第6話 彼女が好きなワケ

 私は俗に言う天才らしかった。テレビでは天才子役と囃し立てられ、学校のみんなも私をそういう存在として見るようになった。


 私はそれが嫌だった。私は多少人より飲み込みが速いとは自負しているけど、天才と言われるほど突出した人間じゃない。そんな私にとって「天才」と呼ばれる重圧はあまりにも重すぎた。


 くらりくらりと視界が揺れる。ボロボロと足場が消えていき、今どこを歩いているのかさえわからない。


『さすがだ!』

『海香ちゃんは天才だ!』

『将来は絶対に大物になるね!』


 周りの大人はみんなそんな言葉を並べる。私を天才だと、将来は約束されていると、そんなことばかり。


 違う。私が欲しいのはそんな言葉じゃない。


 大人の過度な期待に応えるために、私はいつからか演劇の楽しさを忘れていった。


 主役に選ばれるのは嬉しいはずなのに、ただ仕事が増えて面倒だと思うようになった。キラキラした衣装を着るのはワクワクするはずなのに、私の背負っている重圧の象徴しているかのようなそれは燻んで見えた。


 みんなの期待に応えるために無理をして、よく知らない人の機嫌をとるために偽物の笑顔を貼り付けて、自分の体と心を傷つけて、私は一体何がしたいのだろうか。


 私が傷つく意味はなんなの?


 お金のため?違う。こんなに苦しくなるなら普通の生活でいい。


 女優として大成したいから?違う。こんなに無理してまで演技をするほど私は演劇にのめり込んでない。


 みんなの期待に応えたいから?違う。知らない人の笑顔を見ても私はちっとも満たされない。


 わからない。なんにもわからないよ。


 あぁ、消えたいな。


 ○○○


 あの日は酷い雨だった。暗雲の奥で雷が喉を鳴らし、降り注ぐ雫は世界を黒く澱んだ世界に塗り替えている。それから身を守る術を持たない私は中学校の正面玄関で途方に暮れていた。


 今はまだお父さんもお母さんも仕事中だ。連絡する手段はあるけれど迷惑はかけられない。一つ深くため息をついて、私が澱んだ世界に足を踏み入れようとした時だった。


「ちょっと!なにやってんの!」


 卯月が私の手を掴んだ。


「なに」


 折角踏み出した足を引き戻されて苛ついた私は、煩わしい彼女の手を振り払おうとした。けれど彼女は離してくれなくて、困惑したような顔でこう言った。


「なにって、傘もささずこんな土砂降りのなか帰ろうとするの見たら止めるでしょ」

「だって、傘無いし」


 私の現状を伝えると、卯月は呆れたようにため息をついた。そしてピンクの傘を広げて私をその中に引き入れた。


「困ってるなら頼ってよ」


 その言葉に私は何も返せなかった。でも、さっきまで冷え切っていたはずの体が少し暖かくなった気がした。


 私と卯月の家は同じ方角だ。私の家の方が学校から近いし、卯月にとって私を傘に入れて帰るのには何ら不都合は無い。けれどあの日の帰り道は、いつもと少し違っていた。


「ねぇ、道違うよ」

「うん。ちょっと寄り道しようかなって」

「こんな雨の日に?」

「今の海香に必要なことだから。それと……」


 卯月は私の肩を掴んで引き寄せた。


「遠慮しないでもっと寄っていいよ。風邪ひいたら大変だし」


 そう語りながら、車道側を歩く彼女の肩は濡れていた。


 道中特に会話もなく私たちがたどり着いたのは河川敷だった。いつもは静かに流れる川は、大雨のせいで凶暴な龍に変身していた。この龍に攫われないように学校ではここに近づかないよう厳しく言われている。


「こんな所来たら危ないよ」


 目の前で唸る龍は普通なら怖いはずなのに、何故か今はひどく綺麗だと感じた。それを隠して、彼女に一般論を告げる。


「……ねぇ、覚えてる?」


 私の警告を無視して、彼女は唸り狂う龍を見つめながら語り始めた。


「劇団にいた頃さ、よくここで練習したよね」

「うん。馬鹿みたいに大きな声張り上げて、大袈裟に振り付けして。今思えば幼稚な劇だったね」

「でも、楽しかったでしょ」


 楽しい思い出を振り返る声じゃない、優しい彼女とは思えないくらい低い声。何かを問い詰めるように卯月は私をじっと見つめていた。


「海香は劇をしてる時はずっと楽しそうだった。プロになった後も脇役だったとしても楽しそうに、全力で役を演じてた。それなのに……もう何ヶ月も海香の笑顔を見てないよ」


 卯月は泣いていた。なんで私のことで彼女が泣くのか分からなかった。卯月の気持ちなんか分かっていなかった筈なのに、いつの間にか私の頬には熱い雫が伝っていた。


「私は海香のためならなんだってやるよ」


 優しく抱き寄せられて、歪んだ視界は真っ暗になった。雨の音も唸る龍の声もあるはずなのに、都合のいいこの耳は卯月の声だけを拾って私に伝えていた。


「ズル休みしたいなら、今すぐこの傘を手放して一緒に風邪をひいてあげる。勉強がわからないなら、一緒に家に帰ってわかるまで教えてあげる。甘いお菓子が欲しいなら、私のお小遣い全部使って買ってあげる」


 大人たちの上っ面だけの言葉には決して届かない心の奥を、卯月はいとも簡単に触れてしまえる。そっと優しく撫でられて、私の心はドロドロと溶けていく。


「この世界から消えたいなら、一緒にこの川に飛び込んであげる」


 あぁ、やっぱり私の考えてることなんて分かっちゃうんだ。ひどく魅力的なその言葉を、私は危うく受け取りそうになってしまった。


 けれど、優しく私を包む彼女の温度をずっと感じていたいと思ってしまった。冷たい闇の底に沈んでしまったら、この温度はもう感じられない。だから、私はこの温度を手放さない願いを彼女に伝えた。


「ずっと私を見てて」


 彼女の胸に押し付けていた顔を上げて、まだ安定しない視界の中で想いを伝える。


「ドラマの何の役になったのかも、出演の決まったテレビ番組も、ラジオのゲスト出演も、雑誌でインタビューを受けたことも、私が居る場所は全部伝える。だから、全部の私を見てて。そしたらきっと、また笑えるようになるから」


 世界の全てを拒絶していた私にこんな願いを抱かせるなんて。気持ち悪いかな、重いかな、そんな不安を抱きながら私は彼女の返事を待った。


「世界のどこにいたって、私は海香を見てるよ」


 卯月はこともなげにそんな事を言ってのけた。それがたまらなく嬉しくなって、ずっと抑え込んでいた私の気持ちは決壊した。声を上げて泣き崩れる私を卯月は優しく包み込んで、降りつける冷たい雫から守ってくれた。


 雨はまだ止まない。でも、芯まで凍りついてボロボロだった体は、今確かに優しい温度に包まれている。これが救いでなくてなんと言うのだろう。


 卯月は誰よりも私に優しくて、誰よりも私のことを大切にしてくれて、誰よりも私のことを理解してくれる。


 そんな卯月が私は大好きなんだ。

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