小さくはない揺らぎ

 試験週間が始まると、部活動は一時的自粛となる。しかしそれは全体の話であり、個人での練習ともなれば学校側も別に止めはしない。まぁ支障の出ない範囲でやりなさいということだ。

 陸上部も例に漏れず、全体練習はないがもう少しで大会だ。試験発表から試験終了までの二週間、なにもしないというわけではない。各自、様々な場所で練習に励んでいることだろう。

 そして僕はというと、誰もいないグラウンドにジャージ姿で立っていた。足元にはスターティングブロックが置いてある。結局あの後、SNSにあげられた動画等でしっかり決勝まで見てしまった。日本記録こそ出なかったが白熱したレースだった。

 影響されたのだ。一時的なものかもしれないが。もしくは、鉄砲塚や飛島の言葉に背中を押され始めているのか。

 恐る恐る足を掛ける。自分に合うブロックの位置は忘れていない。ラインに指を合わせ腰を落とす。頭の中でスターターの声を思い浮かべる。セットまで響いた。あとはピストル音のみ...。


 だが、駆け出せなかった。足が震える。嫌な光景が頭を巡る。もたつきながら、ブロックから足を離した。今は試合ではない。隣には誰もいない。ここはオールウェザーのトラックでもないのだ。なのに、足がすくんだ。ただの練習、いや試走みたいなものだ。このグラウンドだって誰もいな...

「走らないの?」

「っ!?う、うわぁぁ」

 突然の声によろけてしまう。慌てて手をついた。

「て、鉄砲塚…?」

 見上げるとそこにいたのは鞄を肩にかけ、僕を心配そうに見下ろす鉄砲塚灯だった。

「あ、ごめんね。ビックリさせちゃった?」

「い、いや…」

 恥ずかしい姿を見られてしまった。情けない声も上げてしまった。僕は俯きながら、手についた砂をはらう。


「ど、どうしたの?わざわざこんなところに…」

 試験期間中である今、グラウンドに用はないはずだ。鉄砲塚がどこの部に所属しているか分からないが、外の部活ではおそらく見かけたことがない。

「帰ろうとしたら、伊藤くんが見えたから。走るのかな~って」

「そ、そうなんだ」

 僕はまだ少し赤面しながら、スターティングブロックを持ち上げる。

「もう帰るの?走らないの?」

「うん。もういいんだ、気の迷いってやつだよ」

 やはり無理だ。これでハッキリ分かった。僕には走れない。誰もいないグラウンドですらこんなざまだ。トボトボと倉庫へ向かう。


「ねぇ、じゃあ片付け終わったら、フェリー乗り場まで一緒に帰ろ?」

「う、うん」

 隣に並び、笑顔でそう言う彼女にドキッとしながら頷いた。


 フェリー乗り場までの慣れた道を二人で歩く。女の子と並んで帰るなど、恥ずかしい話だが小学校以来だった。

 鉄炮塚は今回は何も喋らない。いつも彼女の話題振りに頼り切っていた部分があったため、こちらも何も喋れなかった。

「試験勉強どう...?」

 沈黙に耐えられなくなり、当たり障りのない話題を振った。

「特に苦労してないよ。難しくないし」

「そう...」

 会話が終わった。我ながらつまらないコミュ力だ。もっと会話を続けさせなければと変な義務感に駆られるが、向かい風に軽く押された体のように言葉も抑え込まれてしまう。


「影響ってすごいよね」

「えっ」

 話題をなんとか絞り出そうとしている時にふと、彼女は言った。


「プロ野球やサッカー、格闘技とか、スポーツ以外でいったら歌手やアイドルをテレビで見ると、子供のころには自分もそうなりたいって思うよね」

「...」

「でも、年を重ねるにつれて、それは無理だと思い始めて、諦める人もいる。早めに見切りをつけて、自分にできることに挑戦する」

「...どういう事?」

「昨日の陸上の大会」

「...」

「トップの争いに君は影響された。だから今日、あの場所で走り出そうとした」

「子供っぽいって言いたいのか」

 少しむっとしながら僕は言う。

「捻くれるなぁ。純粋って捉えなよ。怖がっていた君に、あの試合は影響を与えてくれた。もう走らないって決めたのに」

「...なんで大して知り合ってもない君に、そんな風に言われなきゃならないんだよっ」

 少し、声を荒げてしまった。なにもかも見透かされているようでいい気分はしなかった。


「私は君とちゃんと話す前から、君を知っているよ」

「えっ?」

「さっきの影響の話だけど、私は伊藤陸斗に影響を受けたんだよ」

「僕に...?」

「そのおかげで、私は左手がこんな風になっていても、酷く落ち込んだりせずに過ごしてるもん」

 そう言いながら、鉄砲塚はヒラヒラと左手を振る。

「でも、今は奥の方で眠っているみたいだね」

 トン、と左手の人差し指で胸の中央を突かれる。一瞬冷や汗が出たが、彼女は人差し指のみを立てていた。

「そろそろ時間だね」

「う、うん」

 フェリー乗り場は見えてきている。時間もいい具合だが、距離的に考えると少し急いだほうが良さそうだ。

「私は乗らないから、ここでサヨナラだね」

「…うん」

 なんとも濃い帰り道だった。時間なんか全然気にも留めなかった。

「もし…」

 少し早足で向かおうとした僕の背中に鉄砲塚は声を掛ける。

「もし、どうしても伊藤陸斗が目を覚まさなかったら、私の銃で起きるか試してみるねっ!」

 僕にとっては随分物騒な言葉を残し、彼女は笑いながら手を振って自らの帰路につく。今日も車が迎えにくるのだろうか。

 アナウンスが聞こえてくる。またもや急いで受付に向かうことになってしまった。彼女に指された部分を指でなぞり、自らの単純さを恥ながら小走りで駆けた。



「誰なんですか?あの人?」

 重厚なエンジンの振動が座席まで伝わる。乗客を乗せたフェリーはゆっくりと港を離れ、本土へと向かう。所要時間は30分程だ。

「ねぇ、聞いてます?」

 客室内の乗客は少ない。試験期間中ともあって、皆早めに帰っているのだろう、学生はほとんどいなかった。

「無視しないでくださいよっ」

 広々と使える座席に腰を下ろし、フェリー内に備え付けてある自販機で買っておいた微糖の缶コーヒーのプルタブに手をかけ…

「そりゃっ!」

「いてぇっ!?」

 太ももを思いっきりつねられた。思わず缶コーヒーを落とす。開ける前でホントに良かった。ぶちまけるとこだった。

「なんだよっ」

 つねられた箇所をさすりながら、僕は隣に座っていた飛島をにらむ。

「無視した先輩が悪い」

「まったく、着くまで大人しくしてろよ。買ってやったジュースでも飲んでな」

「奢ってやったアピールなんて、人間の程度が知れますよ」

「たかってきた奴が何を言う」

「そんなことよりっ。さっきの女の人誰ですか?彼女ですか?」

「ちっ、違うよ」

 僕は落とした缶コーヒーを拾い、プルタブを開けて一気に喉に流し込む。

「なーんだ。ですよねぇ。先輩があんな綺麗な人を落とせるジゴロなわけないですもんね~」

 今時の女子高生はジゴロとか言うのか疑問だが。そうはっきり言われるとムカつくな。否定できないが。

「同じクラスってだけだよ」

「それがなんで一緒に帰ってるんですか」

「うるさいな。大体お前はなんでこんな時間なんだよ?部活もないのに」

「友達と試験勉強です」

「結構真面目なんだな」

「はい、話題変えない~。同じクラスってだけで一緒に帰らないですよ。普通」

「じゃあ今後は普通だと認識すればいい」

 ジト目で見てくる飛島を他所に、窓から見える景色に視線を移す。何度も見た景色がゆっくりと移ろっていく。


「先輩って彼女欲しいんです?」

「んグッ」

 飲んだコーヒーが気管に入った。ゲホゲホとむせていると。

「うわぁ…動揺しすぎ…軽く引きます」

「なんだ、いきなり」

 平静を保とうしたが、この後輩にはもう通用しないらしい。呆れ顔で見られていた。

「そりゃあ…欲しいさ」

「へぇ、そんなの興味ないアピールで格好つけるのかと思った」

 確かにそういう人もいるだろう。しかし、それよりも欲しいと思っていると公言していた方が高校生として健全なのではないだろうか。

「ふーん…」

 飛島はなにやら納得した様子で、小さいペットボトルのリンゴジュースを口に含む。

「なんだ、そっちから振っといてそれで終わりかよ」

「先輩が大人しくしてろと言ったので」

 揚げ足をとられてしまった。追及するのも格好悪いので、僕も黙ってコーヒーを飲んだ。冷たいのが心地よかった。

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