第3話  宴



私には生まれつき、うなじに奇妙な痣がある。


それは、獣の爪で三本の波を描いたような、もといえぐり取ったような形をしているため、女である自分はあまり好きではない。



しかも10年前、その痣を男の子たちに揶揄われ、海に突き落とされたことがある。



一度目の死を覚悟したのは、まさにその時。



結局は海岸に打ち上げられていたとか何とかで、ことなきを得たが。



しかし、息が出来ずにもがき続けた恐怖と苦しみは、時間が経とうとも忘れることは出来なかった。


だから私は7歳の時以来、一度も海を訪れていなかったのだ。



……海へと飲み込まれてしまった、二日前までは。



------




「リリアナ様。

本日正午より王宮の中庭にて、小規模ではありますが園遊会が催されます。


リリアナ様は我がマーレデアム王国の国賓として、この宴に出席いただきます」



私がこの海底に栄える異界、マーレデアム王国へと呼び込まれてから二日が経った。



昨日この王国の第二王子であるシェリという海人族の男性に、二度と陸に返さない宣言をされてしまった私は、当然一晩中眠れなかった。



一体何故このような事態になってしまったのか、そして何故、海と最も関わってこなかった私が海女神の愛し子などに選ばれてしまったのか。


考えても明確な答えなど出ない。

出口のない迷宮の中をぐるぐると、今もたった一人で走り続けている。



「リリアナ様、聞いていらっしゃいますか?」



王宮から派遣されたという侍女二人に世話を焼かれながら、私は先程からずっと、その噂の第二王子・シェリに話しかけられている。一方的に。

ちなみに今は侍女がいるため、彼は私に敬語である。



「……聞いてます。

でも女性の支度中に部屋を訪ねるなんて、ラドシェリム様も、もう少し遠慮するべきなんじゃないですか?」



そして、私はボロが出ないように、シェリと二人の時以外は敬語を使っている。



「申し訳ございません、時間が迫っているもので。ドレスにお着替えになる際は退出いたします」



当たり前だよ!と思いながら、私は決してシェリとは目を合わせなかった。



一昨日昨日は本当に散々だった。

大波に攫われ何十キロも流されて、その上恐ろしい怪魚に襲われた。


さらにその後、不運にももう一度海に飲まれたかと思えば、目覚めた先はこの見知らぬ海底王国。


そして、私の背後で現在も淡々と言葉を放つシェリからの、あのトドメの一言。



彼は命の恩人でとても親切な人だと思っていたのに、最後には見事に裏切られた。



「取り急ぎ、本日の宴はマーレデアム王国王家の者たちと守護者である側近、その側近の一族のみでり行います。

近日中に改めて全王国民に向けて、リリアナ様のお披露目を予定しております」


「……着替えますのでラドシェリム様は外に出て下さい」

  


今は私が拒否をしても、受け入れてもらえないことは分かっている。

逃げれば殺されるだろうし、万が一逃げ切ることが出来ても陸の人たちに海魔の被害が及ぶ。


でも、故郷に帰ることを決して諦めた訳ではない。

私の次の愛し子が、ひょっとすると近日中に現れるかもしれない。海の浄化が完全に終わって海魔もいなくなれば、私は用済みになって陸に帰されるかもしれない。


決して弱気になっては駄目だと自分に言い聞かせ、私は侍女たちに手伝われながら用意されたドレスへと袖を通した。




------


「ラドシェリム殿下、リリアナ様のお支度が整いました」


「ああ」



女神の間の外に控えていたシェリは侍女に声をかけられ、壁に預けていた背中を離し扉の方へと向き直る。


すると間もなく、リリィが侍女に連れられ部屋の外へと出てきた。

翠緑色に染められた、オフショルダーのマーメイドドレスに身を包んだリリィを見て、シェリは思わずその眼を見開いた。



「美しいですね。その色はリリアナ様によく似合う。貴方様の瞳と同じ色ですから」


「仕事上お世辞は言われ慣れてるので

お気遣いなく。早く行きましょう」



一人でズンズンと歩いて行こうとするリリィを見て、シェリはやれやれ、といったようにため息を付く。

そして、階段を目指し一人テラスを歩く彼女の後ろ姿をふと見た時、今度は少しばかりその眉を寄せた。


目前のリリィは髪を美しく結い上げられているが、そのせいで彼女の細い首が露わになり、後方には三本の爪で波をかたどえぐられたような女神の紋章がはっきりと見て取れる。


というか、わざと見せつけるかのようなヘアスタイルにされている。


もしそれをリリィのように愛し子の証だとは知らない者たちが見れば、おそらくは酷い怪我跡か何かに思えてしまうだろう。


それを持つ本人ならば、生来のものとはいえなおさら気にしているはず。さらに言えば、彼女は年頃の娘なのだ。



(……全く)



待ち望んだ女神の愛し子降臨を嬉々とする気持ちも分からなくはないが、もう少し彼女に配慮することは出来ないものか。


おおよそ王家の側近たちが、あのような髪型にするよう侍女に命じたのだろうが、流石のシェリもこのまま彼女を王宮へ連れて行こうなどとは思えなかった。



シェリは女神の間に残る侍女に、ある物を持ってくるように命じた。



「リリアナ様、お待ちを」



リリィが今度は何だと言わんばかりに少しむくれてシェリの方を振り返る。

シェリは侍女から受け取った物を手に持つと、真っ直ぐリリィの方へと歩いて行った。



「リリアナ様、これを羽織って下さい。

王宮までは少し歩きますので」



シェリは、薄地で手触りの良い白色のショールを、リリィの首後ろが少しでも隠れるように掛けてやった。



「お身体が冷えてはいけませんから」



シェリはそう言ってリリィの手を取り、そのままエスコートして行く。


流れるような無駄のない美しい所作に、テラスから二人を見送っていた侍女たちも、思わずうっとりとした表情になっていた。




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王宮はおとぎ話に出てくるような城とは違い、こじんまりとした小さな宮殿だった。


白が基調の、すっきりとした無駄のない建造物で、女神の間と同じく魚やヒトデ、さらに幾何学模様のような彫刻が、建物全体にバランスよく施されている。


その王宮前に広がる中庭には、すでにたくさんの人たちが集まっていた。



「リリアナ様、ようこそお越し下さいました。

貴方様にお会いするのを、皆が心待ちにしておりますよ」



国王が穏やかな笑顔で私を出迎えてくれる。

とても歓迎されたい気分ではないが、接客仕事で染み付いた特技、ザ・営業スマイルで私も挨拶を返す。

流石にまだ死にたくない。


すると、私の少し後ろに控えるシェリが生温かい目でこちらを見てくる。



「おい、なんだその笑顔は。俺への態度と全然違うではないか」



私にしか聞こえないような小声で、シェリがこっそりと耳打ちしてくる。

なので、私も小声でそれにお応えする。



「国王様は昨日、私に対してちょっと申し訳なさそうにしてくれてたでしょう?

あなたは私を脅したけど」


「国王陛下は御年1700歳を越えているのだぞ。妃もいる」


「……シェリは何を勘違いしてるの」



ジトリとしたまなこでシェリを一瞥いちべつしてから、私は国王夫妻の後方に立っている海人族の人たちに目を移した。


男性二人に女性が一人。

そのうちの二人はシェリによく似た面影を持っているので、おそらくは彼の親族だろう。


それにしても、国王夫妻といいシェリといい彼らといい……。

王族の人たちは皆美形揃いである。



私が彼らの美しさに少々圧倒されていると、

シェリに似た若い男女二人が私の前へと進み出て、そして跪いた。



「リリアナ様、お初にお目にかかります。

我が名はトリンティア。


ボルドガンフル・ポセイドンの長子にございます。愚弟の数々のご無礼、どうぞお許し下さいませ。心よりお詫び申し上げます」



私にそのように話すこちらの女性は、外見こそ王妃にとてもよく似ているが、おっとりとした雰囲気の彼女とはまた違う、キリリとした格好の良い女性である。


シェリが気まずそうに視線を逸らしているので、彼はこの姉上にはなかなか頭が上がらないと見える。



「リリアナ様、私はナプティムウトと申します。ボルドガンフルの次子で、シェリの兄にございます。愛し子様のご来訪をずっと心待ちにしておりました」



彼のかんばせは国王やシェリに似ているが、男性三人の中では一番穏やかそうに見えた。



「私は海人騎兵団の団長を務めておりますので、リリアナ様が何かご不安に思われることがあれば何なりとお申し付け下さい」



なんと、この一番穏やかそうな男性が騎兵団の団長だったとは。

人は見かけによらないものだ。


あと、跪かれるのに慣れていない私はこの状況が昨日と同じくとても落ち着かないので、少し腰を落として彼らに話しかけることにした。



「あの、顔を上げて下さい。

こ、こちらこそ、初めまして。

リリアナ・マリンクロードと申します。


あまりこの状況を飲み込めていませんので、えっと、粗相があるかもしれませんがどうぞお許し下さい」



状況とは、もちろん私が女神の愛し子だと崇められていることについてである。

緊張しているせいか声が上擦ってしまった上、言葉も噛んで少々恥ずかしい。


しかも今、ドレスの裾を少し踏んでバランスを崩した。何とか自力で持ち直したが。



トリンティアとナプティムウトがそんな私をきょとんと目を丸くして見ている。

私は早速粗相がバレてしまったのかと思い、変な汗が流れそうになる。



「女神の愛し子様は、何というか、とてもお可愛らしい方ですね。シェリの言っていた通りです」


「……ティム、口を慎みなさい。

申し訳ございません。愚弟二人共にリリアナ様にご無礼を」


「い、いえそんな、とんでもないです!」



と言いつつ、私はシェリの方をチラリと見やる。疑いをたっぷり含ませた眼差しを向けて。


彼はナプティムウトに、一体何の話をしたのか。



「俺は兄上の話すようなことは申しておりません」


「おや? 君は昨日、リリアナ様の海中遊泳があまり得意ではないことや、彼女が怪魚に珍妙な名前を付けられていたことを話していただろう?」



と、ナプティムウトがシェリに耳打ちしている。そして近くにいる私にはその会話が丸聞こえである。


そんなことだろうと思ったが、私には、弟二人にメラメラと怒りを燃え上がらせているトリンティアのことが気になって仕方がない。



「シェリ。あなた、後で覚えておいでなさい。失礼にも程があります。

そしてティム、あなたはもうお黙りなさい」



美人が怒ると迫力がある。

シェリはそのまま私の後ろに控えていたが、何故かナプティムウトまで私の背後へと移動してくる。


トリンティアはそんな弟二人に未だ目を吊り上げている。



「あの、私は全然気にしていませんから大丈夫ですよ。トリンティア様も私と普通にお話して下さると嬉しいです」



私が少し慌ててそう言葉にすると、トリンティアは彼らから私へと視線を移し、穏やかに微笑えむ。

女の私でも、思わずうっとりするような微笑である。



「リリアナ様はとてもお優しくていらっしゃるのですね。テティス女神の愛し子が、貴方様のような方で本当に嬉しく思います」



私の緊張がほぐれ、周囲にも少し平穏な空気が流れ始めた時。


後ろにいたシェリが何かに気付いたように私の横へと並び立った。ナプティムウトも同様の行動を取る。


私が顔を上げて彼ら二人の視線をたどると、

王族の人たちがいる場所とは逆側の方から、一人の中年男性が近付いてきた。



「いやはや、リリアナ様は本当に寛大な御心をお持ちでいらっしゃる!

てっきり、我々守護者らが話しかけることなどお許しいただけぬ雲の上のお方だとばかり……


ああ、申し遅れました。

私はこの国の宰相を務めております、アブサハム・バクナワと申します。


リリアナ様は私共のためにこのマーレデアム王国へと赴き、平安と恵みをもたらして下さるお方。

王国一丸となって貴方様を歓迎いたしますぞ」


突然その男性が親しげに私たちの輪に入ってきたことにも驚いたが、その大胆な姿にも大いに驚いた。


国王の後ろに控えるもう一人の王族と思(おぼ)しき男性を跳ね除けるようにして国王の横へと堂々と並び立ったのだ。


  

「アブサハム、女神の御前である。

わきまえよ」


「いやはや国王陛下。リリアナ様はとても親密に、我らと接することをお望み下さるお方とお見受けいたしました。


是非とも王族方のように、我が一族の者も紹介させていただきたいのです。

殿下たちと同様、私にも海人騎兵団所属の年若い息子たちがおりますゆえ、是非。


副団長を務めておられるラドシェリム殿下は、とてもお忙しくていらっしゃる。

リリアナ様の守人は我が息子たちにお任せ下さいと申しておりましたのに」



ニタリ、と嫌な笑みを向けられて思わず後退あとずさりしそうになったが、シェリが私を背に隠すようにして、素早く私とアブサハムの間に入ってくれた。



「国王陛下のご忠告が聞こえませんでしたか、宰相殿」


「ラドシェリム殿下。私はリリアナ様とお話をしているのですよ。

宰相の私が、国賓である女神の愛し子様のおもてなしをさせていただくのは当たり前でございましょう」



シェリは私の前に立ち、アブサハムを鋭く見据えたまま断固として動こうとしない。

アブサハムは相変わらず嫌な笑みを、シェリの肩越しに目が合う私へと向けてくる。



(この人、王族の人たちに遠慮なく意見できるほど権力を持った人なのかな?

あと、私がここに来たのは不可抗力であって、あなたのためではないのだけど……)



「二人共止めよ。女神の愛し子の御前であるぞ。アブサハムも身分をわきまえよ。


リリアナ様はマーレデアム王国へお越しになる直前、海上で遭難されていた。

その際にリリアナ様をお救いし、お世話をさせていただいたのがラドシェリムだ。


見知らぬ土地では少しでも顔見知りの者が側に付く方がリリアナ様も安心出来よう。

この者を守人にしたのはそういう経緯いきさつがある」


「……いやはやなるほど、そういうことでしたか。ラドシェリム殿下より先に、我が息子たちに海上へと向かわせるべきでしたな。


ではせめて、この宴の席で紹介はさせていただきますよ。


シリスハム、バリスハムよ、ここへ」



アブサハムに促され、私たちの前に二人の年若い男性たちが歩み寄る。



「お初にお目にかかります、リリアナ女神様。私はアブサハムの長子で海人騎兵団に所属しております、シリスハムと申します。


お噂通り、貴方様はとても美しくていらっしゃる。

女神の紋章も是非拝見したかったのですが、勿体ない。羽織物でお隠しされている。


その布を取り除くことが出来る者に私がなれれば良いのですが」



アブサハムに良く似た、ニタリとした笑みを浮かべながら、彼は自身の首元を撫でている。


そのねっとりとした目つきにゾクリとなり、私は思わず鳥肌を立ててしまった。


もう一人の男性も、



「リリアナ女神様、私は弟のバリスハムと申します!

女神様の御力で国に平安が戻れば、家族や友人たちとまた旅を楽しみたいものです。

いつか貴方様にも、是非ご案内させて下さい!


そういえばリリアナ女神様、

ご家族はちゃんと陸の地に残して来られましたか?!」



と、嬉々として話した。


私はバクナワ兄弟のどちらの発言にも、思わず言葉を失ってしまう。


一方は、親密な男女の関係となりたい、とも取れる言葉たち。

目前に立っていたシェリが私を隠そうと、肩にかかるマントを少し広げたくらいだ。


そしてもう一方は、まるで私が家族と離れることを望んでいるかのような発言。


思わず顔をしかめそうになったが、私はそれを必死に抑え、愛想笑いを浮かべる。



「あはは……紋章はそんな、私にとって美しいものではありませんので、皆様にお見せするのもどうかと。


あと、私に家族はもういません。

……みんな、すでに亡くなっていますので」



私がそう口にすると、シェリが少し驚いたようにこちらを振り返る。


そういえばシェリには家族のことを話していなかった。

別に隠していたわけではなく、特に聞かれなかったので私も話さなかっただけだが。



「おぉ、ちょうど良かった。

リリアナ女神様には故郷への未練などお捨ていただきたいのです。もし貴方様さえ良ければ、是非我が一族の一員になっていただければと。


私ならこの海底王国で、貴方様には決して退屈な思いなどはさせませんよ」


「そうですよ!リリアナ女神様は私たち海人族のためにこの地へ参られたのですから。


いやぁ、女神様が陸へ帰りたいなどとお考えでしたらどうしようかと思っていたのですが、もうご家族がいらっしゃらないのであれば安心ですね!」



二人は全く悪気のない笑顔をこちらへと向けてくる。



私は頭をガツンと殴られたような感覚に陥った。


この人たちは、私に家族がいなくて良かったと、そう言ったのだろうか。

私がこの王国へ来たのは彼らを救うためであり、望んで母国を離れたのだと、そう言いたいのだろうか。



せっかく王族の人たちのおかげで、ほんの少し、穏やかな気分になれそうだったのに。



……せっかく、現実を少し忘れることが出来ていたのに。




「……いい加減にしろ。貴様らはこれ以上口を開くな」



シェリの言葉が、このしんと静まり返った中庭に響く。

彼は額に青筋を立て、バクナワ兄弟を鋭くめ付けている。



「君たちは調子に乗りすぎたね。

今日はもう下がってもらうよ。これ以上海人族の恥晒しになるつもりなら、騎兵団の籍からも退かせる」


「どこまで愚かな男たちなの。

アブサハム、これが宰相であるあなたの教育の賜物かしら?だとしたらこのお二人にあなたの後を継がせるような真似は決して許さなくてよ。国が滅びてしまうわ」



ナプティムウトとトリンティア両者からも

軽蔑を含む激しい批判が彼らへと浴びせられる。


国王夫妻は若い世代たちの成り行きを静かに見守っていたが、アブサハムだけはそのかんばせの青肌をさらに深く青ざめさせて、あんぐりと大口を開けていた。



「……ふふ、申し訳ございません。

女神の愛し子様を御前に、少々舞い上がってしまったようで」



シリスハムの舐めるような目つきから逃れたくて、私は思わず下を向く。



私は彼らのためにこの海の底へ来たわけではない。ここにいることを望んでいるわけでもない。


まだ死にたくなくて、陸の人たちにも危険が及んで欲しくなくて、しばらくの間この海底王国に留まる決心をしただけだ。

決してこの宰相一家のためではない。


母国への未練だってあるに決まっている。

でも今はどう足掻いても帰れないことが分かっているから、こうやって大人しくしているだけだ。



殺されないために。

陸の人たちに迷惑がかからないように。



それとも、この王国の人々は皆、私が望んでここへ来たと思っているのだろうか。

自分たちが私と同じ立場になったとしても、そのように言えるというのか。


今までずっと我慢していたものが、もう止められなくなってしまった。私の瞳からはどんどん涙が溢れてくる。

 


「リリアナ様!」



シェリが険しい表情のまま、私の涙にいち早く気付く。彼は私に向き直り、シリスハムとバリスハムを私の視界から完全に消すようにマントを大きく広げた。



(……帰りたい。やっぱり私には、たった一人でこんな所で生きていくなんて無理だよ)



ずっと、海が怖かった。

でも今日やっと、海は美しいものだと思うことが出来た。


それなのに。



「……少し失礼いたしますね。涙をお拭きいたします」


「リリアナ様、王宮の中で少し休みましょうか」



言葉もなく、ただぼろぼろと涙を流している私に、トリンティアとナプティムウトが心配そうに声をかけてくる。

なのに、今の私ではそれを素直に感謝することが出来ない。

 


「……すみません。せっかくの宴ですが、どうぞこの後は皆様でお楽しみ下さい。


私は少し、気分がすぐれませんのでお部屋に下がらせて下さい」



私はやっとそれだけを言うと、震える両手でドレスの裾をたくし上げ、皆に背を向けて一人中庭を後にしようとした。



「……リリアナ様、お待ち下さい。

俺が貴方様を女神の間へ送ります」



私はこれ以上誰にも涙を見られたくなくて、背中越しに聞こえたシェリの言葉にも振り返って答えることが出来なかった。



「一人で大丈夫。

それに、やっぱり私にはこの王国の救世主になんてなれない。だってみんなが望んでる女神には、どうやったってなれないもの」



私は顔を俯かせ、小さな声でそうシェリに言い放った。


涙で覆われている視界はすこぶる悪い上、王宮から女神の間までは少し距離もある。



それでも、私は誰とも視線を合わせないまま、一人で宴の席を後にしたのだった。


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