第4話 美しき宮殿長
一週間前のことである。
杏奈は、一人の男を殺してしまった。
殺すつもりなど、毛頭なかった。
逆に、相手に首を絞められ、命を奪われかけて。
咄嗟に近くにあったブロンズ像をつかんでふりまわしたところ、思いがけなく相手の頭にヒットして、男性は死んでしまったのだ。呆気なく。
だが、殺意がなくても、〈鏡の死〉は万人に等しく降りかかる。
それが、この世界の人間全員に掛けられている、月の女神の呪い。
死んでしまった男は、杏奈より一つ年上の十九歳だった。よって、杏奈は次の十九歳の誕生日、翠月十日の午前零時に、この世から消えることが決まってしまった。
翠月十日まで、あと二月とちょっと。
死を待つ間に、労役でも課されるのだろうか。
ぼんやりと杏奈は考える。
改めて罪状を突き付けられても、感情らしきものは湧いてこない。ここへ来るまでの一週間で、心の髄まで枯れ果ててしまった。もう喜怒哀楽を芽吹かせる気力もない。不毛の大地と同じで、空っ風がふくばかり。
書状を再び巻き直すと、中年男は左右に立つ男女を急かした。
「ほら、さっさと連れていかんか!」
さっきから、なにをそんなに急いでいるのだろう。
訝しく思ったそのとき、ふいに広間の外が騒がしくなった。
「……お待ちください!」
「そちらには人を近付けるなといわれております!」
なんだろう?
杏奈がふり返ったところへ、扉が開いた。
「お待ちを!」
まず見えたのは、誰かを押し留めようとする警備兵らしき男たちの背。
「はいはい。どいてね~」
制服の男たちを、若い男が薄笑いで蹴散らしていく。
その後ろから現れたのは、すらりと背の高い青年だった。
月の女神のお迎え……?
杏奈は目を瞬いた。一足飛びにあの世から鏡の死のお使い様が来たかと思うほど、麗しい顔立ちの青年だったのである。
でも、なんだか怒っているような……。
ブーロの裾をはためかせながらつかつかと歩いてくる青年は、射貫くような鋭い視線を広間の正面に向けている。
視線の先にいるのは、副宮殿長。
「なっ、なぜあなたが……」
睨まれた中年男は、焦ったような声を上げた。
「……なぜ?」
青年が低く問い返す。
美人の怒りの圧に、杏奈はよろめきながら後ろに下がった。すると、杏奈の目の前で青年がぴたりと足を止めた。副宮殿長を睨みつけたまま、怒りの冷気を発しつつ言い放つ。
「こちらこそ聞きたいな、クオカ。なぜ、こんな真夜中に、こそこそと入監手続きを行っている? 夜陰に紛れて、この娘をどこに隠そうとした?」
「そっ、それは……」
副宮殿長は一瞬怯んだものの、すぐに怒鳴り返した。
「あなたにいわれる筋合いはない!」
「いや、ある」
青年の声がぴしゃりと返す。
「昨日付けで、叔父は退任した。今日からこの私が、ここの宮殿長だ」
広間にいる人間が、一斉に息を呑む気配。
「宮殿長が……辞めた?」
呆けた声を発しながら、副宮殿長が青年を見る。
「宮殿長? あなたが?」
「そうだ」
青年は短く返して、ぐるりに首を巡らせた。
「ちょうどいい。広間には主要メンバー全員が揃っているようだから、いまこの場で、着任式代わりに挨拶をさせてもらう」
本日付けでここの長になったヒジリ=ロハンだ。
大広間に朗々と、青年の声が響き渡る。
「私の顔は見知っているだろうが……よろしく」
青年は思わせぶりな口調で結ぶと、杏奈のほうをちらりと見遣った。
「ということで、今後は私の指示に従ってもらおう。そこの娘は、私の管理下におく。手出しは一切無用だ」
「なにを勝手な!」
副宮殿長が吠えた。
「勝手はどちらだ?」
新しい宮殿長も、怒気を含んだ声で応酬する。
「おまえたちが、なにを思ってこんなことをしでかしたのか、私には想像もつかないが、これだけはいっておく。おまえたちは、死ぬほど後悔することになるだろう」
「若造が……!」
顔を歪めながら、副宮殿長が吐き捨てる。
「長になったからといって、従わせられると思うなよ」
「従わないなら、人事を刷新するまでだ」
「四乃宮を舐めるな。ここは、古参の人間しか知らぬ習わしだらけだ。我々を追いだせばどうなるか――」
「はーい、そこまでぇ」
角突き合わせる二人に、呑気な声が割って入った。
「副宮殿長、そんなに握り締めたら、書状がしわくちゃになってしまいます。こちらに渡してくださいね~」
宮殿長の補佐官らしき、若い男だ。
頭に血が上っている副宮殿長に近付いていて、ひょいと手から巻物を取り上げる。
「くっ……吠え面をかくなよ……!」
副宮殿長が、捨て台詞を残して立ち去ると、他の男女も、追いかけるように広間から出ていった。
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