違和感と涙と衝動

 目が覚めると、白い天井が目に入った。少し首を動かすと、カーテンが見えた。

 どこだ。ここは。学校の中か?


「あっ、先輩。良かったぁ、気がついたんですね」

 声の方を向くと、飛島が心配そうな顔をして、覗きこんでいた。

「どこ…?」

「保健室です。貧血で倒れたって聞いて、心配しましたよ。まったく、体を鍛えないからそうなるんですよ」

「…」

 体を起こすが、フラフラするという訳ではない。

「キツイです?」飛島が体を支えてくれる。

「いや…、大丈夫」

 ベッドから下りて、上履きを履き、大きく伸びをした。

「なんだ、結構平気そうじゃないですか。鞄、持ってきてますから」

「あぁ」

 ずっと何かが頭の中をグルグルと回っている。気分が悪いわけではない。でも違和感を感じる。


「さっ、帰りましょ」

 飛島から鞄を受け取り、二人で保健室を出る。

「やぁ、もう大丈夫そうだね」

 保健室を出た先に、白衣を着た女性が立っていた。眠たそうな表情だ。

「あっ、火縄さん。先輩、この人が倒れてた先輩を見つけてくれたんですよ」

。火縄 弾子です。頭を打ってないようで、安心したよ」

「…そうだったんですね。ありがとうございました」

「これから、帰りかい?よかったら送っていこうか?」

「い、いえ。もう平気ですから」

「そうかい。では、私はこれで失礼するよ」

「あ、あのっ」

 踵を返す。火縄さんの背中を思わず呼び止めた。

 この人を前にしてから、なにか違和感がある。言ってしまえば、気にしなければいいというレベルでの小さな違和感。

「以前、どこかで、会ったことありませんか?」

 確証なんて何もない。だが、何故か、気になっていた。ホントに初対面か?僕と、この人。

「さっきも言っただろう?初めまして、だよ」

「そう、ですか…」

「他人の空似というのもあるだろう。では、さよなら」

 火縄さんは去っていった。彼女の発したさよならが何故か心に響いた。

「先輩って年上好きですか」

「いや、別に」

「…帰りますよっ。ほらっ」

「わ、分かった。引っ張るなって」

 飛島に引かれて、学校を出た。夕日が沈み、辺りは暗くなっていた。

 時折強く吹く潮風を浴びながら、僕達は帰った。


「鉄炮塚さんは家庭の事情で急遽、転校する事になりました」

 朝のホームルームで、先生からそう告げられた。

 教室がざわつく、ということはなかった。転入してきて間もない彼女。クラスメイトとも馴染めている印象はなかった。もう転校か。そんな雰囲気だった。

 続いて、竜太が怪我で入院することが伝えられた。これには彼を心配する声が多かった。お見舞いに行こう、という声も出た。

 鉄炮塚のことなんてもう忘れてしまったように感じた。まるで最初からいなかったかのように。薄情だなと思う反面、自分だってそんなものではないかと思った。大して話したこともない。

 だが、そんな彼女が何故か気になった。チラリと、鉄炮塚が座っていた席を見る。そこには当然誰もいない。

 誰かが、眩しいので閉めたのだろう。カーテンの隙間から覗く日光が鉄炮塚の机にカーテンの影を落としていた。


 ホームルームが終わり、一限目の授業の先生が入ってくる。出席を取っていくなかで、

「えーっと、櫻井は…」

「怪我で入院ですよ」

「おう、そうだったな」

 クラスの人が言った言葉に頷き、出席簿に何かを書き込んでいる。

 出席を取り終わり、授業が始まる。鉄炮塚の名前は、呼ばれもしなかった。


 掃除の時間。僕は教室の担当だった。一度下げた机と椅子を戻し、教室の後ろ側を箒で掃いていく。

「伊藤君、私こっち掃くから反対側お願い」

「うん」

 僕は教室の窓側の床に溜まっているゴミを集める。

「ん?」

 埃やら、お菓子の袋やらが落ちている中で、何かを見つけた。拾ってみると、小さな熊のぬいぐるみだった。埃にまみれている事を差し引いても、お世辞にも綺麗とはいえない代物だった。

 見覚えがある気がした。誰かが持っていたのを最近見たような。飛島だったかな?いや、だったらなんで僕らの教室にあるんだ?

「こっち集まったよ」クラスの女子の声が聞こえる。

 一箇所に集めたゴミを、ちりとりに掃いていく。

「これ、知らない?」

 ついでにぬいぐるみのことを聞いてみた。その子はチラリと見て、

「知らない。アタシの趣味じゃないもん」

「誰のかは?」

「さぁ?見たことないかな」

「そう」

 落し物だろう。このクラスの誰か、それ以外か。分からないが、とりあえず預かっておくことにした。

 放課後までに誰かが探しにくるかもしれない。その時渡せばいい。埃を払って、ひとまずポケットに入れた。


 ゴミ袋の口を結び、ゴミ捨て場に持っていく。同じように膨らんだ袋を持っている人がいる中、見知った顔を見つけた。

「飛島」

 重たそうに、二つの袋を持って、飛島がヨタヨタと歩いていた。

「あっ、どうも。先輩」

「一個持ってやるよ、貸して」

「キャッ、優しい。ポイント稼ぎ男~」

「やっぱ、止めた。筋トレだと思って頑張れ」

「うそうそっ!お願いします!」

 飛島から一個、ゴミ袋を受け取り、並んで歩く。ゴミ捨て場までは少し遠い。


「体調、大丈夫ですか?」

「平気だよ。元々大したことないんだし」

「やっぱり部活しましょうよ。健康に悪いですよ」

「僕は年寄りか、大げさなんだよ」

 ゴミ捨て場は多くの生徒がいた。先生が袋を外側からチェックし、きちんと分別ができているかどうか確認する。これに引っかかると、わざわざ袋を開けて、分別しなければならないから面倒だ。

 僕と飛島はなんとかクリアし、ゴミを捨てられた。


 掃除時間が終わり、授業が始まるまで10分といった時間帯、僕と飛島は校内にある自販機で飲み物を買い、ベンチで一息ついた。ちなみに、ここにはドーパミンサイダーはない。

「なんでないんだ…」

「人気無いからです」

 飛島は冷たく言った。飲んだのがトラウマなのだろう。あのおいしさを理解してもらえず残念だ。

「あんなの飲むの先輩だけですよ」

「そんなことはない、絶対他にも好きな人が…」

 そこまで言った時、なにかが、僕の記憶の中から顔をのぞかせた。だが、思い出せない。すぐに引っ込んでしまった。

「どうしたんですか?」

「いや、なんか最近、あのサイダーの愛飲者に会ったような気が」

「それは妄想ですよ、愛飲者は先輩だけ」

 飛島は一蹴して、リンゴジュースを飲み干し、立ち上がる。そのまま、数メートル先のゴミ箱に向かって、バスケのジャンプシュートのフォームで空き缶を放った。それは放物線を描き、綺麗にゴミ箱に吸い込まれていった。

「やった」

 小さくガッツポーズをして、ドヤ顔でこちらを振り向く。挑発じみた眼差しを向けてきた。次は僕の番ということだろう。

 僕はコーヒーを飲み干し、勢いよく立ち上がり、そのまま流れるような動きで、同じくジャンプシュートで空き缶を放る。

 飛島より少し高めのシュートは、ゴミ箱の淵に当たり、小気味よい音を出しながら、地面を転がった。

「フッ」

 鼻で笑われてしまった。大人しく空き缶を拾い、普通に捨てた。

 それと同時に予鈴が鳴り響いた。


「飛島、これってお前のだったりする?」

 そろそろ、お互いの教室に戻ろうかという時、僕は拾った熊のぬいぐるみの事を飛島に聞いてみた。飛島はそれを見た瞬間、怪訝な顔をした。

「はぁ?何言ってんですか。それ先輩のでしょ?」

「…僕の?」

 改めてぬいぐるみを見る。いや、僕にこんなファンシーな趣味はない。

「いや、違うけど」

「いやいや、先輩がこの間、自分のだ、って言ったじゃないですか」

 何言ってんだかといった感じで、飛島は自分の教室へ戻っていった。


 取り残された僕は、飛島の言葉を反復する。

 このぬいぐるみが僕の?いやそれは絶対に違う。まるで見覚えがない。

「見覚え…」

 ないのか?本当に?僕はこのぬいぐるみを今日初めて見たのか。そもそも、これを拾った時、なんでポケットに入れたんだ?教室の後ろにでも置いておけば良かったじゃないか。

 何か、何かが、僕の頭の奥深くに思いだせない何かが、ある。

 僕はこの数日、なにをしていた?代り映えしない毎日、変化のない日々を過ごしていた。そうだっただろうか。考えても、分からなかった。何か思い出そうとしてみるも、何を思い出せばいいんだ?

 もうすぐ、授業が始まる。モヤモヤを抱えたまま、僕は重い足取りで教室へ向かった。


 小さな水滴が窓を叩いた。次第にたくさんの水滴が窓を叩き始め、僕らに雨の訪れを知らせた。

「あっ、雨」

 誰かが言った。別に皆に報告したわけでもない。ただ、反射的に呟いたのだろう。声につられ、僕は窓の外をチラリと見て、雨を確認し、すぐ前を向いた。黒板に書かれた文字をひたすらノートに板書していく、頭には入っていない。先生が説明をしているが、僕の耳は聞き流していた。


 放課後になっても、雨は止まなかった。天気予報では降らないと言っていたが、外れたようだ。雨足は強くなる一方で、容赦なく降り注いだ。

 傘をさしている人も何人かいたが、腹を括って、雨の中走って帰る者もいた。

 その光景を廊下を歩きながら、窓から覗いていた。雨は当分止みそうにはない。ずぶ濡れになる覚悟を決めるべきかと思っていたが、

「傘、持ってきてたっけ?」

 ふとそんな気がした。少し前だっただろうか、傘を持ってきた、ような気がする。我ながらひどく記憶が曖昧だ。ほんの数日前だったと思うのだが。

 下駄箱に着き、備え付けの傘立てを見てみると、ボロボロのビニール傘が一本ささっているだけだった。なんだ、気のせいだったか。ほんの少し期待していたのだが。

 ボロのビニール傘を引っ張り上げてみる。骨は数本折れており、ビニール部分は広げなくても分かるほどの穴がいくつも開いていた。

「なんか見たことあるな」

 雨が降らなければ、自分の傘を持っていなければ、見向きもしなかったであろうこのビニール傘。自分のではないが、見たことがあった。いや、見たというよりかは、

「こんなこと、前にあったような…」


 雨足は強くなる一方で、ちょっと最近はなかったんじゃないかと思う降雨量だ。気温も下がってきて、肌寒くなってきた。おもむろにポケットに手を突っ込むと、昼間のぬいぐるみが指先に当たった。

 瞬間、何かが、頭をよぎった。じんわりと光景が広がる。見慣れた場所だ。誰かが目の前にいる。顔が分からない。ペンキをぶちまけたかのように、部分的な箇所が分からない。

 僕は下駄箱を後にし、階段をゆっくり登っていく。何故そうしたのか分からない。ただ、このまま帰ってはいけない。そんな気がした。

 雨は止まない。とうとう雷まで鳴りだした。轟音が響いた。


 自分の教室について、窓から中を覗く。誰かがいた。こちらに背を向け、窓際に立っている。僕は、扉を開けた。

 バリバリと豪快に雨が降る。どこかで雷が落ちている。そんなものは、まるで聞こえていないかのように、彼女は立っていた。


 転校したと告げられた、鉄炮塚 灯が、そこにいた。

 

「あっ、おんなじクラスだった、伊藤 陸斗君」

 彼女は振り返り、僕の姿を確認すると、少し微笑んでそう言った。

 雨の音も、風の音も、雷の音も、何も聞こえなくなった。彼女以外、全てが気にならなくなった。

「おんなじクラスだった…、鉄炮塚 灯さん…」

 お互い過去形だった。彼女は本当に転校するのだろう。その事実を再確認したかのように。

「どうしたの?帰らないの?」

 彼女はニコリと笑う。僕が記憶している鉄炮塚とは随分雰囲気が違う。柔らかいというか、クラスにいた時とは別人だった。

「いや、傘無くて…」

「そうなんだ」

 彼女は微笑んでいた。僕にはそれが少しこわばっているように見えた。


「転校…するんだよね」

「うん」

「短かったね」

「ちょっとしか通ってないからね」

「そう…だね」

 会話が続かない。そもそも、適当に話を切り上げて帰ればいいのだが、お互いそうはしなかった。

「座ってさ、お話しよ」

 彼女は自分の近くの席へ促した。僕は黙ってそこに座った。

「そ、そういえばさ、これ拾ったんだけど知らない?」

 会話の掴みに先のぬいぐるみを見せてみた。すると、鉄炮塚は驚いた顔で、

「探してたの…ありがとう…」

 少し泣きそうになりながらぬいぐるみを受け取った。

「そうなんだ。拾っといてよかった」

「これね、小さいころ、お母さんがくれたものなの」

 鉄炮塚は大事そうにそれをポケットに仕舞った。

「お母さん、どんな人なの?」

「うーん、優しかったかな?」

 鉄炮塚は少し困ったように笑った。聞いてはいけない話題だったろうか、というか他人様の家庭をずけずけと聞くのも無神経だった。

「ご、ごめん。あんまり聞かれたくなかった?」

「ううん。お母さんね、仕事が忙しいから私自身なんて相手にされないの。一緒にご飯だって、もうずっとない」

 鉄炮塚は窓の外を見つめ、寂しそうに言った。そんな彼女の横顔をなんだか初めて見た気がしない。


「伊藤君、陸上やってるでしょ?」

「え、いや…今は」

「私ね、伊藤君が出てた試合見に行ったことがあるの」

 うまく答えられない僕を余所に鉄炮塚はそう続けた。

「そう、なんだ」

 まさか盛大にこけた時じゃないだろうな。内心ビクビクした。

「その時は、伊藤君の事は知らなかったんだけどね。こっちに引っ越す前の話だし」

 この学校に転入する前、鉄炮塚は本土にいたという。この島には競技場なんてないので、試合は向こうで行う。それを見る機会があったのだろう。

「速かった。すごく。風を切るってああいうことなんだなって、思うくらい。ホントに凄かった」

 面と向かって言われると照れ臭いものがあるが、素直に嬉しかった。

「その時の私って、結構落ち込んでたんだけど…伊藤君の走り見てから私もがんばろうって、勝手に勇気もらっちゃった」

 彼女はまたニッコリと笑った。

「雨、弱くなってきたね」

 彼女の言葉を受け、窓の外に目をやると、あれほど激しかった雨はずいぶん収まっており、遠くのほうでは、薄い陽が差し込んでいた。


 鉄砲塚は、ゆっくりと教室のドアに向かって歩く。まるで、一歩一歩、何かを踏みしめているかのように。

「じゃあ、ね」

 振り返らず、鉄砲塚は教室を出た。

 

 このまま彼女を行かせてしまっていいのか?


 僕と彼女はそれほどの仲ではない。こんなに話したのだって今日が初めてだ。


 何もせず。またいつも通りの生活に戻るのか。


 転校するんだ。仕方ないじゃないか。


 さっきの彼女の横顔が見えなかったのか。


 …泣いていた。


「鉄砲塚っ!!」

 僕は教室を飛び出した。彼女が出ていきどれほどの時間が経ったのだろうか。廊下には、誰の姿もなかった。

 窓に駆け寄り下を覗く。鉄砲塚が車に乗り込もうとしていた。

「てっ…!」

 名前を口にしようとして、飲み込んだ。僕は今、何をやっているんだ。理由を説明できない。自分で自分がわからない。


 僕の声に気づいたのか、顔を見上げた鉄砲塚と目が合う。

 彼女は微笑み、ゆっくり手を振って、車に乗り込んだ。車はエンジン音を上げ、ゆっくり正門へ向かう。


 僕は動けなかった。窓を開けているため、桟にかけていた両手を小雨がしっとりと濡らした。

 さっきの彼女の姿が目に焼き付いて離れない。彼女の少し辛そうに見えた微笑みが、彼女が振る左手…

「左手…」

 ほんの数秒前に起きた映像を頭に呼び起こす。車に乗り込もうとする鉄砲塚。彼女が僕の方に振った左手は手を広げてはいなかった。


 曲げていた。小指と、薬指を。そして、中指を軽く折り曲げて。


「っ!!」

 何かに突き動かされたかのように僕は走り出した。階段を飛ぶように下り、昇降口を突っ切って外へ飛び出した。

 所々にできた水たまりを飛び越え、走る。上履きを雨水が浸食しても気にせず。走った。車はもう正門を出て行ったようだ。

「ハッ、ハッ、ハァッ!」

 腕を振り正門を走り抜ける。すぐに息が切れる。今までのツケが回ってきた。というかなんで僕は走っているんだ?今日は自分が変だ。説明できないことだらけだ。でも、僕は走っていた。車はもう随分遠くを走っており、やがて曲がり角で見えなくなった。

 たまらず膝に手をつき荒い息を整える。

「こん・・・なに、衰えたのかよ・・・」

 久しぶりにこんなに走った。フォームは覚えている。でも体が追いついていない感覚だ。コンディションは最悪。上履きは脱げて、僕の後方に転がっている。

 横っ腹を押さえて車が消えた先を見る。靴下は湿っていて不快だ。立ち尽くす僕に、雨が降り注ぐ。また雨足が強くなってきた。

「何か…、何かを忘れてるんだ…僕は…」

 でも、どうしても思い出せないんだ。

 頭の中に鉄砲塚の顔が浮かぶ。悲しそうな表情をしていた。胸がどうしようもなく締め付けられる。なんでだ。

 理由がわからずイラつく。それでも答えは出てこなかった。


 

「先輩…?」

 後ろで声がした。振り向くと、僕の脱げてしまった上履きを持った飛島が、心配そうな目で見つめていた。

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