第8話 笛の誘い
シェリが客間を出た後、私は一人、この部屋の窓から外の様子を眺めていた。
外部はしんと静まり帰り、怪魚騒動が王都で繰り広げられていることなど、まるで信じられない。
(シェリ……大丈夫だよね)
シェリが触れた頬に、私はゆっくりと指を乗せる。脳裏に浮かぶのは、先程に彼が見せたあの優しい笑顔。
いつも意地悪な笑みばかりを見ているせいか、頭から全然離れてくれない。
(あんな顔ずるいよ……)
心臓の辺りがキュッと痛くなり、私は思わずドレスの胸元を掴む。
その時、ふと誰かの足音がこの客間へと近付いていることに気付いた。
「……シェリ?」
それともトリンティアたちだろうか。
いや、ドスドスと大きな音を立てた歩き方なので王族の人たちではない気がする。
少し身構えて扉の方を見据えていると、ノックもなしに突然にそれがバン、と大きな音を立てて開かれた。
扉を開けた人を私は知っていたが、出来ればあまり会いたくない人物だった。
「リリアナ女神様!良かった、ここにおられたのですね!」
このハッキリとした話し口調。
バリスハムである。
「ラドシェリム副団長より、リリアナ女神様が王宮に避難されている故、迎えに行って欲しいと頼まれたのです!」
「シェリ……ラドシェリム様が?」
「さあ行きましょう、リリアナ女神様!」
「まっ、待って下さい!そもそもどこに?
それに、国王様やトリンティア様たちは?
この王宮には他にも使用人の方が数名いらっしゃるはずなんですが」
「あ、ああ、陛下たちはもう先に出立されています!我々も急ぎましょう。
行き先は王都広場です!」
シェリは先程、この王宮からは決して出てはいけないと言っていた。
なのに、今になって私をここから連れ出すようこの人に指示したというのだろうか。
バリスハムを、信用しても良いのだろうか?
すぐに答えを出せず、身動きが取れないでいる私に
「失礼いたします!」
「?!」
思わず身構えたのも束の間、バリスハムは私を軽々抱き上げ、そして何故か客間の窓を開け放つ。
「ちょ、ちょっと勝手に……!あと、どうして窓を?!」
「リリアナ女神様!貴方様のことは必ず我ら兄弟がお守りいたします!」
バリスハムはそう言うと、私を抱えたまま窓の外へと飛び立った。
突然のその行動に私は抗議の声を上げることも叶わず、咄嗟に瞳をぎゅっと閉じた。
しかし、落ちて行く感覚も何の衝撃も感じられない。
私が恐る恐る目を開けると、バリスハムは私を抱きかかえ、中庭の上空を泳ぎ、そのまま大門を抜け王都広場の方へと進んで行く。
(……そうだ。普段歩いているからつい忘れてしまう。窓から飛び出してもすぐに落ちるわけじゃない。ここは海の中なんだから)
中庭では、幾人かの騎兵団員たちが待機していた。しかし、彼らはこちらの様子に気が付いていない。
"約束できるな?"
シェリは確かに、私にそう言った。
私がここを離れれば、もう誰もこの王宮の中にはいないことになる。
バリスハムはそのことを、中庭にいる騎兵団の人たちに伝えるべきではないのか。
……それとも。彼は中庭を通ることを故意に避けている?
バリスハムは私を王都広場まで連れて来ると、ここでシェリを待つよう施した。
そして彼は、自身も戦闘に合流すると言って広場下の方へと行ってしまう。
私はそれを無言で見送ることしか出来なかった。
王都の方を見渡せば、騎兵団の人たちが雄叫びを上げながら、怪魚と思しきものと交戦している様子が僅(わず)かだが伺える。
しかしここからだと遠すぎて、目を凝(こ)らしてもその怪魚の全貌が全く分からない。
(やっぱり、どう考えてもおかしいよね。
王宮から出てはいけないって言ってたシェリが、私をここで一人待たせるはずがないもの)
「……戻ろう」
ドレスをたくし上げ、中庭へと続く外門の方へと身体を向けた時。
キィィィィーーーーン
また再び、笛の音のようなものが私の耳奥に響いた。トリンティアたちには聞こえなかったという、あの嫌な耳鳴りのような音である。
「……っ、ほんとに、これって一体何の音?」
私は掴んでいたドレス離し思わず両手で耳を塞いだ。
しかし、その時。
無意識に下方へと向けられていた私の視界が、この王都広場に落ちる巨大な影を捉えてしまった。
……嫌な予感がする。
私は耳を塞いだまま、恐る恐る上方を見上げた。
「巨大なウツボ……?それとも、
いや、怪魚である。
巨大チョウチンアンコウの、少なくとも10倍以上の大きさはある。
種は確か、"リヴァイアサン"だ。
"この怪魚はいつも番で行動する。一頭が現れたということは、必ずもう一頭も近くにいる"
ナプティムウトが言っていた言葉を、私は瞬時に思い出した。
何故ならば、そのもう一頭の怪魚と私が今、一対一で対面してしまっているからだ。
「シェ、リ……」
私はその場を一歩も動くことが出来ず、怪魚が遊泳している様子をただ見つめることしか出来ない。
すると。
「リリアナ女神様」
突然、背後から私を呼ぶ声が聞こえ、思わず肩がビクリと上がる。
「リリアナ女神様、バリスハムから伝達がありました。
ああ、こんなに震えて。心細かったでしょう。私が来たからにはもうご安心下さい。
さあ安全な所へ。我がバクナワ一族の館へご案内いたします」
声の主が私の肩に手を添える。
冷んやりとした吸い付くような手の感触にゾクリとなりながら、私はやっとその人物の方を振り返った。
「……シリスハム様」
「名を覚えていて下さったのですね」
ニタリとした笑みを浮かべ、私の肩を一撫でするその手つきに思わず身体が強張る。
シェリが例え迎えを寄越したとしても、この兄弟には決して頼まないはずだ。
これでようやく確信が持てた。
私は、バクナワ兄弟に
「行きましょう、リリアナ女神様」
怪魚を目前に下手に動くことも出来ず、私はシリスハムに肩を抱かれ、広場下の王都へと続く道を進むしかなかった。
------
「団長、遅くなり申し訳ありません。首尾の方は?
あれが姿を現すのは100年ぶりほどでしょうか」
シェリが王都中央へと到着する頃には、すでに騎兵団と怪魚・リヴァイアサンの戦闘が始まっていた。
「そうだね。普段はどちらかといえば人前には姿を見せない部類の者たちだからね。
だからここ一月の、これほどに浄化が進んでいる状態の王都に現れるのは極めて異例だ。
海魔から何か特別な働きかけでもあったのか、あるいは何かに
「……誘き寄せられた」
シェリは顎に指を添えながら自身の上方を旋回しているリヴァイアサンを見やる。
「団長、あの者は今のところ一頭のみの出現ですか?」
「王都ではそうだ。でも彼らは番で行動する習性故、いつどこに
ナプティムウトの言葉に、シェリはますます眉を寄せていく。
鬣がない故、あれはおそらく雌の方だ。
そして、戦闘の様子を見据えていたシェリはあることにも気が付いた。
「第二部隊に比べ、第一部隊の指揮があまり上手くいっていないようなのですが」
「私も先程からそう思っている。どういう訳か、今日の彼らは統率が取れていないように感じるんだ」
「……第一部隊の隊長はシリスハムです」
シェリはもう一度目を凝らしながら上方を見やる。
しかし、彼の
「あいつは何をしているんだ……!」
シリスハムは部隊長の中でも古株に当たる。軍略が長けている部隊故、今までの怪魚討伐においても優秀な成績を収めているはず。
「怪魚が逃げていきます!」
「追いますか?!団長、副団長!」
騎兵団員たちのその言葉に、
彼らの言う通り、たった今まで激しく交戦していたはずの怪魚は、何故だか突然に騎兵団に背を向け、郊外の方へと進んでいく。
「……どういうことだ」
怪魚が立ち去った方角を見据えたまま、シェリは握っていた長槍をただ手中へと収めるしかなかった。
「シェリ、一旦王宮へ戻ろう。
国王陛下に報告したいこともあるし、何よりリリアナ様たちが心配だ。
……何事もなければいいけれど」
ナプティムウトが何かを懸念している。
シェリも同様に、不安気な表情を浮かべていたリリィの姿を思い出す。
そして。
「まさか……彼女の言っていた"笛"とは」
嫌な仮説が頭を過ぎる。
シェリの顳顬を伝うのは、焦燥という名の汗だった。
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(シリスハム様に殺されるようなことはないと思うけど、違う危険が迫ってる気がする。
考えなきゃ……。怪魚に見つからず、この人をまける方法)
シリスハムに連れられるまま王都の脇道をしばらく進み、とある建物の細道に入った。
「この細道を抜けると我が一族の館が見えて参ります。私としてはもうしばしこの細道に貴方様と二人、身を潜めていたいところなのですが」
「……」
私はこの人が本当に苦手だ。
早くこの道を抜けてしまいたい。
私の肩に未だ添えられているシリスハムの手を跳ね
海人騎兵として訓練を受けているシリスハムに、私が力で敵うはずもない。
長い長い細道をようやく通り抜けようとした時、私はふと、その道の片隅に
(子供……?こんな所に?)
「どうしたの?大丈夫?」
私がその子供に声をかける。
「リリアナさま……?」
驚いたように顔を上げ、私のことを見やったその子供は、先程の催し物でダンスを教えてくれた少年だった。
「どうしてこんなところに……お母さんは?」
「は、はぐれちゃった」
「おうちは? 遠いの?」
「うん……郊外の近く」
なんということだ。
王国民たちは全て非難したと聞いていたから、きっとシェリたちもここに逃げ遅れている子供がいるということを知らない。
「おいで、一緒に行こう。こんな所に一人でいたら危ないよ」
私自身怪魚に
それでも、この子を不安にさせてはいけない。
私はシリスハムから離れ、少年の手を取って立ち上がらせた。
「お待ち下さいリリアナ女神様。
その子供は連れて行けません」
「! なぜですか?」
「我々の足でまどいになるからです」
シリスハムはその少年のことを冷たく一瞥する。そしてこの場を早く過ぎ去ろうとしているのか、私に向かって手を差し伸べて来た。
私はシリスハムを厳しく見据えながら、少年を背に隠す。
「大人のやることではありません。
それに、あなたは海人騎兵団に所属しているのでしょう?
民を守ってこその騎兵団ではないのですか」
震える身体にグッと力を入れ、私はシリスハムに軽蔑の眼差しを向ける。
シリスハムから目を逸らさず、じっと彼を睨んでいると、突然近くで爆音が鳴り響いた。
「?!」
私は思わず少年を抱きしめた。
どこかの建物が崩れ落ちたようで、大通りの方で土埃が舞っている。
その様子に呆気にとられていると、先程王都広場で目撃したあの鬣のある怪魚が大通りを悠々と横切って行く姿を、この細道の中から捉えてしまった。
「あっ、か、怪、」
「大丈夫、大丈夫だから落ち着いて。
私から手を離さないで。ゆっくり、ここから離れよう」
私は今にも泣き出しそうな少年の手をそっと握ると、シリスハムの横をそのまま通り過ぎようとした。
だが。
「……やはり、貴方様はお心まで美しい。こんな愚民の子にすら、慈悲をお与えになるのですから。
その子供はそれに報いるべきでしょう」
突然にシリスハムが手を伸ばし、私からその少年を強引に奪った。
そして彼を乱暴に担ぎ上げたかと思うと、今度は大通りの方へと走り泳いで行く。
「シリスハム様?!」
「さて、怪魚よ。ここに海人族の
「に、贄……?!
一体何をしようとしているんですか!
やめて!やめて下さい!!」
私はすぐさまシリスハムを追いかけ、再び今来た細道を戻る。ドレスをたくし上げ、ありったけの力を出して走る。
「リリアナ女神様。私は貴方様のことを誰よりも愛しているのです。貴方様が現れるよりずっと以前から、私は貴方様だけを想ってきました」
「やめて下さい!その子を返して……!
あなたは海人騎兵なのにどうしてこんなことを?
他の騎兵団の方は、民のために危険を犯して怪魚の討伐に向かわれているのに」
私が悲鳴のような声でそう叫んだ時、大通りの手前でシリスハムが不意に立ち止まる。私は彼らの後ろにようやく追いつき、肩で息を繰り返した。
シリスハムは私に背を向けたまま問いかけてくる。
「ラドシェリム副団長のことですか?」
「え……?」
「彼が心配ですか?リリアナ女神様」
「……どういうことですか」
「先程の答えですが、私は民を守りたくて海人騎兵団に入ったのではありません。
女神の愛し子様に一番近付きやすい職務として選んだまでです」
シリスハムの表情に、もう先程の笑みはない。
「この怪魚を呼び寄せたのは、我ら兄弟なのですよ、リリアナ女神様」
「どうやって……。
まさか、あの時の笛の音?」
「そうです、さすがは女神の愛し子様。
我々海人族には聞き取れぬ音波を
ますます貴方様に魅力を感じます」
シリスハムは自身の胸元からあるものを取り出した。細い紐に通された、何か動物の牙を加工して作られたような装飾品。
おそらく、それが"笛"なのだろう。
シリスハムはその笛を、彼の薄い唇に当てる。
「騎兵団の本拠地が手薄にならなければ金庫からこの"魔笛"を持ち出せませんからね。この日を狙っていたのですよ。
この魔笛は怪魚の討伐に出向く際、団長及び副団長が身に付け、討伐対象を誘き寄せるために使うものです。
今日はこれを使って、リヴァイアサンのように一撃では仕留められぬような強豪者に来ていただきました。
ラドシェリム副団長たちを消してもらおうと思いまして」
「……民を、巻き込みますよね。あなた自身のご家族も」
「我が一族はバリスハム以外、催しが始まる以前に先に館へと帰しております。
あと、貴方様の"夫候補者"となりうる者たちを消すことが出来れば良いのですから、正直民はどちらでも構いません」
恐怖ではなく、怒りで身体が震えるなんて生まれて初めてだ。
「リリアナ女神様。私の妻になって下さいますか?」
この人は私を愛しているのではなく、"女神の愛し子"に焦がれているのだ。
もし、私が嫌だと言ったら、この男は再び魔笛を鳴らすのだろうか。あの少年を大通りへと放り出すのだろうか。
こんな
でも、私たちの事情に、あんな小さな子供が巻き込まれて良いはずがない。
「…………リリアナさまはお前なんかにあげないぞ!!」
その時、突然シリスハムに捕らえられた少年が暴れ出した。
予想外の出来事に、シリスハムも思わず彼から手を離す。
するとあろうことか、その少年は一人大通りへと走り泳いで行ったのだ。
「リリアナさまはお前のつまになんかならない!オレの命より大切な、大切な女神の愛し子さまなんだ!!」
少年はそう言って、怪魚のいる大通りへと自ら飛び出した。
泣きながら、震えながら一人その場に立っている彼に向けて、怪魚が大口を開けた光景が私の目に飛び込んで来る。
足はもつれ、何度も転びそうになった。
こんな小さな子供が、私のことを自分の命より大切だと言い切ってしまう。
海人族の人たちにとって、"女神の愛し子"がどれ程大切なのか。
私には全く、自覚が足りていなかった。
この子が私のために死ぬなんてことが、絶対にあってはならない。
私は"女神の愛し子"としてまだ何も、彼らのために努力をしていない。
「リリアナさま?!」
私は間一髪でその少年を怪魚から逸らす。
「リリアナさま!ち、血が……!」
怪魚の鋭い牙が当たり、私の右腕の肉は裂け、血がだらだらと流れ出している。
「……平気だよ。あなたが無事で良かった。
私を、守ろうとしてくれてありがとう。
ごめんね、あんなこと言わせて」
私は目を伏せ、その少年を強く、強く抱きしめた。
(この子は私が絶対に守らなきゃ)
そう思っている時、騒ぎを聞きつけたのか、近くの建物の中から数人の大人たちが姿を現した。
「リ、リリアナ様!何故王都へ?!」
「坊主、カラんところのカイリじゃねえか!母さんがずっと探してたぞ」
怪魚が上方へと一度舞い戻っている。
今ならこの子を、あの建物まで連れて行くことが出来るかもしれない。
「あなた、カイリって言うんだ。素敵な名前だね。
ね、カイリ。もう一度立って。あそこまで一緒に走ろう」
私は隙をつき、カイリの手を引いて大人たちのいる建物まで走った。
しかしその途中、私たちに気付いた怪魚が、再び口を大きく開けて急下降してくる姿が視界に入って来た。
「カイリをお願いします!」
建物の近くまで来た時、私は彼を大人たちの方へと強く押し出した。
「リリアナさま?!」
怪魚の牙がドレスにかかり、私の身体はそのまま宙へと突き上げられる。
間一髪で身体への貫通は避けられたとはいえ、私という獲物を捕らえた怪魚は、再び上方へと舞い戻って行く。
(……今回ばかりは本当に駄目かもしれない)
私が最後に見た王都の光景は、
カイリが泣きながら私の方へと手を伸ばしている様と、
「リリアナ、女神様…………」
細道の影に潜み、蒼白な表情を浮かべながら怪魚に連れ去られる私を呆然と見送っている、シリスハムの姿だった。
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