第2話 テティスの愛し子
私が死んで、一体どのくらい時間が経ったのだろう。
シェリがあの恐ろしい怪魚を倒した後、私は突然強い力に引かれ、成す術もなく海底へと沈んでいった。
(人間って、死ぬ時はほんとに呆気ないものなんだな)
と、妙に冷静な判断を下しつつ、私は重かった瞼を少しずつ開けていく。
「とうとうあの世に来ちゃった」
眼を数度ゆっくりと
そして顔だけを左右に動かし、現状を確認してみる。
どうやら私は今、あの世に設置された広いベッドの上に横たわっているらしい。
あの洞窟の、硬い床上で目が覚めた時は背中が痛かったが、今はそんなこともない。
シーツも手触りが良く上質そうだし、
枕も布団もとてもふんわりとしている。
私はベッドからゆっくりと起き上がり、天蓋を開く。
ここは邸宅の一室なのだろうか。豪華な調度品がセンス良く配置され、趣味の良い絵画が壁に飾られていた。
(あの世って意外と現実的なのかも……)
と、呑気なことを考えながらベッドから少し身を乗り出すと、
「?!わわっ!」
私は何か布のようなものに足を引っ掛けてしまい、そのまま部屋の床へとダイブした。
勢いよく打ち付けられた身体にはビリビリとした刺激が走る。
「いたたた……海やら床やら、ほんと散々だよ。
……ん?痛みがある?」
ゆっくりと起き上がり、改めて自分の姿を見下ろしてみると、ちゃんと足が存在しているし、ぺたぺたと身体中触ってみたが実体もある。
「ちょっと待って。もしかして私、まだ死んでないの?」
海の中へと落ちていった記憶はあるのに、何故だか自分は生きている。
それなら、ここは一体どこなのだろうか。
それに。
「着替えちゃってるし……」
海に沈む直前の私はといえば、水着の上に日焼け対策用のパーカを羽織っている、というスタイルだった。
なのに、私は今、つるつるとした手触りのシンプルなロングドレスを着用している。
真っ白で美しいドレスだが床に着くほどの長さがあり、それのせいで私は今しがたベッドから転がり落ちてしまったのだ。
おかげで自分がまだ生きていることに気付けたのだけれど。
さらに、私の首には見慣れないペンダントがかけられていた。
幾重にも連なった小粒のパールがチェーンの役割を果たしており、トップには魚を
何が何だか分からない私は、取り敢えず部屋の外に出てみることにした。
(私、もしかしてまた海岸に打ち上げられてた?それで、見つけてくれたのがとっても親切でお金持ちの人だったのかも)
その可能性は大いにあり、と妙に納得した私は、それならお礼を言わなければと部屋の入り口まで足を進め、ゆっくりとその扉を開けた。
しかし扉の先には、家主の部屋へと続く回廊はなかった。
代わりに、とても美しい海底世界がどこまでも広がっていた。
彩り豊かな海水魚やサンゴたち、エメラルドグリーンに澄んだ景色が、私の目に飛び込んでくる。
「わぁ……ものすごく綺麗な所」
私は思わずほぅ、と感嘆の息を漏らしながら、数歩前へと歩み出る。
一度後ろを振り返ると、私が部屋だと思っていたのは、実はヴィラのような建物だったということが分かった。
ゴシック調の真っ白な美しい建造物で、所々に魚やヒトデと思われる彫刻が施してある。
私はもう一度前を向き、さらに数歩、外へと踏み出した。ヴィラは少し小高い場所にあり、そのため、テラスの先には地面に降りるための階段が続いている。
ふと視線を上げると、目前にほカラフルで可愛らしい海水魚たちが数匹集まってきていた。
まるでちゅっとキスをするかのように、ツンツン、と私の肌に可愛い刺激をくれる。
「すごい。魚たちとこんなに近くで戯れることが出来るなんて。
海が怖くてずっと近付けなかったから、こんな経験は一生出来ないと思ってたな。
それにしても、ここはどこなんだろう?
こんな素敵な海底世界、陸のどの場所で……陸の……?」
急にヒヤリとした汗が私の背中を伝う。
……いや。魚が陸で宙に浮いているはずがない。そもそも、生きていけるわけがない。
今、私の視界に映る海底景色は、陸の上では到底あり得ない。
ここは、本当に、一体何処なのか。
少なくとも、私がどこかの海岸に打ち上げられた可能性だけはなくなってしまった。
「ああ、お気付きになられましたか」
突然私の背後から低い男性の声が聞こえた。
私は驚きのあまり、身動きが取れなくなる。
「お身体は大丈夫ですの?突然この宮の前でお倒れになっておいででしたから、本当に心配いたしました」
今度は落ち着いた女性の声が。
私は恐る恐る、その声主たちの方へと振り返る。
すると、そこには美しい衣装を身に
そして、その彼らを見やった瞬間に、私はこの現状を唐突に理解する。
ここは深い深い海の底。
青い肌に金色の瞳を持つ、海人族と呼ばれる人たちが暮らす海底世界であることを。
「あ、の……私」
「突然で驚いたでしょう。きっと、紋章の力でこの宮へとたどり着かれたのですね」
いや、私の意思ではなく、何か得体の知れない不可抗力によって海底へと引き
しかし、全身の震えが未だ収まらない私には、その言葉を発することが出来なかった。
「さあ、我々の "女神の愛し子" がお目覚めになられた。
我がマーレデアム王国の守護者たちよ、
直ちにこの女神の間へと集結せよ」
男性の低い声がこの海底世界に響き渡るや否や、前方よりこのヴィラを目指すようにして泳ぎ向かってくる人々が私の目に映り始めた。
ただ、彼らの中には当然私のような陸上人と思しき人は一人も見当たらず、あの時助けてくれた "彼" と同じ、海人族たちがこの場を目指し集まってきている。
「ついに女神の愛し子が戻られた」
「これで我が国に再び平安と豊穣がもたらされるぞ」
人々はみな興奮し、喜びに満ち溢れた表情をしている。
そして、彼らはこの女神の間と呼ばれるヴィラの前で両膝を着き、両手指を交差させてそれを胸の前で結び、
彼らを召集した、どこか威厳に満ち溢れている男女たちも私の両側へと移動し、階段下に集まった他の海人族の人たちと同様に、私に向かってゆっくりと拝礼した。
(……え? 跪かれてるの、もしかして私だったの?!)
「女神の愛し子よ。ようこそ、我がマーレデアム王国へ。
私はこの国の国王を務めております、ボルドガンフル・ポセイドンにございます。こちらは我が妃、イルトゥーキア。
自身を国王だと名乗る男性が私の右側で跪いたまま、そのように
……もう本当に訳が分からない。
私の冷や汗も止まらない。
震える身体を抱きしめるようにして、私は必死に声を絞り出していく。
「ち、違います。私は救い主なんかじゃありません。私は普通の、陸に住むただの人間です!」
すると、国王が少し眉を下げて私へと微笑みかける。
「貴方様の首後ろに浮かび上がる、女神の紋章が何よりの証にございます」
「……紋章?もしかして、この生まれつきある痣のことですか……?」
「その紋章は、海女神・テティスの愛し子である証なのです。先代の愛し子も、貴方様と同じ紋章を身体の中に刻まれていたそうで、その御力によりこの海底王国へ参られたと伝わっております」
私の生来あるこの痣には良い思い出がない。これのせいで
今も、全く身に覚えのない女神の愛し子などと崇められ、とても居心地が悪い状態だ。
「女神よ、どうか我らをお導き下さい!」
「リリアナ女神様、我々に祝福を!」
「平安と恵みの糧を!リリアナ様!」
目下で次々と発せられる、この女神発言。
一体私がどのような行いをしたらその祝福とやらが与えられるのか、私には見当もつかないというのに。
(困る……そんなこと言ったって、私には何の力もないよ。
それにどうしてみんな、私の名前を知ってるの?)
「静まれ皆の者。リリアナ様は住み慣れた地上を突如として離れ、このマーレデアム王国へと参られたのだ。
歓迎の宴は明日に
女神の愛し子に、決して無礼は振る舞いは許さぬぞ」
国王の厳格な声がこの場に響くと、辺りはしんと静まり返った。
「リリアナ様。
色々とご不安もおありでしょうが、どうか我らをお導き下さい。
今のこの瞬間も、この海最大の魔物である"海魔"が暴走し、豊穣の恵みが日々失われております。
我々の国はもはや、貴方様のご加護がなければ壊滅の道しか残されていないのです」
もう何も言葉が見つからず、ただただ顔色を悪くすることしか出来ないでいる私を見やり、国王がさらに言葉を続けた。
「貴方様には我が
マーレデアム王国第二王子・ラドシェリムよ、ここへ」
未だなお跪く人々の中より一人の男性が立ち上がり、女神の間に続く階段を登ってくる。
その男性の姿が近付くにつれ、私の目は大きく大きく見開いていく。
(この人って、もしかして……)
「この者は我が一族にして海人騎兵団の副団長を勤めております。
何かあれば任務に赴くこともございますが、必ずやリリアナ様のお力添えとなりましょう」
「シェリ、さん?」
「……リリアナ様。昨日の数々の無礼をお許し下さい。貴方様のことは私、ラドシェリムが命をかけてお守りいたします」
視線の合わないシェリが、私の前で跪く。
彼は未だ震えの止まらない私の
人々が去り、国王夫妻から私を休ませるようにと命じられたシェリは、私の手を取りこの女神の間へとエスコートしていく。
「ここから先は貴方様の侍女がお世話をさせていただきます」
「……シェリさん。ちょっと、折り入ってお話したいことがあるのですが。二人で」
「シェリとお呼び下さい。敬語も必要ありません。
そして、男である私は貴方様の宮へ、女性の供なしで入ることを許されておりません」
「5分で結構です」
「……申し訳ございませんが」
私との"あの約束"を反故にしたいのだろう。
でも、私だってここで引き下がる訳には行かない。
先程、彼の父親である国王が私への無礼は決して許さないと言っていたことを思い出す。
「洞窟であなたに腕を引かれて海中へと落ちた時、本当に怖い思いをしました。
私は泳げませんし、何より人間なので、海人族のみなさんとは違って水中では息ができないんです。
"溺死"、という二文字がついつい頭をよぎりました」
シェリに命を助けてもらっておいて何だが、私にはこれくらいしか切り札がない。
彼の金色の瞳を、私は必死に見つめ続ける。
「……リリアナ様。先程も申し上げましたが私に敬語は必要ありません。
二人きりで宮に入ることはできませんので、このテラスでお話しいたしましょう。
人払いをさせていただきます」
はぁ、と諦めのため息をつくシェリに、テラスに備え付けられていたベンチへと案内される。
私と彼は隣り合うようにして、そこに腰を下ろした。
「リリアナ様」
「その呼び方やめて下さい……やめて。
私が女神なんかじゃないのは、あなたもよく分かっているでしょう?
私、帰らないと。友達もきっと心配してるし、仕事だってあるのに」
「リリアナ様」
「……」
「……リリアナ様」
「……」
「……リリィ」
「聞こえてるよ」
私がやっと返事をしたことに、シェリが二度目のため息をつく。
「リリィ。申し訳ないが、
「困るよ!友達にも連絡したいし、明日は仕事もあるんだから!オーナーにも迷惑をかけちゃう」
私は身を乗り出すようにしてシェリに訴えかける。
今の彼は洞窟で出会った時のような軽装ではなく、身体に甲冑のようなものを身に付けている。
彼は王子だそうだが、確か武人のような仕事をしていると国王が言っていた。現にシェリは私の護衛を言い付けられている。
「とにかく!本当に困ります!
なんでこんなことに……」
「リリィ。自分が何故海底にいるのに呼吸が出来ているのか、俺と普通に会話をしているのか気にはならないのか?」
「……そういえば」
この海底王国に来てから驚くことが多すぎて、一番疑問に思うべきことが頭から抜け落ちていた。
「その首から下げているペンダントのおかげでリリィは今生きている。それは我が王家に代々伝わる"女神の秘宝"だ。
女神の秘宝を身に付けていれば、人間が海底世界にいても海人族と同じように生活が出来るそうだ。その証拠に、其方は泳げずとも、地を歩くことが出来ていただろう?
其方がどうしても陸に上がりたいのであれば、まずその女神の秘宝は国王に返納し、守護なくたった一人で海上まで行かねばならないが本当に良いのか?」
シェリの意地悪な問いかけに、私は目を見開く。彼は先程までのかしこまった態度を崩し、私をどんどん追い詰めていく。
「泳げぬリリィがこの海底から一人で海上へと上がれるのか?数キロはあるんだがな。
しかも海には其方のことなど一飲みにしてしまうような怪魚も多く存在するが?」
(怪魚どころか、水圧と窒息で数分で死んじゃうじゃない。
助けてくれて、親切でいい人だと思ってたのに、この展開はひどい!)
「私がここにいて、みなさんの役に立つことがあるとは思えないんだけど」
私は唇をキュッと結びつつ、負けじと物申す。
「リリィは "ここにいる" だけで良い。
其方がこの王国に存在しているだけで、今現在も海が浄化されている」
「え?! 私、何もしてないのに?」
「……本当に何も知らないのか。
"テティス女神の愛し子" は生まれながらにしてこの海を支配する力を持っている。
リリィがこの王国にいる間は、海が浄化され、海魔の暴走も抑制でき、資源も豊かになる。
其方が目覚めた時、ここに広がる景色は美しく、水は透き通り、多くの魚たちが唄っていただろう。
あれは、其方が現れるたった1日前では見られなかった光景なのだ」
シェリは、とても信じられないようなことを話し出す。
私は反論する隙も与えられず、一人青ざめながら、膝にかかるロングドレスを両手で握ることしか出来ないでいる。
「2000年前にも、女神の愛し子がこの海底に現れたそうだが、その愛し子は海に留まることを拒んだためにテティスの怒りを買い、醜い海魔へと姿を変えられたと言われている。
愛し子が海魔に姿を変えたという話は王家の者のみに伝承される秘話で、王国民らは知らない。よって他言無用だ。
其方も民に恐れられるよりも、慕われる方が生きやすいだろう?」
先程国王が、私の前にも愛し子がいて、この海底王国を訪れたことがあると言っていた。
その時の愛し子も、私と同じように陸に戻ることを望んだのだろうか。
何だか他人事とは思えない話に、私は嫌な汗をかく。
「……今度は脅しなの?」
「事実を述べているだけだ。
海魔が暴走すれば、海に住まう者たちが姿を消し、生態も荒れる。
我々海人族が生きていくための恵みが行き渡らず、多くの者が飢えで苦しむことになる。
……王族として、それだけは防がねばならない。
例え前愛し子だろうが、俺は海魔をいつの日か必ず討つ。
其方も "自身が変化をする前に" 、よくよく考えた方がいい」
真っ青になっていく私の表情に気付いているはずなのに、シェリは淡々とさらに酷な事実を突き付けていく。
「リリィを見つけた時、俺は客船や漁船が相次いで沈没しているという報告を受け、その調査のために海上に来ていたのだ。
海魔の被害は、何も海人族だけが
海魔と "同じ" 、人間たちにも同様の災いが起こっている」
(……待って。もう考えるの止めたい)
「この海底王国に留まらないなら、海魔に姿を変える前に私を殺すってこと……?
それと、私がここにいることを拒否したら、陸に住む人たちにも危険が及ぶって言う風にも聞こえたんだけど」
「ほう、其方は聡いな」
シェリは唇の片端を少し上げてそう言った。
やっぱり、親切な人などではなかったのかもしれない。
あの時の、面倒見の良い彼は一体どこへ行ってしまったのだろう。
目の前の男は、驚くほどに残酷で容赦がない。
(ひどいよ……私に選択肢なんてないじゃない)
「リリィにはこのマーレデアム王国で生涯を過ごしてもらう。
其方が陸に戻れる日は、もう二度と訪れない」
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