和泉研究所
カーステレオから流れてくるラジオはやがて雑音に変わり、火縄さんはラジオを切った。エンジンの回転数が上下する音、雨が車を叩く音、タイヤが時折大きな水たまりをはじく音が耳に届く。
「灯は研究所にいる」
学校の校門を出る時、火縄さんは一言そう言った。車は学校が位置する場所から島の反対方面へと走っていく。
部活には適当な理由をつけて休んだ。飛島からは『明日はちゃんと来てくださいね』と一件だけ連絡が来た。彼女なりになにかを察してくれたのかもしれない。『分かった』と返信をしておいた。
「いい子だね。飛島 弥生は」それまで無言だった火縄さんが口を開いた。
「はい。よくできた後輩です」
「彼女の気持ちは君も知ったんだろう?」
「…はい」
「それでもなお、灯のことを知ろうと思うのかい?」
「そうです」
「ふぅん。まぁ、大人があれこれいうものでもないか」
二十分ほどだろうか、島の景色は見たことないものになった。幼稚園や中学校。工場にスーパー。こんな機会がなければおそらく見る機会はほとんどなかったであろう僕にとっては島の裏側。こちら側にいる人達にとっては表側で、僕達のいる裏側のことはよく知らない人がいるのだろう。でも、今向かっている和泉研究所はそんな僕達でも知り得ない真ん中に建っている。表でも裏でもなく。
「君は和泉研究所に対してどんなイメージがある?」
「あんまり良くないイメージです」
「曖昧だね。それも人づてに聞いた話だろう。以外に行動力がある君は島の住民から聞いたのかな?タクシードライバーとかね。そんな怪訝な顔をしなくてもいい。憶測だよ。学校外での君の行動までいちいち見ていられない」
「なにが言いたいんです?」
「君と灯が関わった期間は一か月にも満たない。君はあの子のすべてを知らない。にしては首を突っ込みすぎている」
「鉄炮塚のことを知るためです」
「若さなのかね。青くて、向こう見ずだ」
島の形に沿って車は進む。右側には海が見える。大雨のせいかどんよりとした色だ。
しばらくすると、一つの看板が見えた。そこには「和泉研究所」と書かれており下の方にはおよその距離と居場所を指す矢印が書かれていた。
「普通に看板とかあるんですね」
「別に秘密結社とかじゃないからね。分かりやすくしないと宅配業者とか困るだろう?」
「宅配…」
「ちなみにこれも宅配してもらっているよ。初めて君と会った時はちょうど切らしていてね」
そういって火縄さんはドーパミンサイダーの空き缶を振る。入手方法を聞きたいところだが我慢した。
看板を左に曲がり、研究所に続く道を進む。元は山だった場所には広く舗装された道路が伸びている。
「山を研究所開発のために削ったんですよね」
「そうだね。リゾート開発とかで山を開拓なんてのはどこもやっていることさ。別に珍しいことでもない」
「島の住民の人達がよく許してくれましたね」
「大人の交渉術によるものだよ」
「それもあまりいい噂は聞きませんが」
「情報ソースが不確かなものの噂や情報は頭の片隅に置いておくものだよ。自身の判断材料のほんの一端を担う程度でいいんだ。ほらあのゲートを超えたらもうすぐだ」
前方にはコインパーキングなどで見られるバーが見えた。右側には守衛室だろうか。小さなプレハブ小屋が立っていた。車はバーの手前で一時停止し、火縄さんは運転席側の窓を開ける。すぐ横には機械があり、火縄さんが首から下げているカードのようなものをカードリーダーにタッチするとバーが開いた。
「和泉研究所にようこそ…というのも変かな」
車はゲートをくぐり進む。その先には大きな建物が見えた。パッと見は医療センターと似ているように思えた。山を開拓したとあって敷地内は広い。建物近くの駐車場に車は止まり、エンジンが切られる。
「さ、降りていいよ」
「…どうも」シートベルトを外し、車を降りる。
入口はすぐ近くで、僕は前を歩く火縄さんについていく。自動ドアを抜けると一階のフロアは受付があった。カウンターには女性が二人おり、火縄さんが通ると一礼をする。
このフロアは複数の人が行き来していた。火縄さんと同じ白衣を着ている人。カッチリとしたスーツに身を包み、後ろ何人かを従えて歩く偉そうな人。携帯で話ながらタブレットを触る人など。ドラマのちょっとしたワンシーンのようだ。
突き当りにはエレベーターが二基あり、前には何人かが到着を待っている。
「あ、火縄さん。お疲れ様です」
僕達に気づいた一人の男性が火縄さんに挨拶をする。それに続くように他の人達も火縄さんに挨拶をする。彼女はそれに「あぁ」と軽く返す。けっこう偉い人なのだろうか?そんなことを考えていると、エレベーターが下りてきて全員が乗り込む。
「七階のフロアで?」
「あぁ。そうだよ」
ボタンの前にいた男性は火縄さんの言葉を聞き、階を押す。どうやら七階に連れていかれるらしい。チラリと見たが、押された階のボタンの中では一番上の階のようだ。狭いエレベーターの空間に白衣やスーツ姿の大人がいる中でジャージ姿というのはかなり居心地が悪い。他の人達からの視線もいたたまれない。僕は上の階数表示を見る。エレベーターで上を向く行為は中にいる人が多ければ多いほど互いに距離が詰まっていて緊張や不安が増してしまい上を見てしまうらしい。僕のこの状況だと余計になんだろう。
エレベーター登っていくにつれ、次々と人が下りていき。やがて僕達二人だけとなった。僕はまだ上を見ている。
『七階です』
機械アナウンスの声と共にドアが開き、僕達は下りた。目の前には窓があり遠くの景色が見える。海が見え、向こう側には別の島が見える。雨はいつのまにか止んでいた。
廊下を進むと突き当りに扉が見えた。両開きの扉は近づくと自動で開いた。中は暗かったが、入るとすぐに明かりがついた。部屋には様々な機械やモニターが見える。なにをするものなのかはさっぱり分からない。奥の方には大きな窓があるが、向こう側は真っ暗でなにも見えない。外に通じているというわけではなさそうだ。
「座りたまえ。コーヒーでもいれよう」
火縄さんはコーヒーメーカーのスイッチを入れる。僕は促された椅子に座った。
「えっと、砂糖とミルクはいるかい?」
「はい」
少しして、テーブルにコーヒーの入ったカップ、砂糖壺と小さなミルクピッチャーが置かれた。
「…どうも」いそいそとミルクを入れ、角砂糖を一つ落とす。静かな波紋がコーヒーに立つ。混ぜるスプーンがカップに当たる音が響く。あまりこういった感じでコーヒーを飲んだことはない。カフェなどにもほとんど行かないから慣れないものだ。火縄さんも向井に座り、ブラックコーヒーをすすった。僕も一口飲んだ。
「あの、この部屋はなんなんですか?」
「君の記憶を消すことができる場所だよ」さらっと怖いことを言われる。
「他に人はいないんですね」
「普段はいるよ。でも今日は先に帰ってもらったんだ」
「鉄炮塚はどこにいるんですか?」僕がここまで来たのはそのためだ。
「君はちょっと信じやすい性質だね。おめでたいというべきか。出されたものも素直に口に入れる。まぁ、別になにも入れてないけど」
「…お願いします。鉄炮塚に会わせてください」
「前のめりな気持ちだね。なんだって灯にそこまでこだわるんだい?」
火縄さんの問いに僕は言葉を詰まらせる。どう言えばいいのか悩んでいるわけではない。心のなかでは決まっていることだ。それを今再認識している。鉄炮塚 灯に会って。彼女の秘密を知って。周りに見せない顔を知って。記憶がなくなった時でも、僕を動かした衝動があった。胸の中にある何かが僕の足を動かした。
「僕は、鉄炮塚 灯が好きです」
この気持ちはそういうことなのだろうと、今なら言える。
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