第40話 あやかしの居酒屋
永徳が佐和子を連れてきたのは、横浜駅の北口。近代的な建物が立ち並ぶ西口や東口と違い、昔から残る飲み屋街が広がっている。
「ここに、本当にあやかしが営む居酒屋があるんですか?」
「うん、ちょっと人間にはわかりづらいところにあるのだよ」
彼の右手が指し示したのは、川沿いの薄暗い横道。普段だったら絶対に入らないような薄暗く狭い路地を、永徳について入っていく。
路地に入って三歩ほど歩いた先で、景色が変わったのに気がついた。
真っ暗な空間に、ぼんやりと赤い行灯が浮かび上がる。行灯は行先に向かっていくつも連なっていた。幻想的な風景に見惚れ、佐和子は足を止め、上を見上げる。
「これ……」
「道案内の行灯だよ。これを辿った先が目的の居酒屋だ」
「はあ……。すごい」
赤い光を追って、二人は奥へと進んでいく。その先に木の引き戸が現れた。ドアには古ぼけた紙で「ハッピーアワー営業中」と書いてある。雰囲気と書いてある文字との違和感がすごいな、と思いつつも、永徳に続いて引き戸の中へと入った。
「わあ」
中は存外広かった。扉しか見えていなかったのもあって、小さなカウンターバーのような場所を想像していたのだが。中は居酒屋チェーン店のようにたくさんの個室があって、佐和子は呆気に取られた。
「予約の笹野屋だ。席は準備できてるかい」
「へい! いらっしゃいやせ、笹野屋様。青札のお部屋になります」
青札の部屋、というのは、どうやらこの店の最奥にあるらしい。顔に不思議な模様が描かれた和紙を貼り付けた店員のあとをついていけば、青いペンキで塗られた木戸が現れた。どうやら永徳が予約したのは個室のようだ。
「カウンター席もいいけど、やはり葵さんの安全を考えると個室の方がいいかなと思ってね」
「お気遣いありがとうございます……」
人間に好意的なあやかしばかりではない。実際、編集部員たちだって、初めは佐和子と関わろうとしなかった。あやかしと人では常識が違うし、棲家を追われたことで人間を恨んでいる者だっているのだと永徳から教わっている。
「ここは俺の馴染みだし、店主には話を通してあるからね。個室で襲われることはまずないよ」
永徳が開け放った木戸の向こうを見て、佐和子は言葉を失った。
想像していたよりもずっと開けた空間が広がっていたのにも驚いたのだが。季節外れの満開の大島桜が、こちらを覗き込むように豊満な花束を携えた枝を下ろしている。
牧歌的でどこか懐かしい感じのするその場所は、川沿いの道のようだ。川の両岸に聳えるどこまでも続く桜並木は、純白の花びらを風に靡かせている。
桜の下にはテーブルと椅子が置かれていて、お冷が用意されていた。
「すごい……室内のはずなのに」
「妖術で幻覚を見せているのだよ。ここまで大規模なのはこの個室だけだけどね」
ひらひらと舞い落ちる花びらに、目を奪われる。
数ヶ月前の自分は、この桜を見て泣いていた。なりたい自分になれなくて、自分は価値のない人間だと嘆いていた。
「さて、今日は何にしようかなと。苦手なものとかはあるかい?」
永徳の言葉で我に帰る。ハッとした表情をした佐和子を、永徳は優しく見つめていた。
「ええと、特に嫌いなものとかはないです。あの、おまかせしてもいいですか。笹野屋さんのおすすめを食べてみたいです」
「おや、そうかい」
佐和子は永徳に促され、席に座る。備え付けられたメニューをパラパラとめくると、永徳は紙を取り出し、注文したいものを書き込んでいく。一通り書き終えたところで、テーブルの横に設置された長筒のようなものの中へそれを投げ入れた。
たちまち筒から炎が上がり、紙が燃えてしまったかのように見えた。
「えっ、燃えちゃいましたよ?」
「大丈夫大丈夫、厨房に飛んで行っただけだから」
「へええ。あやかしの居酒屋はどこもこうなんですか?」
「いや、こういうシステムの開発をやってる会社がいくつかあって、何パターンかに分かれるかな」
「システム……」
あやかしはあやかしで経済があるとは聞いているが。「システム」だなんて言われると不思議な感じがしてしまう。
注文方法に驚いているうちに、あっという間に飲み物や食事が運ばれてくる。どこからともなく店員が現れるので、その度に佐和子は驚かされた。
永徳が注文したのは、焼き鳥の盛り合わせらしきものと、油揚げのネギ味噌焼き、果実がトッピングされたフルーツサラダ、そして。
「この飲み物、まるで夕焼けの空を切り取ったみたいですね」
「お、葵さん詩人だねえ。君の言うとおり、これは夕焼けをモチーフにしたカクテルでね。『黄昏』っていうんだ。この店で一番人気のお酒だよ」
底がくびれたグラスには、紫色からオレンジ色へと変化する美しいグラデーションができていた。炭酸が入っているようで、シュワシュワと音を立てている。夕暮れを泳ぐ小さな泡が、このカクテルの美しさをさらに引き立たせていた。
「思ったより奇抜なものが出てこなくて、ちょっとホッとしました」
「ああ、まあ、そういう店を選んでいるから」
「えっ、そうなんですか」
「人肉を食す種族だっているからね。鬼とか」
鬼、と聞いて椿の顔が浮かんだ。そういえばあれから音沙汰ないが、どうしたのだろうか。永徳が「処理しておいた」と軽く言っていたのが逆に怖くて、彼女のその後のことを聞けていないのだが。
佐和子の顔が引き攣ったのを見てか、永徳はしまったとばかりにフォローを入れる。
「現代の大半のあやかしは人間とそう食べるものが変わらない。ただ、あやかしが育てている食物には妖力が宿っているという点で違うかもしれないけど。この油揚げとかね、妖狐の一族が作っているんだよ。彼らは油揚げが大好きだからね、こだわりを持って作ってて。特に狐印の油揚げは絶品だ」
よく見れば、油揚げには「狐」と焼き印がされている。勧められるままに一口齧れば、大豆の旨みが凝縮されたような、ジュワッと広がる旨みに思わず口元がほころぶ。サクサクとした食感も楽しい。
「とっても美味しいです……!」
「そうだろう?」
美味しいお酒と食事に、凝り固まり始めていた佐和子の心がふっと和らいだ。こうして誰かと二人きりでお酒を飲むというのは、いつぶりだったろうか。
––––最後に飲んだのは、山吹くんだったな、そういえば。
彼とお酒を飲んだ時は、味がしなかった。明るく調子のいい彼の会話に乗って、頷くのが精一杯で。だけど今は。
永徳と二人で過ごしていると、落ち着く。気づけば軽口を受け流しながら、彼の会話を楽しんでいる自分がいる。これまで男性と過ごしていて、こんなふうに感じられたことがあっただろうか。
「葵さん、大丈夫? 飲ませ過ぎてしまったかな?」
「あ、いえいえ、大丈夫です」
いつの間にか頬が真っ赤に染まっていたらしい。心配げな青い瞳を極力見ないようにしながら。佐和子は話題を変えようと永徳に言葉を返す。
「あの、笹野屋さん。仕事の話で恐縮なのですが」
「なんだい」
お酒の席で話していいものか迷ったが、職場では言い出せない気がして。酔いに任せて口にしてみる。
「春原くんの指導役、下ろしてもらえませんでしょうか」
「どうして?」
子どものようにきょとんとした表情の永徳に顔を覗かれ、怯む。
「私では力不足です」
「そうかなあ」
うーん、と永徳は首を捻る。
「ねえ、葵さん」
「なんでしょう」
「君、これから一週間マラソンの練習をしたとしてさ」
「え」
「一週間後、陸上選手とマラソンで戦って、勝てる?」
「勝てるわけないじゃないですか、なんのたとえですか」
「ああ……例が悪かったか。じゃあさ、たとえば小学校で、一学級全員に百点満点を取らせることはできると思う? 全教科」
「それは、無理じゃないでしょうか。人には得て不得手がありますし」
「葵さんは何が得意だった?」
「国語は得意でした。本を読むのが好きでしたし。算数は苦手でしたね」
「当時、同じクラスの算数トップの子にテストで勝てって言われたら、どう?」
「……無理でしょうね。どうひっくり返っても無理です」
「それを、春原くんに当てはめて考えてごらん」
「え」
とっぴなたとえから始まったので、春原の話題から離れてしまったのかと思っていたが。どうやら話の続きだったらしい。佐和子はこれまでの永徳の言葉を反芻し、真意を探る。
「それは、どういうことでしょう?」
「葵さんはねえ、自分ではそう思ってないかもしれないけど。とっても優秀なんだ。あやかしの世界に飛び込んできているという点で、チャレンジは多いかもしれないけど。人間の編集部員としては、とっても優秀。覚えが早くて仕事も早い」
「そうでしょうか……」
正面から向き合って褒められると照れくさい。ムズムズとした気持ちになってしまう。
「だからね、葵さんが一週間でできたことが、春原くんも一週間でできるとは限らない。君の言うとおり、人には得手不得手がある」
「あ……」
「葵さんは自分を過小評価しすぎるきらいがある。結果として、他人にも無意識に高いハードルを強いていることに気がついたほうがいい。彼には彼の良さがあるはずだから」
包み込むような優しい表情で、頬杖をつきながら永徳はそう言った。桜吹雪が、彼の後ろで舞っている。暖かい風が、佐和子の頬を撫でた。
「君は、もっと自分に優しくなりなさい」
袋小路に迷い込んでいた心が、一気に大通りに解放されたようだった。この人の言葉は、不思議だ。どんなに困ったことがあっても、この人の隣にいると、乗り越えられる気がしてしまう。
「とにかく春原くんのことは、即戦力として考えなくていい。何か彼が得意なことを一緒に探してあげて。あやかし瓦版は『地主の道楽事業』だ。うちの職場で一番大切なのは、利益を出すことじゃなくて、社員が幸せに働き、あやかしの現代での幸せを助けること。それを忘れずに」
「……わかりました、頑張ります」
「ほら、もう力んでる。リラックスリラックス。さあ、飲もう!」
「はい、飲みます!」
グラス同士がぶつかる小気味いい音が響く。黄昏の味は、甘くてまろやかで。爽やかな柑橘系の香りが、永徳に似ていると佐和子は思った。
*
勢いに任せてどんどん「黄昏」を煽った佐和子は、すっかり眠たくなってしまったようで。帰り際は永徳に抱えられるようにして店を出た。
「あのさ葵さん、君弱いんだから俺と同じペースで飲んじゃだめだよ。いや、飲ませた俺も悪いんだけど」
嗜めるようにそう言う永徳の言葉は、佐和子には届かなかった。半分夢現のまま、むにゃむにゃと何か言っている。
「笹野屋さん」
「なんだい」
「私、笹野屋さんと出会えてよかったです」
そう言って微笑んだのを最後に、佐和子は眠りの底へ落ちていく。体から力が抜け、ずしりと重くなった。
いつも真顔か眉間に皺を寄せていることの多い佐和子が見せた、油断しきった笑顔に、永徳はその場で固まった。しかしここは人通りが多い。いつまでも止まってはいられない。
永徳は朱に染まった頬を隠すように、山高帽を目深に被り直し。佐和子を背負って横浜駅前の雑踏の中を歩きながら、深いため息をつく。
「すごい殺し文句だなあ、まったく」
和服姿で青眼の永徳は非常に目立つ。佐和子を背負ったまま、術を使えそうな薄暗い通りの方に向かえば、たちまち警察のお縄になりかねない。
永徳は人間らしく、タクシーを使うことにした。
「このまま真っ直ぐ家に送る俺を、誰か褒めて欲しい」
大通りで片手をあげながら、永徳は燻る熱を持て余していた。
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