件名:ケンへ


 ケン、元気? おれのこと覚えてる?

 忘れてるかな。もう九年も経ってるもんな。


 幸輔です。

 おまえさえよければ、また話したい。

 もし忘れてたら、このメールは無視していいよ。

 返信待ってます。




 迷惑メールか?

 それなら宛名の明記は避けるのが一般的な気がする。メールアドレスと本名が紐づいている可能性がないわけじゃないが、だとしたって「ケンへ」はいくらなんでもピンポイントすぎる。話すことが目的なら、LINEでしゃべりたいとかなんとか言って、あやしいURLに誘導するもんなんじゃないのか、ふつう。ふつう? 迷惑メールのふつうってなんだ。

 もしかしたら、このメールの送り主はほんとうに幸輔なのかもしれない。記号が少なくて感情が読みにくいところや改行のリズム、「忘れてたら無視していいよ」という気のつかい方がいかにも幸輔らしかった。九年という期間も一致している。それにこの少年のような口ぶりも。

 そういえば、おれが好きだと告げたときもこうだった。「じゃあ、付き合ってみますか」と、半音上がりそうなところにハテナもなくて、落ち着いているのか緊張しているのかわからなくなった。それでいて、あとから「緊張した」と脱力する。たしかにあいつはそういうやつだった。

 幸輔かもしれない。でも、もし違ったら? もう昔のような体力がない。真っ白な部屋でただ待つばかりだったころを思い出した。九年間、ずっと埋まることのなかった空き部屋だ。なにかを抱えるほど無意味さに圧し潰され、それでも手放すことができなかった。神聖なデッドスペース。幸輔がいないなら、もうあの部屋に意味はない。

 ホンモノだと証明してもらう必要がある。そんなことが可能だろうか。証明してもらったことなんか一度だってない。そもそもなにをどうしたら証明できたことになるのかわからない。ただの文字でしかない幸輔が、ほかのメールやネット上の記事とは違うのだと裏づける決定的な証拠ってなんだ。

 少し考えて、「おれのハンドルネームは?」とだけ送った。ホンモノの幸輔なら知らないわけがない。

 送ってしまってからすぐに後悔した。また時間が過ぎるのを待っている。無意識に白い部屋の壁を探していた。乱暴にまとめられたゴミ袋、濡れた床、反射する蛍光灯の光。向こうの壁にはカレンダーがかかっていて、その上には時計があった。十四時二十分。

 平日の真っ昼間から部屋に閉じこもり、パソコンの画面を見つめている。だからありもしない部屋でありもしないソファに腰かけ、ありもしない扉が開くのを待ち続けているそいつは現実じゃなかった。そうやっておれはたびたび境界を見失う。だから会ってもないネット上の男に本気で熱を上げることだってできたし、その結果がこのザマだ。

 おれが妄想によって作り上げてしまった虚構のおれは、愚かにもそれを現実だと思い込んでさみしさを正当化した。いい加減バカなことはやめてくれ。いや、やめられないからこそ死ぬしかなかったのか。来月おれはめでたく三十歳の仲間入りをする。さすがにもうきついと思った。

 そうして二十分は問答していた。で、メールの受信を知らせるポップアップが画面の右下に表示されて、……いや、もしかしたらそれも嘘かもしれない。おそるおそるメールを開くと、返信には答えだけが簡潔に記されていた。


「いもけんぴ。おれはカニカマ」


 ……当たってる。

 九年ぶりの幸輔のメールだった。

 おれはすっかり嬉しくなって、矢継ぎ早に質問を送った。

「出会った場所は」

「**チャット。さっき見たら閉鎖してたな」

「まじか。家族構成は?」

「おれの? 妹がいる。あとオヤジ。ケンは弟さんがいるんだっけ?」

「まあ、正解」

 あまり詳しく訊いたことなかったけど、母親を並べなかったのにはワケがあるんだろう。それも意外ではなかった。

「記念日は」

「ゴガツジューロク」

「なんでカタコト?」

「なんとなく」

「今なにしてんの?」

「おまえとメールしてる」

「そういう意味じゃない」

 テンポよく続いていたラリーがそこで途切れた。すうっと血が引いていくのがわかる。

 無意識にキーボードを叩いていた。「ごめん、話したくなければ答えなくていい」、そこまで打ち込んで、あの部屋の冷たい静けさを思い出す。誰もいないチャットルームを繰り返しページ更新していた。いくら待っても幸輔は帰ってこなかった。見えない相手に必死になって、そんなのは無意味だ、なにひとつ届かないのに。

 返事は十分ほど経ってから届いた。

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