another 走る君が

 腕を振り、足を上げ、風を切り、一直線に走る君に目が離せなかった。


「灯、学校に通うよ」

「えっ」

 お母さんからそう告げられたのはその日の実験が終わってからだった。

「集団行動において実験だ。主にあなたの感情の動きによる義手への干渉を確認するために」

「がっこう…」

 この島の研究所に移ってからはもう諦めていたことだった。勉強は研究所内で行っていたし、普通にいったら高校三年生になる歳だ。いまさらいったところで俗にいう青春なんて送れないと思っていた。

「島の高校に通うようになる」

「島ってことは浦松高校?」

「あぁ」

 その瞬間、私はとあるワンシーンを思い出した。お母さんと本土に外出した時、たまたま入った陸上競技場で見た、一人の男の子を。時間が止まったかのような静寂の中で鳴り響いた号砲を合図にロケットのようなスタートで飛び出し、グングン加速していった彼のことを。伊藤 陸斗。浦松高校にいる人だ。

「手続きは済んでいるから、四月からね」

「う、うんっ」

 私はいつしか忘れていた胸の高揚を感じた。あの人にまた会えるかもしれない。私は、ほんとうに久しぶりに楽しみなことができた。


 私は浦松高校に転入し、伊藤君と同じクラスになれた。別にお母さんに頼んでクラスの編入先をいじってもらったわけではない。ただの偶然だ。伊藤くんは廊下側一番前の席にいた。教室に入る時、あまりに近くにいたのでびっくりして声を上げそうになった。一瞬だけ目が合ったが私はそらしてしまった。感じ悪く思われてないだろうか心配だった。

 放課後、伊藤君の走っている姿を見たくてグラウンドを覗いてみた。すると、他の人は練習しているのに、伊藤君はずっと器具の準備やタイム計測などをしていた。怪我をしてそれが原因で走るのをためらっていると知ったのは、他の部員の人が伊藤君の陰口を言っているのをこっそり聞いたからだ。ショックだった。陰口を言われるのもそうだったが、彼が走れなくなってしまっていたからだ。もう一度、あの走りを見てみたかった。でも、転入してきた私がいきなりそれをいうのは憚られた。彼の気持ちを汲んだ行動ではない。

 私は極力、他の人との交流を避けた。腕のことを知られたくなかったし、実験が終わればどうせここには来なくなるし、余計な交友関係は作らないほうがいい。


 だから、あの時。あの雨が降っていた日。傘が無くて迎えを待っていた日。ただ上から下へと落ちていく水を意味なく眺めていた時に、彼が入ってきた瞬間は平静を保つのが精一杯だった。

 彼は私の左手を見て、驚きはしたがそれでも、怖がったりはしなかった。誰かに言いふらした様子もなかった。距離を取ったりもしないそんな彼に私は甘えていたのかもしれない。

 伊藤君はいまだに走るのを怖がっているようだった。本人にしか分からない苦しみに私は気休め程度の励ましやなんの根拠もない「走れる」なんて言葉をかけた。それが彼にとって余計なお世話だったのかもしれないけれど、私は声を上げた。私がもう一度君が走るのを見たいなんて、自分のエゴが混じっているのは否めないけれど、でもなにより、彼が時折見せる悲しげな表情が私にはとても辛かった。


 暴発した時に私の感情を支配していたのは恐怖だった。櫻井君に言い寄られた時、力ではとても敵わなくて、怖かった。

 横たわり、血を流す櫻井君を見た時、何かが頭をよぎったが伊藤君が私の手を取った時に消えていった。

 彼が落ち着かせようと私に声をかける。あぁ、これで私はもう彼と会うことはない。私はここから消える、あなたの中からも私が消える。どうしようもなく嫌で、苦しかった。

 研究所に戻った後、お母さんは特に私を叱責したりはしなかった。

「後日、荷物の整理でもう一度だけ学校に行く」とだけ言った。私は力なく返事をした。

 荷物といっても大したものはなく、カバン一つで事足りたが、

「ぬいぐるみがない…」

 お母さんからもらったぬいぐるみを落としたことに気づいた。きっとあの日だ。私は教室を探し回ったが見つからない。捨てられてしまったのだろうか、途方に暮れていると、不意に教室の扉が開く。入ってきたのは伊藤君だった。彼はキョトンとした顔だった。私は今すぐ駆け寄りたかったがぐっと堪え、平静を装った。

 彼は私と過ごした日々を忘れていた。これは事前にわかっていたことだ。それをいざ目の前にすると、心にくるものがあった。彼はもう私のことを大して知らない。三年で転入してきて、いつの間にか転校した奴という認識でしかない。気を抜くとひどい顔になってしまいそうだった。

 もう彼に会うことはない。目のあたりに何かがギュっと集まってくる。もう限界だった。私は零れ落ちる涙を見られたくなく、逃げるように教室を出た。下を向いて走って、外の車に乗り込む。

 走り出す車のミラー越しに彼の姿が見えた。私は雨が入り込むのも気にせず窓を開け、左手でピストルを形作った。陸上の号砲のように私の左手で君が走ってくれたらと願った。


「あなたが好きでした」

 か細い呟きは雨音にかき消された。

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