第2話 杏奈の幸福な夢


 小さな衣擦れの音がして、広げていた本の前に影が差した。

 杏奈が顔を上げると、皴だらけのお面が覗き込んでいた。


 額から左右のこめかみにかけて、深く刻まれた皺。

 目尻から両頬に、左右対称に刻まれた皺。

 口の端から顎にかけても皺。


 けれど、それらはすべて笑い皺だ。目元口元も笑いの形にくり抜かれて、愉快そうに笑んでいる。


 好々爺のお面だぁ。


 杏奈はびっくり眼で、自分より頭一つ分背の高い相手を見上げた。

 皺だらけの面とは対照的に、首から下は、若さを感じさせる、すらりと引き締まった体つき。

 お面の額に貼りついている、兎の尻尾のような丸い眉毛と顎の山羊髭は白だが、面の後ろの髪は黒々としている。


 トマヤ国の住人かな?


 相手の恰好は、自分と同じ、前開きのボタンがついた裾長の上衣――「ブーロ」と呼ばれるワンピースに、細身の黒ズボンはトマヤ国の標準的な服装だ。

 だが、縁取りの豪華な刺繍といい、新緑のような淡い色目の柔らかそうな生地といい、標準的とは言い難い極上品。


 雲の上の人だ。


 いや、そんなことは分かり切っている。ここに来ている時点で、特権階級の人間なのだから。

 杏奈も、特権持ちの顔をしなければならないので、今日は一張羅のブーロでめかし込んできた。しかし、上等な服はここへ来るときにしか着ないため、服に着られている感が半端ない。


 こんなふうに、上品にさらっと着こなせたらなぁ。


 羨望の瞳で眺めていると、相手が面の奥で微笑んだ気配がした。


「これは、翁の面というんだ。老体の神を舞うときに付けたものだそうだよ」


 若者の声である。

 声を発した拍子に、弧を描く目元に光が通って、面の奥にある瞳がきらりと碧く光った。

「そちらは、初めて見る面だな」

 杏奈は急に恥ずかしくなって、ぱっと俯いた。

 自分が付けているのは、嘴の生えた、奇妙な鳥頭の面なのだ。

 強烈な印象のお面のほうが、杏奈の存在をあやふやにしてくれるよ、と渡されて仕方なく付けているけれど。年頃の娘に鳥頭のお面って、どうなのよ!

 心の中で鳥頭の面を用意してくれたバアバに文句をいいつつ、杏奈は答えた。


「こ、これは、迦楼羅、という昔々の神様で……」

「へえ、カルラ。面白い名前だね」


 よろしくカルラ、と青年が明るく挨拶する。面の名前で呼び合うのが、ここのルールなのだ。

 けど……うん、面白い、か……。

 青年は迦楼羅の響きを「面白い」と評したのだろうが、杏奈は鳥頭の面を面白いといわれたような気がして、ますます俯いてしまう。

 すると、青年が不思議なことをいった。


「これで、僕たちは面見知りだね」

「面……見知り?」

「ここで知り合った人間をそう呼ぶんだ。ここではお互いの顔を拝めないから」

 ここの利用者は、面で顔を隠すのが決まりだから。


「なら〈声聞知り〉でもいいかもね」

 思いついて、杏奈はいった。

「あなたの声はとってもいい声だから。翁の面よりずっと、記憶に残りそう」

「いや、記憶に残るのは不味い……」

 青年は面の奥で苦笑したようだったが、

「しかし……〈声聞知り〉か」

 すぐに、感心したふうに呟いた。

「カルラの声も心に残るね。ちょっとハスキーヴォイスで」

「酒焼けじゃないからね」

 面の内側で、杏奈は顔をしかめた。

「これは昔、ちょっと火事の煙で喉が焼けちゃって……」

 こんな声でも、まだ花も恥じらう十六歳なのだ。

「っ、すまない。気を悪く――」

「いいの。ハスキーヴォイスに聞こえるなら、それも悪くないわ」

 それより、と杏奈は強引に話題を変えた。

「翁は、いくつくらいの言語が読めるの?」

「僕は――…十くらいかな。根っこが同じ大陸言語ばかりだけれど」

「私も十くらいよ。でも島言語ばかり」

「尊敬するよ。僕は、島言語はまったく――」


 ――と、別の声に遮られ、翁の笑みと声が、不意に遠ざかった。



「――起きろ。出発の時間だ」

 

 出発?

 起きろ……?

 何度か言葉を反芻し、ようやく頭が覚醒し始める。

 瞼を上げ、自分を覗き込んでいる制服の男を見て、ようやく自分がおかれている状況を思いだした。


 ……ああ、夢を見ていたのか。


 十六歳から十七歳まで、一年間だけ通った秘密の文庫の、幸せな夢。

 運が良ければ、一カ月に二、三度、彼に会えた。

 声しか知らない、〈声聞知り〉の彼に。

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