探し物
言ってしまえば、トラウマである。県の陸上選手権。これを通過できればさらに上への大会へ行ける一戦。スタンドには各学校の生徒、保護者等で埋め尽くされ。それらの注目を集めるこの場に立っている自分に多少なりとも酔っていたのも事実だ。
場所は6レーン。悪くない位置だった。いよいよスタートとなった時、会場は静まりかえる。目線はゴールのみ、後はもう何も見えない。無意識に他のものは視界から除外する。隣の選手の呼吸すら煩わしく思えた。
スターターの声を聞き、スターティングブロックに足を掛ける。入念にチェックした部分だ。狂いはない。膝をつき、一度体を起こす。今一度ゴールを確認し、ラインに指を合わせる。自己ベスト、一着、狙えるものは全て狙う。そんな意気込みだった。掛け声に合わせ、腰を上げる。ピストルの音で一気に飛び出した。走りだしまでの流れは完璧だった。だが、その後だった。
30mほどだろうか、いよいよトップスピードにのるといった所で、ソレは起きた。
ハッキリと音が聞こえた。肉が離れる感覚が分かった。右足の太腿だ。次の瞬間、僕の右足はまるで、操作する者がいなくなったかのように言うことを聞かなくなった。ぐらつく体を懸命に支えようとする。しかし、今年一番の意気込みからのスピードだったのだ、勢いを抑えこむことができず、たまらず僕は転んだ。
スタンドからの同情のため息がやけに大きく聞こえた。各選手がゴールしていくのを這いつくばって不様に見ることしかできなかった。
結局、ゴールすら出来ずに抱えられトラックから引きずり出された。情けなさすぎて、涙すら出なかった。その後のことはよく覚えてないし、思い出したくもない。
人によっては、そんなことかと思うかもしれない。いつの間にか僕は、ブロックの蹴り方を忘れた。
試験期間が終了した。結果を見る前から落胆している者は少なくない。
僕は竜太と一緒に試験について話していた。
「あてが外れた…」
「ドンマイ」
軽く落ち込む僕に竜太は笑いながら肩を叩いてくる。
「お前いいよな。いつも高得点だし」
「そりゃあ、日々の努力の賜物よ」
竜太の成績はかなりいい。常に上位にいる。学年二位とか普通に取ったこともある。
「でも、自己採点じゃミスが目立っちまったからな。これは、勝てねぇな」
「勝つ?誰に?」
「鉄砲塚だよ」
そう言うと、竜太は帰る準備をする彼女を一瞥した。
「あいつ、小テストとかも満点だぜ?そうなると勝ちたくなるじゃん?」
「さぁ?分かんないけど」
レベルの違う話をしているので、到底ついていけない。
「…鉄砲塚ってさ、彼氏いんのかな?」
「えっ!?」
竜太の口から飛び出した言葉に僕は驚く。何故そんなことが気になるのか?いや、高校生なら普通なのか。
「まぁ、でもそういうの興味無さそうだよな」
「そ、そうだな」
竜太は知らない。というか、他の人も知らないだろう。彼女の素顔を。
「帰ろうぜ、今日まで部活なしだし」
「うん」
テストは午前で終わって、午後からは休みだ。皆、長い試験から開放されて早く帰りたいのだろう。
「あれ?」
竜太が声を上げた。視線の先を追うと、鉄炮塚がいた。まだ帰ってなかったのか、鞄の中を見つめたまま固まっていた。
「どうした?」
竜太が声を掛けると、彼女はビクリと体を震わせた。こちらがいたのに気づいてなかったようだ。
「な、なんでもないわ」
鉄炮塚は下を向き短く答えると、急いで鞄の口を閉じ足早に教室を去った。
「なんだ?あいつ」
一瞬しか彼女の表情は伺えなかったが、なんだか不安そうな顔をしていた。見たことのない表情だった。追いかけた方がいいのだろうか。
「陸斗ぉ。帰ろうぜ」
教室を出て顔を覗かせている竜太にせかされ、僕は心に少しの引っかかりを残したまま教室を出た。
昇降口で靴に履き替える。そこから校門まではさほど距離はない。ここから見える職員室の窓からの人影を横目に歩く。
ふと、視界の端に何かが写った。顔を向けると、鉄炮塚だった。辺りをキョロキョロしている。その表情は先程見せたあの不安そうな顔だった。
「陸斗?」
立ち止まった僕を不思議に思ったのか数メートル先で竜太が声を掛ける。
「…ごめん。忘れ物した。先に帰ってて」
「えっ?いいよ待ってるから」
「いや、どこに置いたか曖昧ですぐ見つかるか分かんないから。じゃあ、またっ!」
「あ、おいっ」
竜太の呼びかけを背に受けながら、僕は来た道を戻る。少々苦しい言い訳だっただろうか?怪しまれないようにさっさと校舎の中に入る。
竜太の姿が見えなくなったのを確認してから、小走りで鉄炮塚の元に向かった。
鉄炮塚は一階の自販機の辺りを中腰でキョロキョロとしていた。
「鉄炮塚?」
僕は彼女の後ろから声を掛けた。
「っ!…ってなんだ君か、びっくりした~。私の後ろを取るなんてやるね」
「そんな殺し屋みたいな…」
「もしそうなら伊藤くんの命はないね」
「そうじゃないことを祈るよ」
「どうしたのなんか用事?」
「いや、さっき教室で様子が変だったから」
僕がそう言うと鉄炮塚はバツが悪そうに笑った。
「あ、あはは…。バレちゃったか」
「なんか困りごと?」
「うん。ちょっとね、大事なモノ失くしちゃって」
彼女は落ち着きがなさそうに答えた。
「手伝うよ。何なくしたの?」
「えっ、いいよ別にっ。わざわざそんな...先に帰っててよ」
「でも、そんな不安そうな顔されたらほっとけないだろ。一緒に探すよ」
「うん…。ありがと」
早く見つけたいのか、割とすんなり折れてくれた。
「で?何を失くしたの?」
「えっ…と…」
鉄炮塚はわざとらしく視線を逸らす。まさか何を失くしたか分からないなんて言わないだろうな。歯切れ悪い彼女を見る。
「…笑わないでね?約束ね?」
彼女は恥ずかしそうに言った。これで彼女が左手の人差し指を向けてなかったら、中々にグッとくるシチュエーションではないだろうか。
「はい…。決して笑いません」
僕の人生の中で一番怖い口約束だった。銃口が開いていないので、さすがに冗談だろうが、間違っても彼女の心拍数を跳ね上げるようなことを口にはできない。
「く、熊の…ぬいぐるみ…」
「くま…」
拍子抜けというわけではないが、決して噴き出すような物でもなかった。銃口を突き付けられているからというわけでもなく。へぇといった感じだった。
「なっ、なに?笑いなさいよっ。笑えるもんならねっ!」
「わ、笑わないからっ。左手を下ろしてくれっ。イタタ…」
キョトンとしていた僕の顔が気に障ったのか、グイグイと頬を突く左手の人差し指から必死に顔を逸らしながら懇願した。暴発なんてされたらたまったものじゃない。
「ご、ごめんなさい」
少しして落ち着いた彼女は、バツが悪そうに左手を押さえながら謝った。
「別に変じゃないだろ。ぬいぐるみぐらい」
むしろ普通なのではないか。女子高生の流行にはとんと疎いが、ぬいぐるみの一つや二つ持っているだろう。
「だって、普段の学校での私のキャラじゃないし…」
確かに教室での鉄炮塚のことしか知らないクラスメイトなら、ギャップを感じてしまうだろう。
「可愛いもの好きなんだね」というセリフをグッと飲み込んだ。そんなことを言ってしまった時には彼女の左手が火を噴くだろう。
「さ、探すよ。特徴は?」
変な事を口走る前に、捜索にあたったほうがよさそうだ。
「手のひらサイズで、茶色」
短く答えた彼女は再び、地面を探し始めた。それに続き、僕も彼女から少し離れた場所で探す。
「どこら辺で落としたの?」
「多分、移動教室の時に…」
確かに今日は音楽の授業があった。僕らが今いる場所からすぐの所に音楽室はある。
「いつも持ち歩いてるの?」
「うん。なるべく持っていたいから」
なんだか寂しそうに彼女は答えた。
15分ほど経過しただろうか、中々見つからない。職員室で聞いてみたが、落し物では届いていなかった。ここら辺ではなく違う場所なのかもしれない。
時間が経つにつれ、鉄炮塚の顔はどんどん沈んでいった。よほど大事な物なのだろう。
それからしばらく経過した時、
「…伊藤くん。もういいよ。これ以上は悪いし」
「諦めるの?」
「ううん。後は一人で探すから、遅くなりそうだし。先に帰っててよ。迷惑かけられないし」
「そんな…」
「ホントにいいの。ありがとう」
鉄炮塚はそう言って再び探し始めた。ここらには無いと踏んだのか、違う場所へ移動していく。
ほんの少しだけ動くことができずに彼女を見つめていた。移動教室等でも持ち歩いていた物、遅い時間まで真剣な面持ちで探すほどの物。鉄炮塚にとって大切な物なのだろう。
「やっぱり一緒に探すよ」と彼女の後ろ姿に声を掛けようとした時だった。
「先輩?」
後ろから声がした。振り向くと飛島がジャージ姿で僕の方を見ていた。
以前の早朝散歩の際に遭遇した時と同じジャージだ。上は白で下は黒。明るめの青を基調としたランニングシューズを履いている。
「何してるんです?こんなとこで」
「お前こそなんでそんな恰好なんだよ」今日は部活はないはずだが。
すぐ近くには鉄炮塚がいる。チラリと見ると、彼女は黙々と探しているが、こちらを気にしているようで、なんだかいたたまれない気分だ。
「試験終わったから自主練習ですよ。やっと思い切り動けるんだからっ」
そう言って飛島はわざとらしく腕を大きく回した。
ふと、飛島の右手に目がいった。そこにはフェルト生地の小さな熊のぬいぐるみだった。頭から出ているストラップが飛島の指に引っかかっていた。
「あっ」
これじゃないか?そんな気持ちから思わず声を上げてしまった。チラリと鉄炮塚の方を見るとコクコクと頷いていた。これのようだ。
「ん?これですか?さっき拾ったんですよ。可愛いくないですか?」
ニコニコしながら飛島が見せてくる。手のひらサイズのぬいぐるみはずいぶんと古そうだった。
「ん…まぁ、そうだな」
ここはこのままやり過ごそう。この後飛島は職員室に落とし物として届けるだろう。その後に回収すればいい。フェリーの時間もちょうどいい具合に便がある。これで万事解決…、
「もらっちゃおうかな…」
「えっ!?」
ここらで一番大きい声が出てしまった。
「な、なんですか。びっくりしたなぁ」
「いやいや、もらっちゃおうかなってお前…」
僕は恐る恐るぬいぐるみを指さす。
「ダメですかぁ?生地とかもよれたりしてますよ?捨てたんじゃないですか?」
「し、しかしだな、落とした可能性も否めないだろ?」
「なんですかその口調…。ていうかなんか必死ですね?」
「い、いやそういう訳ではないぞ。僕は後輩が人の道を外れないようにだな…」
自分でも何を言ってんだかと思うが、それは鉄炮塚のものだ。この図々しい後輩に持っていかれるわけにはいかない。
「…」
飛島の視線が痛い。クソッ、こういう時は変に鋭くなる。単細胞のくせに。
「今、バカにしました?」
「気のせいだろ」
「でも、捨てられて可哀想ですよ。だからワタシみたいな可愛い人に拾われたほうがいいですよ」
可愛いかどうかは置いといて、この暴君をなんとか説得せねば。
「よし、百歩譲って捨てられていたとして、それを拾っていいのか?」
「どういう意味です?」
「…呪われてるかもしれないだろ」
鉄炮塚には後で謝っておこう。
「大丈夫ですよ。そういうの信じないんで」
クソッ、なんで今回に限ってこんなに手強いんだ。普段は結構騙されやすいくせに。
「バカにしたでしょ?」
「妄想だろ」
このままでは鉄炮塚に合わす顔がない。いい加減、飛島もしびれを切らすだろう。
「あの、ワタシ練習したいんですけど」
「まぁ、待て。確かにそれは生地もよれてお世辞にも綺麗とは言えない。ハッキリ言えば、ばっちぃものだ」
「ばっちぃて…」
「長く使ってきた人なら愛着も沸くだろうが、飛島はどうだ?はたしてそれを躊躇なく頬ずりできるほどの愛着が生まれるかな?」
「別に綺麗にすればいいじゃないですか。ワタシ裁縫得意だしぬいぐるみを直したこともありますよ」
クソッ、なんでそんなに手先が器用なんだ。部内のスポーツドリンクを作る時の配合は間違えるくせに。あれは濃かった。びっくりした。水分補給で喉が渇いた。
「バカにした」
「それはお前の心が弱いからそう思うのだ」
「もういいですよ。じゃあ、私練習しますから。先輩もやります?」
「いや、遠慮する」
「なんでそんな内気なんですか。怪我する前は練習きつくて頭おかしくなって『限界なんぞ超えてやる。はっはっはっ』って笑ってたのに」
「バカにしただろ?」
「はい」
なんて後輩だ。しかしもう説得も限界だ。飛島が練習に行ってしまう。
「じゃ、行きますから」
踵を返して飛島はグラウンドに向かう。ぬいぐるみが遠ざかっている。あれは鉄炮塚の物だ。彼女の様子からしてとても大切にしている。だからこそ、取り戻さねば。
「まっ、待て!飛島っ」
僕の声掛けに飛島は足を止めてめんどくさそうに振り返る。
「なんですか、しつこいな~」
「それは…そのぬいぐるみは…」
もうこの手しかない。
「僕のなんだっ!!!」
鉄炮塚のためにぬいぐるみ好きになろう。
「せ、先輩の…?」
「そうだ、言い出しづらかったがそれは僕のだ」
「先輩が…これを…」
飛島は震えている。もう顔がパンパンに膨れている。吹き出す寸前だ。
「プッ…せ、先輩が…くまの、ぬいぐるみ…。ブプッ…可愛らしくて…いいと思いますよ…。プヒュッ…」
僕は尊厳を守ったのだ、一人のクラスメイトの尊厳を。代わりに僕のメンタルはズタボロだ。過去には陸上選手としてメンタルのトレーニングもしてきたつもりだったが、これは想定外だった。
スターターの他にもう一つアダ名が追加されそうだ。
「じゃ、じゃあ…これ、お返ししますね、グッ…、アッ、アッハッハッハッ!」
最早笑いをこらえる気がない後輩からぬいぐるみをひったくり、僕は踵を返した。今は鏡を見たくない。
「ふーん。呪われてる、ねぇ」
「いや、その…。ハッ、ハハッ…」
なんとかぬいぐるみを取り返し、鉄炮塚の元に戻った僕の足元のすぐそばに一発、何かがめり込んだ。感謝の言葉でも向けられるかと思いきや、向けられたのは左手の人差し指だった。冷や汗をダラダラ流しながら、乾いた笑いが出た。
「ばっちぃ、ねぇ」
「あの、違うんだよ」
ていうか、思いっきり銃口開いてるんですけど。内緒にしてるんだよね?バレたらマズイんだよね?
ゆっくり、着実に歩を詰めてくる鉄炮塚。ホントに殺し屋なのかと思う凄みだ。シャレにならない。
「ご、ごめん!あの場合は仕方なくっ。飛島に持って行かれないように上手い方法が思いつかなくて…」
急いで頭を下げる。綺麗な直角を描いているだろう。
もっと機転が効いていたら、スマートに取り返せたかもしれない。ぬいぐるみ好きのレッテルを貼られることもなかっただろう。
「…」
つむじ辺りに指が当たる感覚があった。視界に映る地面に伸びる影。はたして僕はどうなるのだろうか。
「そいっ」
「いてっ」
パシンと頭にデコピンをされた。まぁまぁ痛い。頭をさすりながら顔を上げると、やれやれといった感じで彼女はこちらを見ていた。
「まぁ、君が必死になってくれたっていうのは分かったからいいよ」
柔らかな表情を浮かべ、手を下ろす彼女を見て安堵する。
「そ、それでさ…その、あいつの事なんだけど…」
「あいつ?」
「さっきの、飛島っていうんだ。同じの陸上部の後輩で」
「うん」
「あんなだけど、悪いやつじゃないんだ。だから、誤解しないでやってくれ」
「へぇ…」
ジトリと鉄炮塚は僕を見る。この目もなんだか少し怖い。
「庇ってあげるんだ」
「いや、庇うっていうか…」
「お気に入りなんだ?」
「そういう訳じゃ…」
えらくつつかれてしまう。まだ不機嫌なのだろうか。背筋に冷や汗がタラリと流れる。
「そこ」
「えっ」
「足元。ちょっと失礼」
そう言って彼女は僕の足元にしゃがみこみ、先ほど開いた穴をいじりだした。僕は後退り、その様子を見つめた。綺麗な髪だなんて思いながら。
「あった」
少しすると、彼女は立ち上がった。手には何かをつまんでいた。
「そ、それって…」
指先から第一関節までよりは少し短いぐらいで、先端は丸く尖っている。
弾だった。砂埃が付着しているそれは、彼女の指から出ているのだから当然なのだが、かなり細かった。
地面を見下ろす。鉄炮塚が埋めたのだろう。穴は塞がっており、そこだけ土色が濃くなっていた。
鉄炮塚灯の左手の人差し指からは弾丸が飛び出る。ガラスを容易く割ることができる。地面に穴を開けることができる。そして、見たことはないが、人を傷つけることができるのだろう。そんな人ではないともちろん思っているが、それは僕の勝手な願望だ。ニコリと笑う彼女の指から、そんな暴力的なものが飛び出してくるなんて、不釣り合いにもほどがあると思った。
なぜ鉄炮塚の左手は銃なのだろうか、なぜそんなことになってしまったのだろう。なぜこんなにも笑顔でいられるのだろう。その理由はきっと僕みたいには到底想像がつかなくて、それを知ることもできないのではないかと思ってしまった。なんだかそれが少し悔しかった。
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