリィこそが、次の愛し子として生まれてきた女の子だって分かったから。


絶対にまた会えるって確信した」



ユーリはゆっくりと、私を自身の方へと引き寄せた。

そして、「大きくなったね」と言う。



「あの日のリリィの言葉が、ろくでもなかった僕の背中を押した。


次に会った時は君に抱きしめてもらうんじゃなくて、君を襲う災いから守れるような、そんな男になるんだって、10年間を過ごした。


大人になった君の唯一になって、肩を並べて生きて、"ユーリ"って呼んで欲しいって思ってた。


なのに」



ユーリの腕に力がこもる。

彼が、痛いほどに私を抱きしめる。



「リリィは、シェリを選ぼうとしてるでしょ?


僕はシェリよりもずっと前から、君のことが大事だった。

君が泣き虫なことも、よく表情をコロコロ変えることも、誰よりも綺麗な心を持ってることも、10年前からずっと知ってる。


僕だって、リリィのことを愛おしいって思ってるんだ」



ユーリの言葉たちが私の心へと突き刺さってくる。

優しい言葉のはずなのに、それを受け止めきれるほどの器を持ち合わせていなくて、私は思わず身動じろぎをし、ユーリから離れた。



「ユーリ、こんなに大切なことを忘れていて、本当にごめんなさい。でも、」


「それでもやっぱりシェリがいいって?

そう言うんなら、女神の秘密を堂々あいつにバラせばいいよ。


あいつは真面目だし、海魔のこともすっごく嫌ってるから、その子孫なんて聞いちゃったら、もうリリィのことなんて見向きもしなくなると思うけど?」


「……ユーリ」


「僕にすればいい。僕は秘密のことなんて気にしない。


だから取り敢えず、そのペンダントは外してね」



私は身体中が冷えていくのを感じながら、胸元にある女神の秘宝へと手を添えた。


この秘宝は決して、ユーリの思っているような物ではない。



「ユーリ、このペンダントはそんなんじゃ、」


「君が自分で外せないなら、僕が付け替えてあげる」



ユーリは女神の秘宝を乱暴につかむと、それをスルリと私の首から外した。




女神の秘宝は誰かからの贈り物ではない。

人間の私が海底で生きていくための生命線であり、肌身離さずに付けておかなければ命を脅かされるもの。



今、こんなにも息が苦しく呼吸が出来ないでいるのは、女神の秘宝を外したから?


それとも、ユーリを傷付けてしまったから?

……彼の気持ちには応えられなくて。




思考が朦朧もうろうとしている。

なのに、私の脳裏には今も、ユーリではないあの人の姿が映っている。


意地悪で、すぐに私のことを揶揄うけれど、誰よりも私の心をやわく、宝物のように抱きしめてくれる人。


いつだって私の心を占めるのは、あの美しくも優しい笑みを浮かべる、愛おしい人のかんばせだ。



(……シェリ……)



もし、ここで命が終わるのなら、もう一度彼に会いたいと思った。

こんな時になってようやく、自身の心を認められた。




本当はずっと、私もシェリのことが好きだった。




------




"シェリ、君に課題を与える。

騎兵団の書庫内にある古書を読んでみなさい。その中に女神に関する事柄が多く書かれたものがあるから。


リリアナ様が危惧されているのは、おそらくはそれの内容だ。

そして、それを我々が知ることだ "



(この古書が最後の一冊だ。

この中にリリィが気鬱に思っていることが書かれているのか?)



シェリはリリィの侍女たちに断りを得てから、女神の間のテラスに備わるベンチで、兄から与えられた最後の課題に一人取り組んでいた。




"美しき女神の翠緑瞳すいりょくとうは此の澄み渡る海のごとく、また淡褐色の長き髪はこの海底うみぞこに優雅になびく。


その微笑を受けた者はみな女神に心奪われ、生涯の忠誠をも誓うという"



(これはテティスのことか?完全にリリィのそれではないか)



シェリはさらに、古書を読み進めていく。



"女神、陸子りくごを恋う。

海を断ち切り、遥か高みにある世界を望む"



"女神と言えど海人かいじん

その"足"は陸子と見目こそ変わらぬが所詮はまがい物。地を満足には歩けぬ。


その紛い物の足は当然海にも適さず。

よって遊泳ももはや叶わず。


海を去りし女神は生涯、さらにはその子子孫孫に至るまで


"マリンクロード(足の悪い海の人)"


となろう"




「マリンクロード、だと……?」



シェリは思わず、古書を閉じてしまった。


間違いない。

リリィが気に病んでいたのは十中八九、この記述のはずだ。




(テティスも、陸に渡ったというのか?

それに、彼女が "マリンクロード "?


リリィの性と同じものだ。それが意味する所は……)



シェリが眉を寄せ、硬く唇を結んだ時。



キュキュキュ、キュキュキュ……!!



突如、彼の愛鮫がテラス内を暴れ出した。



「"ホメロス "、どうした」



ホメロスと呼ばれたその愛鮫は、何かの信号をキャッチしたのか、仕切りにシェリの身体へと自身の肌を擦り付け、何かを訴えようとしていた。



「落ち着いて話せ。一体どうしたというのだ」



シェリたち海人騎兵は、ホメロス、即ち鮫らの超音波を感知するだけでなく、言語化出来得る能力を訓練によって取得している。

 

シェリは愛鮫の話を聞くと、全身からぶわりと汗が滲み出るのを感じた。



「ホメロス、それは本当か……?

あの、大馬鹿者が……!」



シェリはホメロスの背に飛び乗ると、彼がキャッチした信号の発信源へといた。




彼が腰掛けていたベンチ下方には、"海女神の娘たちへ"と書かれていた古書が、粗雑に放り出されていた。


その有様はまるで、そんな貴重古書ですらもはや彼にとっては無価値であり、無意味な存在であると示しているかのようだった。


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