第41話 おでかけ

 週末は土日とも荒れ模様。そして月曜の今日も雨だった。ジメジメとした空気が肌にまとわりつき、少し動けばじんわりと嫌な汗をかく。佐和子はハンカチで額を拭いつつ、編集室の襖を開ける。


「あら、佐和子おはよ。今日も早いわね」


「刹那ちゃんおはよう。外は蒸し暑いねえ」


「ねえねえねえねえ、ちょっと聞いてよ!」


 刹那はぐんと佐和子の方に首を伸ばし、興奮気味に話しかけてくる。


「え、なに、何があったの?」


 伸びる首に後退りつつ、佐和子は刹那に尋ねた。


「サンプルでもらった、アマガエルの傘をね。週末持って帰って圭介と使ったのよ。そしたらあれ、ちゃんと人間も映るのね。二人で紫陽花の前に立って、傘を振ったら。一面の紫陽花と、傘を覗き込む私と圭介が写って!」


「へえ、人間も映る仕様になってるんだ?」


 説明書きにそんな記述はなかった。そもそも人間が使うことを想定して作られていないからだろう。ということは、たまたま人間も映る仕組みになっていたということか。


「とってもロマンチックでよかったわあ」


 刹那の怒涛の惚気話を聞きつつ仕事の支度をしていると、編集室の襖が開く。春原が出勤してきたのだ。


「春原くん、おはよう」


「あ……おはよう、ございます」


 彼の顔はまだ青白い。目も虚で生気がなかった。

 佐和子は軽く深呼吸をすると、彼の近くまで歩いて行き、極力柔らかな笑顔を向ける。


「あのさ春原くん。今日、私とお散歩に出てみない?」


「……僕、何かまずいことをしたんでしょうか」


 萎縮し、背中を丸める春原を見て、佐和子はひどく反省した。

 新人は叩かれて当然、叩かれて伸びるもの、と、どこかで思っていた自分がいた。自分がこれまでそうだったのだから、苦しい思いをして当たり前なのだと。そうされて苦しくて、自分が病んでしまったことも忘れて。


 ––––この人、たぶん、ここにやってきた時の私と同じように、前の職場で痛い目にあったんだろうな。


 青白い肌、クマのクッキリ残った目の下、怯えたような態度。

 そのどれもが、彼が幸せな仕事人生を送ってこなかったことを現している。


 ––––自分のことでいっぱいいっぱいになって、全然気づいてあげられなかった。本当に私って視野が狭いんだなあ。


 あやかし瓦版の人手は足りている。永徳は「彼のいいところを見つけてあげて」と言っていた。


 ここでは無理をしなくていい。自分を大事にしてほしい。

 これまで自分が永徳に言われて嬉しかったことを思い出す。


 自分があやかし瓦版で働きがいを見つけたように、彼にも働く楽しみを知る機会を作ってあげたい。


「仕事には息抜きも必要なの。さあ、玄関に戻ろう」


 意味がわからない、という顔をした春原の様子を見て、佐和子は心の中で笑う。まるでデジャヴだ。きっと永徳に「デート」に連れ出された時の自分も、同じ顔をしていたのだろうと思った。



 やってきたのは、鶴見駅前の文庫堂書店。佐和子がいつも永徳に頼まれた資料を買いにくるところだ。


「春原くん、趣味とかはあるの?」


「趣味……ですか。最近はやってないんですが、学生時代は川釣りが好きで。友達とよく行ってました」


「川釣り? へえ、面白そう」


「この辺の釣り雑誌とか、よく読んでました。これもしばらく買ってませんけど」


 春原はレジャー雑誌のコーナーに置かれていた釣り雑誌を指差した。佐和子それを手に取り、パラパラとめくってみる。初心者向けの道具・仕掛け・餌の解説から、玄人むけの最新道具の紹介や、おすすめの川釣りスポットの紹介などの情報が載っていて、有名なアングラーのインタビューなどもあった。


「すごいねえ。なんだか私もやってみたくなっちゃったかも」


「……ぜひ。楽しいですよ、釣り」


 彼の声が少し和らいだ気がした。好きなものの話は、やはり心が和むらしい。


「あのさ、川天狗の頭領が過去の取材協力先にいるんだけど。彼らも釣りが趣味らしいの。今度また会う機会があるから、春原くんも一緒に……」


 隣に立っている春原に視線を移し、佐和子はしまったと思った。


「ぼ、ぼ、僕……知らない人と話すのが、怖いんです。もちろん、編集記者さんのお手伝いをするわけですから、そ、そんなこと言ってられないのは、わかってるんです。でも、どうしても……」


 震え始めた彼の顔は、みるみる青くなっていた。佐和子は雑誌を戻すと、慌てて春原を店の外へと誘導する。


「ごめん、気が早かったよね」


「いえ、葵さんは悪くないんです。僕が、ぼ、僕がしっかりしてないから……気を遣っていただいて、外に連れ出してもらったのに……ごめんなさい……ごめんなさい」


 唇をギュッと噛んでいる彼の様子は、苦しそうで。頑張りたくてもうまく頑張れない自分に絶望しているように、佐和子には見えた。


 エスカレーターの横に設置されたベンチに、佐和子は春原を誘う。血の気を失った若い男性を連れているせいか、周囲の買い物客も怪訝な顔をしてこちらを見ている。腰を下ろしてしばらくすれば、彼の顔色も少し戻ってきた。


「実はね、私も笹野屋さんに、春原くんと同じような感じで、編集部に誘われたの」


「そう、なんですか」


「うん、前の仕事で挫折して、引きこもってて。しばらく仕事をしていなかったの。で、ひょんなことから笹野屋さんと出会って、引きずられるようにしてあそこで働く羽目になって」


「引きずられるように……」


 春原は苦笑いをした。永徳に連れてこられた時のことを思い出したのだろう。


「私、すぐ焦っちゃって。変にプライドが高いところもあって、人の評価ばかり気にして働いてた。でもあやかし瓦版で働き始めて、それじゃいけないって思ったの。もっと自分を大事にしていいよって、楽しんで働くことが一番だって教えてもらった」


 佐和子は隣にいる春原の方に向き直る。


「それなのに、春原くんを追い詰めるようなことをしてしまって、本当にごめんなさい」


 頭を下げる佐和子を前に、春原は慌てた。


「いや、そんな、謝らないでください」


「一緒に、春原くんの得意なことを見つけよう。焦らなくていいの。苦手なことは後回しにしたっていい。できることを、少しずつ広げていこう」


 利益優先の企業ならば、そんなことは言ってられない。会社を維持するためには、大きくしていくためには、踏ん張らねばならない。だけどあやかし瓦版は、そういう場所ではない。


「それで……本当にいいんですか……?」


「経営者である笹野屋さんがそれでいいって言ってるんだから、いいんじゃないかな? それに春原くんの場合、まずは体調を整えるところからだね。辛くなったらすぐ言って。仕事はとりあえず、焦ってやらなくていいものを回すから。やってみたい仕事とかが出てきたら言ってね」


「……はい、ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……」


 人目も憚らず、ポロポロと泣き始めた彼に、手を差し伸べようとしてやめた。永徳との約束は守らなければならない。


 なぜ、触ってはいけないのかの理由はまだ定かではないのだが。

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