another 誘惑
叫び声が聞こえたのは、遅れてしまった課題を提出した後、教室に忘れ物を取りに別棟から本棟に戻った時だった。三年生の階を通ったのは伊藤先輩に会えるかもなんていう淡い期待だった。
「なに…?だれ?」
私は怖くなって、近くの教室に隠れた。中には誰もおらず、シンとしている。叫び声の出どころの教室がここじゃなくてよかった。私は廊下に耳を立て、外の様子を伺った。
『わ、私…、そんなつもりじゃっ』
『大丈夫、大丈夫だから』
声が聞こえた。一人は伊藤先輩だ。間違いない。もう一人は聞いたことのない声だったがおそらくは、
「鉄炮塚…先輩」女の勘というべきか確信めいたものがあった。
声の距離からして隣の教室だ。でもさっきの叫び声はどちらでもない。もう一人いる。
私はおそるおそる扉を開け、廊下に顔を覗かせた。その時だった。
コツコツとパンプスの音を鳴らしながら、女性がやってきた。一目散に隣の教室に入る。私は反射的に顔をひっこめた。チラリとしか見えなかったが、男が二人ほど後ろにいた。
今ならここを飛び出して、外に出れるだろう。だが、向こうが気になった。なにより騒動の中に伊藤先輩がいるという事実が、私をここから動かさなかった。
鈍い音が聞こえ、伊藤先輩のうめき声が聞こえた。心配で今すぐ、教室に飛び込みたかったけど、怖くてできなかった。そして、ほどなくして、一人の男が出てきた。抱え込んでいたのは、
「櫻井せんぱ…っ!?」
息が止まりそうだった。血だ。櫻井先輩の脇腹あたりにタオルが押し付けられており、じんわりと赤く染まっていた。
なんで?なんで?意味分かんない。隣で何が起きてるの?伊藤先輩は無事なの!?
『お願い…。お母さん…』
鉄炮塚先輩の声が聞こえた。お母さん?なんでそんな人がこの学校に。
『伊藤くんっ!伊藤…くん…』
先輩が叫んでいる。私にはそれが、ひどく耳障りに聞こえた。
しばらくすると静かになった。
『灯、外に車を待たせている。先に帰ってなさい』
先輩の返事は聞こえなかった。私が再び顔を覗かせたのと、男が伊藤先輩を抱えて出てきたのはほぼ同時だった。私はまたすぐ顔をひっこめた。やはりただ事じゃない。伊藤先輩がどこかへ連れていかれる。
「け、警察に…」
私は震える手でスマホを取りだす。緊急通報のダイヤル画面を出す。110番通報なんて今までしたことがない。それよりまずは先生に伝えるべき?でもそうこうしてる内に先輩がどこかへ連れ去れたら?あれこれ考えてしまっているその時だった、
「こんにちは」
「!?」
あの女性が、扉を開け座り込んでいる私を見下ろしていた。怖くて叫び声も上げられなかった。
「いやいや、驚かせてすまないね。別に取って食ったりなどしないよ。私は火縄 弾子。和泉研究所の者だ。よろしくね」
火縄さんは、私に目線を合わせて少し微笑んだ。睡眠不足が伺われる目の下のクマと肩まで伸びるあまり手入れをされていない髪が印象的だった。
「これから伊藤くんを保健室に連れていくのでね。君が介抱したということにしてくれないか?飛島 弥生さん」
「なんで…私の名前」
「伊藤くんの交友関係はある程度把握しているつもりだよ。彼に友達が多くなくて良かった。おや、気を悪くしたかい?ごめんよ。だがおかげで調べるのにさして手間がかからなかったよ。さ、行こう」
火縄さんは歩きだした。伊藤先輩を抱えている男もそれに従いついていく。私は二人を睨みながらも、あとに続いた。鉄炮塚先輩はもうこの場にいなかった。
先輩の顔を覗き込む。眠っているのか、気絶しているのか。見たところ外傷はないようだった。櫻井先輩のように血が噴き出していたら卒倒するところだった。
放課後の保健室の扉は開いていたが保健の先生は見当たらなかった。二人はそのまま中には入らず、入口前で止まった。
「…?あの、なにして」
「飛島さん。すまないが、スリッパを持ってきてくれないかい。さすがに保健室に土足で入るのは忍ばれるんだ」
「……」
私は黙って来賓用の昇降口にある下駄箱からスリッパを二足取り。二人の前に並べた。
「ありがとう」
二人はその場で履き替え、保健室へと入った。私も続く。
先輩がそっとベッドに寝かされる。辛そうな表情はしていない。
「靴は昇降口に置いておいてくれ。それから外で待機していてくれ」
「はい」
指示された男は出て行き。この場には私と先輩と火縄さんだけになった。
保健室独特の匂いが鼻をつく。病院とも違う匂い。時刻は午後五時をとうに回っている。私はとっさに次のフェリーの時間を考えていた。
「彼の記憶の一部を消してある」
「えっ」
普段過ごしている中ではおよそ聞きなじみのない言葉だった。
「安心したまえ。ここ数日のことだけだ。彼が灯に関わった期間だけさ」
すぐには言葉が出なかった。記憶を消した。なんの話?なんで先輩はそんなことをされているのか。鉄炮塚先輩に関わった期間とはどういうことなのだろう。頭の中でいろいろ考えるが答えが出るはずもない。
「鉄炮塚先輩ってなんなんですか?」
「君は知らなくていいことだ」
「櫻井先輩は…?あんなに血が…」
「安心していい。彼は病院に連れていった。命に別状はないだろう」
「私の記憶も消すんですか」
「君、彼のことが好きなんだろう?」
「…は」
私の質問には答えず、火縄さんは私の胸の内を見透かした発言をした。
「なん、で…知って」
「おや、8割確信で2割の疑いがあったがホントだったようだね」
「……」
「灯の出現で、君の心労は相当なものだったろう」
「そんな、こと」
強い否定はできなかった。いきなり現れた鉄炮塚先輩の接近に憤りを感じた部分はある。
「今、彼の記憶の中心に灯はいない。だがそれにより少し不安定な状態になっているだろう」
火縄さんの次の言葉はなんとなく予想がついた。私もその発想になったからだ。そんな考えをしてしまった自分が卑怯な人間に思える。
「そんな彼を君が支えてあげればいい。君の恋路を邪魔するものはいない。娘が迷惑をかけてしまい、すまないことをした。おわびといってはなんだが、君の記憶は消さないでおこう。大して影響もないだろうし。それと、灯はもうこの学校には通わない。じゃあ私は少し外に出ていることにしよう」
そう言って火縄さんは出て行った。
寝息を立てる先輩を見つめる。普段見ることない表情に心が動く。ずっとこの時間が続いてほしいとさえ思う。この空間がとても居心地が良く誰も入ってくるなと願う。
先輩の中に鉄炮塚はいない。もうあの女は学校にはこない。安心だ。鉄炮塚なんて私も知らない。この人がいてくれればそれでいい。
しばらくすると、先輩の瞼が動き、ゆっくりと目が開く。あなたの傍には私がいます。
「あっ、先輩。良かったぁ。気がついたんですね」
そして私は精一杯の安堵から滲む笑顔を先輩に向けた。
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