第二章 サトリの里
第43話 誰もが嫌がる仕事の依頼
雨蛙の合唱が聞こえる。
大地を濡らす恵みの雨は、夏の気配を孕み、ジメジメとした暑さを編集室にも運んでいた。
梅雨明けが例年通り七月の半ばだとすれば、あとひと月弱はこの湿った空気にさらされることになる。
「いやねえ、梅雨って」
Tシャツにタイトスカート姿の刹那が、パタパタと扇子を仰いでいる。
「そうですねえ」
マイケルのワイシャツもいつの間にか半袖になっていた。ジーンズも足首が見えるくらいの、丈の短いものに変わっている。
この二人が並んで仕事をしていると、ここだけ人間の大学生がバイトをしているようにも見えるな、と佐和子は思った。
「ほら、編集長もやる気をなくしてる」
刹那の視線の先を辿れば、机の上で潰れている永徳が目に入った。
「……本当だね」
佐和子は困った顔をしながら永徳の様子を伺う。
人間生活時代、自分のせいで同僚を過労死させてしまったと思っている彼が、編集部員に無理をさせないようにああしているのはわかっている。だがこうして観察していると、サボるのが癖になってしまっているような節もある。
「編集長がああして潰れているのは、季節関係なくいつものことですけどね。本格的に夏になったらきっと溶けますね」
マイケルがそう言えば、刹那が頷く。
「実際溶けてるものね」
残念なものを見るように刹那は永徳に視線をやる。
「溶けているっていうか、どこかに消えて戻って来ませんね」
マイケルは苦笑しながら、資料の整頓を始めた。
「まあ、連絡すれば必ず現れるし、奇跡のように仕事は遅れないから、いいんだけど」
佐和子は二人の会話を聞きながら自席を立った。
「おや、葵さんおでかけですか」
「あ、米村さんお疲れ様です」
佐和子が玄関で靴を履いていると、掃除を終えたらしき米村がやってきた。腰をトントン片手で叩いている様子を見ると、慢性的に痛むのだろう。
「……米村さん、なんだか痩せました?」
「そうですねえ。ここ最近暑いですから。それでちょっと食欲がなくて」
「あまり、無理しないでくださいね」
「ふふふ、そうですね。もう年も年ですから、体調には気を付けるようにします」
微笑む米村に軽く会釈をし、佐和子は出かける。今日は人間世界のレジャースポットを巡る第二弾の取材先候補の下見に行くのだ。
◇◇◇
「編集長、編集長ったら!」
耳元で大きな声で叫ばれ、永徳は飛び起きた。
「……刹那。首を極限まで近づけて叫ぶのはやめてくれと、何度も言ってるじゃないか」
「普通に起こすんじゃなかなか起きないからこうしてるんですよ!」
「で、用件はなんだい?」
「取材依頼が来たんです。ほら」
電話問い合わせのメモ紙を刹那から手渡され、内容を読んだあと。永徳はちょっと嫌そうな顔をした。
「……これ、刹那行ってくれる?」
「嫌だから編集長のところへ持って来たんです」
「えええ。まあ、内容は面白そうだし、うちの媒体としてはぜひ取り上げたい内容ではあるけど……宗太郎! これ、君行けない?」
「どれどれ」
宗太郎は永徳の席までやってきて、取材内容の紙を覗き込む。
「パスだな。つーか、オンライン取材じゃダメなのか?」
断られるのは想定内だったのか、永徳は、だよねえ、と言いながら頭を掻く。
「オンラインだと制約が多いからねえ。こう、臨場感が出ないじゃない? 具体的な取り組みの内容は書かれてないけど、コンテンツ的に写真も欲しいじゃないか」
「ライターを頼めばいいだろ」
「これ、行ってくれるライター、いると思う?」
永徳が苦笑して見せれば、宗太郎は鼻を鳴らす。
「いねえな」
「そうだろう」
「オンラインならやってもいいけどなあ〜」
そう言いながら、宗太郎も甲羅を向けて去っていく。
「編集長が佐和子と行けばいいじゃないですか。ほら、あの子ここ最近、あやかし界隈への取材行ってなかったし」
刹那はそう言ったあと、何かに気づいたように永徳の机に手を伸ばす。
「あら編集長、なにこれ」
「あっ、ちょっと! それは……」
書類の下敷きになっていた本を、永徳が隠す前に素早く刹那が抜き取った。表紙を見た彼女は、面白いものを見つけたとばかりにニヤニヤと笑う。
「やっぱり、佐和子と行ったほうがいいですよ。今のままよりは進展があるかも」
「大きく後退する可能性もあるじゃないか」
「まあそれは、編集長の心の持ちよう次第ですねえ」
手に持っていた本を、刹那は永徳に返す。
「ふ、でも編集長、一応気にしてたんですね」
「そりゃあ、葵さんからも、刹那からも言われればね」
「佐和子にも言われてたんですか。そりゃあ、ちょっと気をつけたほうがいいかも」
呆れ顔を向けられた永徳は、子どものように不貞腐れた顔をする。
「だから最近は、仕事中の発言に気をつけているよ」
刹那は一瞬真顔になったかと思うと、ぶっと吹き出した。
「あらあら、本当に本気なのねえ。うまくいくことを願ってるわ」
永徳が、机の引き出しに隠したその本は、太字のフォントでデカデカとこう銘打たれていた。『わかりやすい! セクシャルハラスメント対策講座』と。
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