無力の自覚

「な、なんで…」

 鉄炮塚は心底驚いている様子だった。ガラス越しで見ない彼女は少しやつれているように見えた。

「や、やぁ…」ぎこちなく片手を上げ、声を出す。裏返りそうだった。

「な、なんで…伊藤君が…」

「火縄さんに連れてきてもらったんだ」

「おかあ、さんが…」

 彼女はまだ状況が理解できていない様子だった。本人からすれば、今僕がここにいることが信じられないことだろう。

「でも、記憶は…」

『彼の記憶の消去に関しては不完全だった』

 火縄さんの声が響く。火縄さんがいる方に目を向けるがこちらからは鏡としか見えなかった。

「君を忘れるなんてできなかった」 

 僕は意を決して部屋に入る。たった一歩。それと同時に鉄炮塚は一歩後ずさった。

「こないで…」

「えっ…」

「見ないで、こんな姿…」

 鉄炮塚は自身の左半身を隠すように体を傾けた。右手で左肩を押さえる。僕はあわてて背を向ける。

「ごめん…いきなり来ちゃって」

「ううん」

 後ろの方でなにか音がする。なにかが嚙み合わされたような音だ。

「…いいよ。こっち向いても」

 その声に僕はゆっくり振り向く。鉄炮塚は左腕を取り付けていた。何度見ても、言われなければ義手だと気づかないような自然さだった。さっきまで左腕が外れていたなんて思えないほどだ。

「記憶、戻ったんだね」

「うん」

「私のこと、思い出してくれたんだね」

「うん」

「こんなところまで来るなんて、君の…行動力は恐れ入るね」

 力なく笑う鉄炮塚は僕の顔を見ようとはしない。ずっと俯いて、時折言葉を詰まらせる。

「だからこそ、君にはここに来てほしくなかった」

「…っ」

「これからがどうなるかは知っているんでしょ?」

「う、うん。君も火縄さんも、もちろん僕も…」

 お互いを忘れる。それは口には出さなかった。認めたくない、精一杯の抵抗だった。

「学校に行けなくなって、君が私のことを忘れて。しょうがないって必死に思いこんだ。これでいいんだって、どうしようもないことなんだって自分に言い聞かせた。君と過ごした短い日々を忘れてしまう辛さも我慢したのにっ。伊藤君、きちゃうんだもん…。きちゃったら…忘れたく、なくなるじゃない!」

 両手で顔を覆い鉄炮塚は涙を流す。あぁ、違うんだ。君にこんな顔をさせるためにここに来たんじゃないんだ。それでもかける言葉が見つからない。僕はゆっくり鉄炮塚に歩み寄る。なにをするべきか、なにができるのか、分からない。それでも、君に涙を流させてはいけないことだけは分かる。

 僕はやさしく鉄炮塚の肩に手を置く。彼女は一瞬ビクリとしたが、振り払ったりはしなかった。

「僕は、君に会えて変われたんだ」

「……」

「ずっと、なにもない時間を過ごしていた。そんな日々が当たり前になって、これでいいんじゃないかって諦めようとしていた。でも、君と会えて。…僕はまた走れるようになった!もう怖くない、また走れるんだ!」

「…っ!」

 鉄炮塚は僕の顔を見る。赤く腫れた目元が艶やかに僕の目に映る。

「せめてこれだけは伝えたかった」

「……そう、か。見たかった…な。また走るところ」

 鉄炮塚は少しだけ笑った。それでも彼女の諦めたような表情は消えない。僕はこのまま終わりになんてしたくない。


「火縄さん」

『…なんだい?』

「どうにか…できないんでしょうか?」

『誰も何も忘れずに終われるかってことかい?』

「はい」

 僕は藁にもすがる思いで問いかけた。火縄さんも鉄炮塚もこのままの終わりなんて望んではいない。僕だって諦めたくはない。

『…ないことはない』

「えっ?」

「ほ、ほんと?お母さん」

 僕と鉄炮塚は思わずガラスに駆け寄る。どうにかできるかもしれない。この事実は僕達を奮い立たせた。

『この研究所は医療機器の開発を主に行っているところだ。だがそれは表向きの話で、本当は軍事開発を目的にしている。もちろん極秘だ。でなければ、この島に研究所なんて建設できない』

 当然だ、表向きの理由でも島から反対が起きていたのに、軍事だなんて島民が黙っていないだろう。

『灯の実験のことを世間に告発すれば、和泉は私たちに構っている暇などなくなるだろう』

 左腕の無い女の子を使って義手型の銃火器を開発しているなんて、世間が黙ってはいないだろう。これを世間に公表すれば確かに僕達の処遇に対してうやむやになるのかもしれない。

『だが、それをすれば灯に多くの世間の目が向けられる。マスコミの恰好の獲物だ。周りからも奇異な目で見られ、およそ普通の生活なんてできないだろう』

「あ…」

 言われてみればそうだ、こんな非現実的な出来事が一時の話題で終わるわけがない。鉄炮塚にまとわりつくのは軍事研究の対象となった左腕が武器だった少女という事実だ。そんなフィルター越しで他の人間は彼女と接する、その急激な環境の変化や人間関係に耐えられるのだろうか。そんなところに彼女を放り出すのは火縄さん自身もかなりの抵抗があるのだろう。


『最善の手だと認めたくはないが記憶の消去以外に私たちが無事に済む方法がない』

 火縄さんの声色は暗い。覚悟自体は決めているのだろうか、諦めが伺える。僕達はしばし声を上げることができなかった。

『伊藤君、こっちに戻ってくれるか?実験を再開する』

 長いように感じた沈黙を火縄さんが破る。僕にはまるでその言葉が全てを終わらせてしまうかのように聞こえた。

「伊藤…くん」

 鉄炮塚が不安げな表情でこちらを見る。僕がそれに何か答えてあげることはできない。一歩、自分の足が無意識に出口の方へ向いてしまった。この一歩に僕は愕然とした。なんだこれは?なんで僕は出口に向いているんだ?ぐるぐると頭をめぐる疑問の答えは意外に早く出た。

 、僕は。こんなところまで来て、なにやっているんだ。ただ彼女を困らせただけじゃないか。

“住む世界が違うと感じたのならば早めに別れるべきだよ”

 火縄さんのセリフがフラッシュバックする。僕がここに来たのは、間違いだったのか。あの母娘の間に入ってかき回して、なにもできずにここから消える。いい笑いものだ。二歩目が動くと僕の歩みは止まらなかった。ゆっくり、ゆっくりと、部屋を出ていこうとうする。


 鉄炮塚の顔をまともに見れない。彼女は今どんな表情をしているだろうか、想像するのが怖い。下を向いて足を引きずる。

 まもなく部屋から出て行ってしまう、ここを出たらもう鉄炮塚とは会えない。耐え難い事実に苦悶しているその時だった。

「……っ?」

 靴が見えた。茶色い革靴だ。男が履くよく見たことがあるやつだ。ツヤが出ており、よく磨かれているのが分かる。いや、そんなことはどうでもいい。僕の目の前に誰かがいる。

「っ!?」

 勢いよく顔を上げると、眼前にあったのは銃口だった。鉄炮塚のような指先に開いた穴ではない。映画やドラマで見る拳銃の銃口が、今目の前にあった。

 あまりに唐突なことに言葉が出ない。なんだ?なんでこんなモノが僕の目の前にある?銃口が目の焦点をずらし、僕に銃を突き付けている人物を見る。鉄炮塚が後ろで息を吞む音が聞こえた。

「な、なんで…」

「…」

 こぼれ出た疑問に相手は返事をしない。ただ黙って僕を見据えている。

「なんで、ここに…」

 僕は思わず後ずさる。目の前にいる人間が今ここにいることが信じられなかった。あまりの出来事に呼吸が浅く、早くなった。チラリと鉄炮塚の方を見る。彼女自身も信じられないといった様子だった。

「岩井…校長…」

 僕らの学校の校長先生が、鉄炮塚を学校に通えるように手引きした本人がそこにいた。

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