それはきっと私じゃない

 私が出した条件に、先輩は少し驚きの表情を見せ、しばらく考えた後に「分かった」と言った。

 その瞬間、私はおもわずしゃがみこんでしまいそうになった。今まで、全然走ろうとしなかったのに、何度も声をかけたのに。私じゃ先輩を動かせなかった。今、あの人を動かしているのは鉄砲塚 灯だ。私に背を向け顧問と話している先輩を見ると、ここから逃げ出したくなる。

 なぜそうまでするのか。それほどあの女の事を知りたいのか。なぜ私じゃだめだったのか。グルグルといろんな思いが頭を巡っている。声を出して泣き出しそうになるのをグッとこらえ、私は練習場所に戻る。

 周りは少し心配そうな顔をしているが、悟られないよう笑ってごまかした。そんな自分がひどくバカみたいに思えて、いっそこの場でなにもかも吐き出してしまおうかと思ったが、それをしてしまうと、もうあの人の顔をまっすぐ見られないような気がした。


「久々に見るね、伊藤先輩の走る姿」同じ高飛び選手の友達が私に話しかける。休憩中の人たちもスタート地点を見つめる。学校の元エースが久しぶりに走るとなってチーム内は少しざわついた。

「裏でいろんな人が言ってたけど、やっぱり気になるもんね」

「…まぁね」

「さっき流して走ってるの見たけどやっぱりフォーム綺麗だなぁ」

「う、うん」

「でぇ?弥生はあの走りにクラッときたんだね」

 ニヤニヤとこちらをのぞき込む友達から顔をそらす。先輩を含めた四人は各々スターティングブロックを合わせる。先輩以外の三人のベストタイムは先輩より下だ。だが、先輩が勝てるとは思ってない。あの三人も実力は伸びている。それまで練習をしてこなかったものが、日々努力をしてきた者に勝てるものではない。無理難題を吹っかけたと自分でも思っている。

 スターターがピストルを構え、ゴール地点を見る。顧問が右手を上げ開始の合図を告げ、それを確認すると、四人に向き直った。

「いきまーす。オンユアマーク」

 スターターの号令に四人は一礼をし、ブロックに足をかけていく。各々のルーティンを行いながら。


 この日、私は、自分の中で形成していたモノが奥の奥まで引っ込んでしまう。そんな確信めいた思いがしてならなかった。

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