インターネット・ボトルシップの幽霊
染よだか
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身辺を整理することにした。ふつうに生きることができないから死ぬので、見られたくないものはたくさんある。
七畳一間はある程度片づけ、冬服や毛布なんかも処分した。六月の誕生日で三十を迎えるそれまでに、一般的な三十路男性としてふさわしくないであろうものはすべてなかったことにしたかった。一か月の準備期間を生きるだけのものがあればいい。それ以外のものはすべて捨てた。
動画や画像のコレクション、お気に入り登録しているAVサイト、ゲイ専用の出会い系、待ち合わせ掲示板もろもろ全部。おれの秘密はパソコンとスマホの中で完結しているから、消すのはずいぶん楽だと思う。めんどうなのはサイトの退会手続きくらいだけど、それもたいした量じゃない。フリーメールで登録した分はアドレスごと抹消すればいいし、それもわざわざする必要もないのかもしれないが、ずっと残っているのも気味が悪いのでまとめて捨てることにした。中学のころやっていたブログなんか、かれこれ十五年近く放置している。たいして閲覧数も伸びないまま無色透明に漂う幽霊船だ。そういう船はネットの海にごまんと転がっている。
パソコンを立ち上げてフリーメールのアカウントにログインすると、久しぶりに開いたメールボックスには一万件以上の未読メールが並んでいた。27509件、そのほとんどが迷惑メールかメルマガのたぐいで、これが貯金箱だったらよかったのにと思う。
このアドレスを知っているのは過去にファイルのやり取りがあった数人だけで、ほとんどはサイトの登録用として使っていた。だから誰かの気まぐれを期待していたわけじゃないが、捨てる前に件名だけは目を通しておこうと思った。と言っても、ただなんとなく眺めるだけだ。大掃除の途中で捨てるつもりの雑誌をつい読み返してしまうみたいなこと。
最近の迷惑メールはバリエーションがすごい。「お急ぎください! 一千万円の受取期限が間もなく……」とか「ハルさんがあなたにいいねを送りました♪詳細は……」とか、金とムラムラを持て余した変人が大半だったが、人づてに連絡先を知った高校の同級生やメル友を作りたい芸能人など、設定が特殊なものもときどきあった。こんなの誰が引っかるんだ? 省略された件名の羅列をスクロールしているうちに安酒で酔い潰れているような気分になった。下心が駅前のポケットティッシュよろしくばらまかれている。先週の合コンでもそうだった。
「健司くんって真面目だよね」
「いや、そういうやつが実はムッツリだったりすんだよ」
「ええ~、そんなことないよねえ?」
やけに距離感の近い女が返答を求めてきて、反射的にかわいた笑いが出た。先輩はそれを肯定と捉えたようで、
「ほらやっぱり。健司、おまえも男だもんなあ!」
と、太い腕で肩を抱いてきた。アルコールと汗が混ざりあった酸っぱいにおいが鼻をかすめて、正直めちゃくちゃくらっと来た。先輩が飯行こうと言うからついてきたのだ。合コンだとわかっていれば来なかった。
女に興味がなくても性欲はある。先輩は手が大きくて筋肉質だし、おれよりもガタイがいいからものすごくタイプだった。べつに付き合いたいとか夢みたいなことは思わない。見ているだけでよかった。おれは妄想の世界である程度満足できるし、そのせいか現実の世界は刺激がつよすぎる。
そういうわけだから、「ユミです☆わたしとエッチしませんか?」的な誘い文句もおれにはさっぱり響かなかった。だいたい、どこで個人情報が流出したのかは知らないが、もうちょっとおれの好みに合わせてくれたっていいと思う。「タイキです☆ちんぽしゃぶります!」だったら引っかかったか? いや、ないか。記号を多用するやつとは趣味が合わない。
妄想力がたくましすぎるためか、文体に恋をする。やっぱり健全に恋愛ができないと性癖が歪むんだろう。ディスプレイに映る活字から声が聞こえる。昔ネット上で恋愛のまねごとをしていたのがかなり効いた。中三の終わりからはじめて、高二で完全にハマった。そのころ付き合った男とは四年続いたが、まねごとはどこまで行ってもまねごとのまま、結局のところ片想いだ。
男はおれの二つ上、カニカマというハンドルネームで、本名は幸輔といった。都内に住むバンドマン。おそらく家庭になんらかの闇があって、でも詳細は最後まで明かさなかった。年の離れた妹がいる。レーズンとかドライフルーツとかの干しもの系が苦手で、それ以外はだいたい好きだと言った。誕生日は十二月八日。漫画は好きだがアニメは観ない。幸輔について知っていることは、これで全部だ。
通っていたチャットルームで知り合ってからというもの、おれはいつも幸輔を待っていた。チャットはリアルタイムで同じサイトにアクセスしている相手としかやり取りできない。一回一回のエンカウントが奇跡のように思えた。「カニカマさんが入室しました」という自動メッセージの履歴からよく浮上している時間帯を割り出し、先回りで待機したこともある。待ってます感を露骨に出すと恥ずかしいから、「なんとなく来ました」というていを装うのに苦心した。今思えばいじらしい努力だ。
何度か二人で話すうちにメールを交わすようになり、どういうわけかは忘れたが、とにかく付き合うことになった。薄っぺらな仮想現実では性別の概念が希薄になる。幸輔はきっと、おれが男でも女でもよかったんだろう。どうせ会うことはない、声だって知らない。おれたちの関係は二進数の世界で完結していて、メールとチャットで交わされるただの文字が、おれたちの声で肉体で世界だった。でもおれたちはそのとき、たしかにそこに存在していた。この世のどこでもない真っ白な部屋だった。
もう九年も前になる。幸輔のメールが突然途絶え、チャットにも現れなくなった。おれは白い部屋でずっと待った。毎日。おかげで単位は全部落っことしたが、幸輔が戻ることは最後までなかった。実際に会うことも、顔を見ることも、声を聞くことすらないまま、それでも四年間続いてきたはずだった。なんかもうすべてどうでもいいような気がして、大学を辞めた。二年生の秋だった。
こんなこと、今ごろ思い出したって遅すぎる。おれの九年はどうしようもないくらいに長かった。つまんねえ大人になってつまんねえ仕事して、どうにかこうにか忘れようともがく日々だ。こじらせている。もう一度すべて投げ出してしまおうと思い立ったところだった。二か月前の日付。どうして今さら。
「ケン、元気? おれのこと覚えてる?」
幸輔からメールが届いていた。
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