第11話 嫉妬と決断
「母なる
親愛なる海を
我が子なる民を護り、生命に豊かな息吹を与えよ。
我は其方の愛し子なり。
其方の意思を紡ぐ者なり。
……ふぅ、今日も無事に終了!」
書庫で、テティスの事情を知り得てから一週間が過ぎた。
私はあの後、古書から無事に祈りの言葉も見つけ、今ではそれを暗唱できるほどになっている。
お祈りをこの女神の間で毎日唱えてみてはいるが、特に何かが変わったと実感できることはない。
しかし、確実に怪魚は減っており、さらに広範囲で海の浄化が進んでいると、日々調査を行なっている騎兵団の人たちから報告を受けている。
ところで、私は未だ誰にも"女神の秘密"を伝えられずにいる。
秘密、というのは、それが誰にも知られていない事実だと推測できるから。
シェリに初めて出会った時、
私は彼に自身の名前を名乗ったが、特に気にされた様子はなかった。
宴で王家の人たちに自己紹介をした時もそうだ。
つまり女神と"マリンクロード"の繋がりを、この王国の人たちは知らないのだ。
代々の愛し子たちも皆、"マリンクロード"の姓を持つ、私のご先祖たちだったのだろうか。
足が悪いと感じたことはないが、恐らくはそれが私が泳げない理由なのかもしれない。
テティスが海よりも陸を選んだことで課せられた罪とでも言うべきか。
確か海魔となった愛し子も、陸に帰ることを望み、海にいることを拒んだと聞いた。どこかテティスの境遇と似ているのだ。
……シェリやみんなには言わない方がいいだろうか。
テティスの事情を知ったら。
それで、私の一族との関係を知ったのなら、シェリや王家の人たちは一体どう思うだろう。
"女神の愛し子とは、実はテティスの血を引く女神一族の娘だった"
それならまだいい。
"海を捨て、海人族のもとを離れて人の世へと行ってしまった者の末裔"
"海魔の血を引く女"
……やはり言えそうにない。
"リリィは、リリィのままでいいんだ"
シェリの言ってくれた言葉が脳内に木霊する。
「……せっかくシェリや王家の人たちとも親しくなれたのに、嫌われちゃうのは悲しいよ」
「俺が、何だ?」
「?!」
背後から今一番会うのが気まずい人に声をかけられて、私の肩はビクリと跳ね上げる。
「シェっ、シェリ……。
もう騎兵団の訓練は終わったの?」
「ああ、もう今日は終いだ。
待たせて悪い、女神の間まで送ろう」
私は書類仕事を終わらせた後、騎兵団の訓練場前にあるベンチで古書を読みながら、シェリを待っていたのだ。
「リリィ、あまり根を詰めすぎると身体に毒だぞ。もう愛し子の祈りも覚えているのだろう?」
シェリは私の頭を優しくひと撫ですると、そのまま手を取って女神の間へと帰路を促す。
最近のシェリはエスコートの時も再び目を合わせてくれるようになった。
そして、私に対して恐ろしいほどに優しく、どんなことにも手取り足取り世話を焼こうとする。
……シェリの意図が読めない。
急によそよそしくなったり、私の評価を気にしてみたり。
そして近頃は今のように、たまに優しく触れてきたりもする。これはちょっと恥ずかしい。
ナプティムウトもシリスハムも子供のカイリでさえも、みな海人族の男性たちは女性の扱いに馴れている気がするのは気のせい?
生きている時間が違うのだから当然か。
もしかしたらカイリですら私より年上の可能性なんてことも?
「おいリリィ。其方、また何か変なことを考えているな」
シェリの呆れ声にハッとなり、私は思わず隣を歩く彼へと視線を上げた。
「へっ、変なことって何?」
「おおよそ、俺たち海人族の男どもが女の扱いに長けているとかなんとか」
「ええっ?エスパー?!」
「……其方がうっかり口走っていただけだろう。ちなみにカイリはまだ8歳だと言っていたぞ。
あと、俺たちを年寄り扱いするな」
なんということだ。
どうやら思っていたことをそのまま口に出してしまっていたらしい。
少々気まずく思っていると、シェリが少しムッとしたように言葉を続けてくる。
「シリスハムは知らんが、俺たちは別に慣れているわけではない。
兄上の恋人なんて見たことがないし、カイリはまだほんの子供だ。
俺も女たちと同衾していたのはもう100年以上前の話だ」
……何だろう。
今少し、何かが引っかかったような気がする。
同衾?
女"たち"……?
シェリがしまった、と言わんばかりに私から目を逸らす。
「……ふーん。そうなんだ。やっぱりシェリってモテるんだ」
私は別に知りたくもない彼の恋愛事情を思わぬ延長で聞き知ってしまって、少々気分が悪い。
(うん。どうでもいい)
私には関係のないことだ。
シェリが誰と付き合おうが、誰に優しくしていようが気にする必要はない。
海人族の恋愛事情といえば、王国では私の結婚相手が誰になるかが話題になっているらしいが、おそらく私は誰とも結婚なんて出来ないと思う。
だって、海人族の人と私では、あまりにも寿命が違いすぎるから。
自分が死んだ後のことを想像しながら誰かと恋愛するなんて、そんな器用さを私は持ち合わせていない。
私の死後は他の女性とご自由にどうぞ、なんて言えるほど、私は恋愛に慣れていないし心が広いわけでもない。
だから、海人族の男の人をきっと私は好きにはならない。
「シェリの女性関係が乱れていようが、誰も文句を言う権利なんてないしね。
シェリも、私の守人なんか言いつけられてたら、ますます結婚が
「……何を怒っている」
「何も怒ってなんかいないよ。
私が怒らなきゃいけない理由なんてどこにもないでしょ?」
女神の間に着くと、私はすぐにシェリのエスコートの手を離し、ズンズンと一人でテラスを進む。
「送ってくれてありがとう。おやすみなさい」
扉の中に入るまで、私は一度もシェリの方を振り返らなかった。
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「シェリ? 何だか顔色が優れないようだけど、何かあったのかい?」
騎兵団の本拠地へと戻ってきたシェリが、右塔二階に備わる自室へと入ろうとした時。
隣室のドアに背を付けながら腕を組んで立っている一人の海人騎兵に声をかけられた。
「こんな近距離にいるのに私の気配に気付かないなんて。いつもの副団長なら考えられないことだね。何か悩みでも?」
「……兄上」
隣室のドア前に立っていたのはナプティムウトだった。
「リリアナ様は無事に帰られた?
それと、道中に彼女と喧嘩でもしたかい?」
兄の鋭い洞察力にはいつもお手上げである。
「喧嘩というか……どうやら俺が怒らせたようです」
「シェリが?」
「俺の……あの、少し荒れていた頃の話をうっかりと。それで気分を害されました」
「……ほほう」
「過去のこととはいえ、自分の守人が女にすこぶるだらしがなかった、などと聞けば確かに不審にも思うでしょう」
「なるほど。でも今のシェリにはその欠片もないだろう?
それでもリリアナ様が怒っている理由はどうしてかな?」
「いや、もともと彼女を脅すようにしてこの王国に留まらせたので良い印象は持たれていません。
流石に今は、当初に比べればマシにはなっていると思いますが」
「うーん……案外シェリも疎いのかもね」
「何にですか?」
「乙女心だよ」
ナプティムウトにくすくすと笑いながらそう言われ、シェリは眉を寄せて怪訝そうな顔をする。
「乙女心?何の話ですか?」
「君たちは意外と似た者同士なのかもしれないってことだよ」
シェリがますます眉皺を深めると、ナプティムウトが彼の肩をポンと叩いた。
「何はともあれ、早々に決断した方がいい。彼女は魅力的だからね」
ナプティムウトが片目を瞑り、シェリを見やった。
「なるほど、分かりました兄上。
誤解されて軽蔑されるくらいなら、当たって砕けろってことですね。まあ、砕けるつもりはありませんが」
ナプティムウトに
シェリはナプティムウトに挨拶をし、対策?を練るためすぐに自室へと入ることにした。
「ふふ、君たちに幸あれ。
どんな恋にも困難は付きものだけど、どうか負けないで」
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「あの、ラドシェリム殿下。本日はリリアナ様にお仕事をお休みになっていただきたいのですが」
本日のお祈りも無事に終わり、今から本拠地へ赴こうとしていたまさにその時。
私の送迎のため、女神の間に出向いていたシェリに向けて、モネがそのようなことを言った。
「何かあったのか?」
「はい、リリアナ様の体調があまり
ここ数日、またあまりお食事をお召し上がりになりませんの」
と、ルルまで。
「だ、大丈夫だよ、二人とも。
心配かけてごめんね。今日からちゃんと食べるから!」
「リリアナ様、何か気に病むことでもございましたか?」
「いいえ、私は全くもって元気ですよ?
悩みなんてありません」
「……」
三日前からシェリに対してはずっとこのような態度だ。
彼の恋愛遍歴をチラリと聞いて以来、私はどうも胸のつかえが取れないでいるらしい。
女性経験豊富なシェリは、恋愛経験のない私がいちいち過剰反応するのをやはり
これからは彼の態度に出来得る限り冷静に対応すると心に決めている。
振り回されるのは悔しいし、迷惑である。
「ではリリアナ様、今日は本拠地へと赴くのは止めておきましょう」
「ほんとに大丈夫ですから!
元気なのに仕事もしないで女神の間でゆっくり、なんてことは出来ません」
「ならば外門手前に広がる海森へ行きましょう。
王宮からは目と鼻の先ですし、お疲れになったら女神の間へもすぐにお送り出来ますから」
「い、いや。あの、私は騎兵団に」
「ほう。リリアナ様はそれほど仕事がお好きですか?
お食事が喉を通らぬほど騎兵団の書類仕事を好んで下さっているのは大変有り難いのですが、万一貴方様がお倒れになったら王国民全てが気に病むことになるのですよ?
リリアナ様はご無理をなさることが多いので、しばし休息を設けましょう」
……王国民の人を話の引き合いに出すなんて卑怯すぎる。
「お願いいたします、ラドシェリム殿下。
本拠地におられるナプティムウト殿下には、わたくしたちが早魚を飛ばしておきます」
「リリアナ様の侍女はさすが有能だな。
それではお前たち、後を頼む」
「かしこまりました」
私はシェリにひょいと抱き上げられ、そのまま
侍女二人が心配そうな顔をしつつも何やらニヨニヨとしていたのは、気のせいだろうか。
……今は二人でいたくないのに。
本拠地に行ってしまえばネレオやマルフェスが一緒だし、シェリと二人きりになることはあまりなかったはずだ。
私は眉間に皺を寄せながら、彼の方をチラリと見やる。
シェリはこちらを見ずに、前だけを見据え走り泳いでいる。
「はぁ。二人きり、やだなぁ」
「ほう?」
「?!」
……まずい。また心の声が漏れていた。
「俺と二人でいるのがお嫌でしたか。気付かずに失礼しました」
ちょっと泣きたい気分になってきた。
先程まで腹を立てていたのは私の方だったのに、何故だか今は逆転している。
「……ごめんなさい」
少々彼にご立腹だったとはいえ、わざわざ送迎に出向いてくれたシェリに対し、あの態度はちょっと酷かったかもしれない。
しかも、拗ねている理由が驚くほど子供っぽい。
「怒っているわけではない。
むしろ、ここ数日俺に何か言いたいことがあるのはリリィの方だろう。
……過去の話などしたから気分を害したか?」
シェリは女性を取っ替え引っ替えしていた過去を認めている。
お分かりなら話が早いのだが、私はそれに対して何と言えばいいのか。
いやいや、冷静に対応すると決めたばかりではないか。
「……別に気にしてないよ。恋をたくさんするのは素敵なことだって、本にも書いてあったもん。
私が恋愛経験皆無だから、ちょっとシェリの話に付いていけなかっただけで」
「……は?経験がない……?」
「……別に、あなたには関係ないでしょ」
「給仕で騎兵団の男どもを手懐けていただろう。シリスハムのことも」
「ちょっと、人聞きの悪いこと言わないで!
接客業は笑顔が大事なの。店員の態度でリピーターさんが付くかどうか決まっちゃうんだから。
あと、シリスハム様は私じゃなくて、愛し子に恋してた感じ」
「其方、男がいたことはないのか?本気か?」
……ちょっと冷静になれなくなってきたかもしれない。
恋愛経験のない女がそんなに珍しい?
「ほっといて。シェリには迷惑かけてない」
「ああ、迷惑だなんて全く思っていない」
急に明るい声が上から降ってきて、私は少しムッとしたままシェリを見上げる。
そんな彼は、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて私を見下ろしている。
「……もうっ、その態度が嫌なの!ずっと私のこと揶揄ってばかり……!
可愛いって言ってみたり、他の男に笑顔を見せるなって言ったり……
一体何なの?私が真っ赤になって
シェリに振り回されるの、もうやだ」
彼の態度に我慢出来なくなってしまった私は、思わずそのように口走った。
「揶揄っていないし嘘も言っていない。
其方を可愛いと思っているし、他の男が近付くと殺したくなる」
「……っ、またそういうこと言う。
私がうまくかわせないの分かってるくせに」
「かわさなくていい。
あと、其方が男を知らないと聞いて舞い上がっているのが本音だ」
「やめてって言ってるのに!シェリのこと、嫌いになるよ」
「それは困る。俺のことを好きなってもらいたい」
……ああ言えばこう言う、というこの状態。
もし未だ揶揄っているなら、本当にとんでもない男である。
そうこう押し問答しているうちに、どうやら海森と呼ばれる場所まで来ていたようだ。
シェリは泳ぎを止めて、その場にゆっくりと私を下ろす。
王宮と外門を繋ぐ道は人工的だが、この海森は自然をそのまま残した、海の原生林のような場所だった。
空気が美味しいし、自然と心も落ち着いてくる。
上方を仰ぎ、その自然空間にしばし
彼に連れられるまま私も歩みを進めると、やがて天井が空けたような、そして陽光が直接差し込んでいるかのような、一際明るい場所に着いた。
そこにはたくさんの彩り豊かな海水魚たちが遊泳し、ピンク色と乳白色の美しい珊瑚たちが、まるで花畑のように広がっている。
「きれい……」
「これも其方の浄化のおかげだ」
シェリは私と向かい合うようにしてその場で片膝を付いた。
彼は私の両の手を自身のもので包む。
「リリィ、俺は一度も嘘を言っていない。
確かに、最初はこれが恋情なのか分からず、揶揄うような態度を取っていたかもしれん。
しかし、実際は姉上と兄上にも筒抜けなほど、俺はリリィに溺れていたようだ。
其方を恋慕う者が多いことは分かっている。
だから先手を打つ」
一度大きく深呼吸をしたシェリが、その美しい金の瞳で私を捉える。
「俺はリリィが好きだ。
誰よりも愛しく思っている」
この人は今日、一体何度私のことを惑わせれば気が済むのだろうか。
シェリにそんなことを言われる日が来るなんて、誰が想像出来ただろう。
彼は私のことを"変わった女"だと、そう言っていたはずなのに。
「私が、女神の愛し子だから……?」
「どういうことだ?」
「浄化と祝福が出来るから、そんな風に思うの?」
「……何故そうなる。
もちろん、"女神の愛し子"のことは尊敬している。
でも俺がリリィを恋う理由はそれではない。
想う
全部が愛おしいと言う他ない」
私も、瞬きを繰り返すしかない。
カフェの常連さんたちのように、軽いノリで好きだとか付き合おうとか言うわけでもなく、シリスハムのように私が女神の愛し子だから愛している、と伝えられたわけでもない。
"リリアナ・マリンクロード" としての私を、シェリは好きだと言ってくれるというのか。
「でも私、泳げないし大泣きするし、子供みたいに拗ねるし…」
「百面相もな。青くなったり赤くなったり、其方は忙しい。
だが、そんな器用ではないところも可愛いし、愛おしいと思っている」
……駄目だ。恋愛経験が無さすぎて、そろそろオーバーヒートしそうだ。
今の私と言えば、涙目になって顔を真っ赤に染め上げることしか出来ないでいる状態。
シェリはそんな私の手を握ったまま、ゆっくりと立ち上がり、
「?!!」
私の瞼にそっと唇を落とす。
「悪い、其方があまりにも可愛くてな」
「……もう!やっぱりシェリなんか嫌い!」
「すまんすまん。
リリィが可愛すぎて驚いただけだ。嫌わないでくれ」
……とても悪いと思っている態度ではなさそう。
「そろそろ戻るか。
今日はゆっくり休むといい。ちゃんと食して、しっかり寝るようにな」
シェリはそう言って再び私を抱き上げた。
彼は私を抱え、元来た道を遊泳し始める。
間近にあるシェリの横顔が、悔しいほどに美しく、そして清々しそうだ。
少し憎らしいが、私はそれ以上彼を見やることが出来ず、ただただ俯き、早く女神の間に到着することだけをひたすらに願っていた。
しかし、シェリが私に最後のとどめを刺しに来る。
「もう遠慮はしない。
それに、リリィはもう少し自覚した方がいい。俺という男がどれほどに嫉妬深いか。
其方を他の男に渡すつもりは毛頭無い。
今後も口説き続けるから覚悟しておいてくれ。
それに、リリィは何か誤解しているようだが、女を愛おしいと思ったのも、こんなふうに愛を伝えたのも、……愛を乞いたいと必死になっているのも其方が初めてだ」
明日から、一体どんな顔をしてシェリと会えば良いのだろう。
私にはうまく振る舞える自信が、もうこれっぽっちもない。
……それに。
シェリには、女神の秘密をさらに言い出せなくなってしまった。
私は、秘密を打ち明ける決断がまだ出来てはいない。
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