第42話 雨上がる

 それ以降の春原は、少し肩の力が抜けたようだった。


 相変わらずおどおどしているが、まずは編集部の資料の整理から、シュレッダーかけ、掃除など、体調と相談しながら単調作業こなしていた。


 一週間も過ぎれば、すっかり顔色もよくなり、刹那やマイケルとは軽く雑談ができるようになっている。その変化を見ていると、佐和子の心もじんわりと温まった。


「あの、葵さん……誤字脱字チェックを頼まれていた記事、お返しします……」


「ありがとう、春原くん」


 春原から送られてきた原稿に目を通す。あやかし瓦版では、記事は書いた本人ではない編集部員にもチェックしてもらうようになっている。ただ、それでもたまに誤字脱字が発生するので、今回は原稿チェックに回す前に春原にも見てもらったのだ。


「すごいね……これ」


「え、そうですか」


 佐和子は原稿を見て驚いた。誤字脱字の修正はもちろんなのだが、誤用の修正箇所には丁寧に解説が付けられ、その出典まで明記されている。修正案まで示されており、直す側がやりやすいように配慮されていた。


「とっても助かる! 笹野屋さん、見てください、これ」


 近くを歩いていた永徳を呼び止め、佐和子は原稿を見せる。


「おやおや、これはありがたいねえ」


 永徳は頷きながら目を細め、嬉しそうに佐和子のパソコンを覗き込む。


「なんだなんだ、オイラにも見せてくれ」


「え、なによ、どうしたのよ」


 蒼司と刹那も加わると、春原の細かいチェックに目を丸くした。


「あやかしじゃあこうはいかねえな」


「そうね、この仕事は人間の細かさだわ」


 春原は頬を染め、俯いている。どういう表情をしたら良いかわからない様子で、しかし、喜んでいる様子だった。


 その日の午後以降、あやかしたちから春原への原稿チェックが急増した。


 人間に比べるとズボラなあやかしたちは、そもそもこうした細かい仕事が苦手だった。しかし報道機関の端くれであるので、文章の正確性には注意を払わねばならない。そこへ現れた新星春原は、たちまちあやかしたちからありがたがられる存在となった。


「春原くん、大変じゃない? 結構な量きているけど……」


 それから一週間も経てば、あやかしたちの間では原稿はまず「春原チェック」が通例となっていた。


「大丈夫です。優先度順にチェックしてますし、無理な量は受けないようにしていますから」


 少し前まで今にも消えてしまいそうだった彼の頬には血が通っている。嬉しそうに働く彼の姿は眩しくて。佐和子も仕事への活力をもらえる。


「……僕、辞書が好きで」


「辞書?」


「はい、昔から言葉の意味を調べるのが好きだったんです。小説とか読む時は、いつも横に辞書を置いていて」


「そうだったんだ」


「だから、こうやって、文章と向き合って。書き手の皆さんの手助けをできる仕事は、とても好きです。皆さんにも喜んでいただけますし」


「そっか」


 好きな仕事をしている春原の笑顔は、とても輝いていた。彼のきめ細かさは、言葉への愛情と他者への思いやりのなせる技。永徳と話さなければ、彼のこの良さを引き出してあげることはできなかった。


 微笑ましい気持ちで彼を見ていれば、まるで滝の中に入ったかのような激しい水の音がして驚いた。


「……雨?」


「すごい音ですね」


 今日の夕方は皆仕事で出ていて、佐和子と春原しか残っていなかった。二人は縁側の方へ出て外を見る。


「庭園が全然見えないね……」


 凄まじい雨の勢いを前にそう言った佐和子に、スマホを見ながら春原が応える。


「今、天気予報見てるんですけど。この後もっとひどくなるみたいです。もうすぐ定時ですし、今のうちに帰ったほうがいいかもしれません」


 編集室に戻り、手早く帰り支度をする。玄関について、自分と春原の傘がないことに気が付く。


「うわあ、誰か持って行ったのね……まったくもう」


 前髪をぐしゃぐしゃとかきあげる佐和子を見て、春原も戸惑う。


「ど、どうしましょう」


「あ、ちょっと待ってて。アマガエルの傘があるはず」


 サンプルとしてもらった分が、まだあったはずだ。佐和子が編集室に戻れば、やはりあった。しかし残念ながら一本しかない。


「春原くん、傘一本をシェアする感じになっちゃうけど、それでもいい?」


「僕はなくても大丈夫です。葵さんが使ってください」


「ダメだよ、風邪ひいたら大変」


「でも……」


「いいから入って。あやかし用だから、大きめなの、この傘」


 玄関を出た瞬間。まるで太鼓を打ち鳴らすかのように雨が傘をうつ。大人が二人入るには少々狭いが、人間用の傘に比べれば、やはりずっと大きい。


「あ、春原くん。これね、面白い仕掛けがあって」


「え、そうなんですか」


「傘の方を見上げてて。えいっ」


 佐和子は天に向けて傘を軽く振った。すると傘の内側に波紋が広がり、玄関から門へと続く石畳、そして佐和子と春原の姿が映る、はずだった。


「あれ……?」


 アマガエルの傘が映し出したのは、石畳の上に立つ佐和子の姿だけだったのだ。隣にいる春原は影も形もない。


「どうして……」


 戸惑う佐和子を前に、春原は悲しげに微笑む。

 刹那は言っていた。人間とあやかしは映るのだと。


 ––––じゃあ、春原くんはいったい。


 咄嗟に、佐和子は春原に手を伸ばした。佐和子の顔よりも少し高い位置にある肩に触れる。しかしあるはずの肩のぬくもりは感じられず、その手は春原の体を突き抜けていく。


「春原くん、あなた……」


「触ってはダメだと言ったのに」


 背後から聞こえた声に、佐和子は振り向く。濡羽色の着物を着た永徳が、そこには立っていた。


「笹野屋さん、これって」


「まあでも、どちらにせよ時間だ。春原くん、今日までご苦労様」


「編集長、短い時間ですがお世話になりました」


 ぺこり、とお辞儀をした春原は、うっすらと透けている。


「葵さんも、ありがとうございました。おかげで、失いかけていた自分を、取り戻すことができた気がします」


 滂沱たる大雨の中で、春原の体は蛍のような淡い光を纏い、ゆっくりと消えていく。


「君は、自分はダメだと言っていたけど。うちの編集部では君の仕事ぶりが重宝された。世界は広い。君が活躍できる場所はきっとある。視野を広げて、新しいことに挑戦するといい。で、もしもまた、人間の世界で躓くようなことがあったら。また笹野屋の門を訪ねるといい。君なら大歓迎だよ」


 永徳がそう言えば、春原は少し涙ぐみ、吹っ切れたような笑顔を見せる。


「……はい!」


 その返事を最後に、春原の姿は消えた。

 何が起こっているかわからない佐和子の肩に、永徳の手が置かれる。


「春原くんは、仕事で追い詰められて、自ら命を絶とうとしたんだ」


「えっ、それってつまり」


 佐和子の脳裏に、永徳がテレビを設置した日のニュースが思い出されていた。


『本日正午、鶴見区のアパートで男性が倒れているのが発見されました。二十代と見られ、病院に搬送されましたが、意識不明の重体で……』


 ––––まさか。


「彼のことはね、鶴見川の辺りで見つけたんだ。魂だけ彷徨っていて。自分がどうなっているのか、わからない様子で」


「幽体離脱ってことですか」


「そうだね。幽霊に片足突っ込んだ魂ってとこかな」


「縁起の悪い言い方ですね……」


「でも、お医者様が頑張ってくれたみたいだね」


「ということは」


「うん。彼の魂は、体に戻って行ったよ。おや、雨が上がったね」


 そう言われて傘を閉じてみれば、雲の隙間から晴れ間が見えた。光を受けてか、うっすらと虹が出ている。


「春原くん、大丈夫でしょうか……。自殺するほど追い詰められていたなんて」


「葵さんの熱血指導の記憶が残っていれば大丈夫さ。ここでのことが夢だって思われても困るから、頃合いを見て俺もお見舞いに行くつもりだけどね」


「私も行きます」


「では一緒に行こう。さてさて、家まで送るよ」


 先ほどまで空を覆っていた雲は、すっかり切れていた。雲の合間から、桃色に染まり始めた空が見えている。


「六時なのに、空が明るいですね」


「もう夏も目の前だ」


 笹野屋邸の門扉を開ける着物の美丈夫に続き、佐和子は後ろを歩いていく。


「でも、なんで触っちゃダメだったんですか」


「だって、事情を知ったら葵さん、普通に接することができなかったでしょ」


「……まあ、たしかにそうですね」


 もしも生きるか死ぬかギリギリの瀬戸際にいる魂、と知っていたら、永徳の言うとおり構えてしまうかもしれない。


 思い返してみると、おかしなことがいくつかあった。


 彼が机ではいてしまったときも、彼の吐いたものを片付けたはずなのだが、元からそこに吐瀉物などなかったように、机の上を掃除した感覚がなかった。幽体が吐いたものだから、実体がなかったのか。


 書店やベンチで春原と話していた時、周囲の人間が怪訝な顔でこちらを見ていた。てっきり春原の体調が悪そうだったり、泣いていたりしたから見られていたのだと思ったが。あの人たちには彼の姿が見えていなかったのかもしれない。


「それに、たとえ彼が魂だと知って、君の対応が不自然にならなかったとしても……」


 永徳は続きを言おうとして、やめた。


「え、なんですか?」


「いや、やっぱりなんでもない」


 不貞腐れた子どものような顔をした永徳を不思議に思い、佐和子は問い詰める。


「気になるじゃないですか、言ってくださいよ」


「いやだよ」


 逃げるようにそそくさと道を歩いていく永徳を、佐和子は小走りで追う。


「いいじゃないですか、教えてくださいよ」


「やだ!」


「やだって、子どもじゃないんですから」


 大の大人二人が、雨あがりの道を走っていく。

 微かに遠くから、蝉の鳴き声が聞こえた。

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