終章 私が働く意義
第29話 暗転
「はあー、今日もいい香りがしてきたわね。焼き鮭と、この香りは肉じゃがもあるかしら。あぁ、お腹すいた」
「私、米村さんを手伝ってくる」
「佐和子は律儀ねえ。席で待ってればいいのに」
刹那の言葉を背中に受けながら、佐和子は編集室の襖をあけて台所へ向かう。
正直を言えば、落ち着かなかったのだ。
これまで仕事を覚えるのに必死で、「嫁候補」という肩書きについてろくに考えもしてこなかった。永徳が冗談めかして言っているのもあって、真面目に受け取っていなかったというのもある。
昨日のことがあって、変な方向へ意識が働いてしまった。
だが、永徳は昼には編集室へやってくる。
––––どんな顔をして会ったらいいのか、全然わからなくなっちゃった。
一人で百面相をしているうち、台所の前についた。
手際よく配膳の準備を進めている米村の背中に、佐和子は声をかける。
「米村さん、配膳お手伝いします」
「毎度お気遣いいただきありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
「いえいえ、二人でやった方が早いですから」
米村はおかずのたっぷり入った大ぶりの保存容器を乗せた木製の配膳車を、あやかしたちの待つ編集室へと押していく。佐和子は漆の大きなお盆を棚から取り出し、その上に載せられるだけの食器を置き、米村のうしろへと続いた。
あやかし瓦版では福利厚生の一環として昼食が提供されている。昼十二時には編集室の壁際に食事が並べられるので、あやかしたちは自分でそこから食事をよそい、自席や編集室内に設置されたテーブルセット、または縁側などで食事をしているのだ。
襖の前にやってきたところで、黒いリボンがかけられた大きな赤い箱を抱えたマイケルと遭遇した。
「あ、葵さん、鬼灯堂から葵さん宛にお荷物です」
「荷物? 鬼灯堂さんから?」
「はい、椿さんからですね。品目は……ギフト、としか書いていませんねえ。なんでしょう? あれっ」
黒いリボンが、ひとりでに解け出す。
スルスルと勢いよく解けていくリボンは、床に落ち、赤い蓋が開かれる。
箱に入っていたのは、蝶を模ったガラス製の香水瓶だった。
中には赤黒い液体が入っている。
「サンプルでも……くれたのかな……?」
おそるおそる箱の中を覗き込むと、まるで生きているかのようにガラスの蝶がはためく。その瞬間、慌てて玄関の方の廊下から飛び出してきた永徳の姿が視界に入った。
「葵さん、その瓶から離れて!」
「え」
永徳の指先が触れる間際、ガラスの瓶が勢いよく割れ、赤い中身が佐和子に向かって降りかかった。
食器をのせた漆の盆が佐和子の手を離れ、お椀や箸などが周囲に勢いよく転がる。咄嗟に顔を覆った佐和子の腕には、赤い液体が降りかかり、袖に濡れた感触が広がった。
鉄臭い匂いに顔を顰め、まじまじと袖を見て佐和子は唖然とした––––これは、血液だ。
瞬間、勢いよく床に叩きつけられ、背中に鋭い痛みが走る。
––––なに……? なにが起きたの?
目の前には額に血管を浮き立たせ、血走った目を大きく見開き、永徳の腕に牙を立てるマイケルの姿があった。
肩を上下させるような荒い息遣いで、完全に正気を失い、獣のような唸り声をあげている。
「ひ……うわ……さ、笹野屋さん……」
佐和子に向かって彼が飛びかかってきた瞬間、永徳が佐和子との間に割って入ったのだ。おかげで、噛みつかれずに済んだようだ。
ギリギリと腕にねじ込まれる牙の痛みに、永徳は額を歪ませる。
吸血されているためか、血液は漏れ出てこない。
「さすが若いだけあって、なかなか力が強いね」
噛みつかれた状態のまま、もう一方の手で永徳はマイケルの顔面を掴んだ。すると気を失ったのか、マイケルの体からは力がぬけ、ずるずると床に倒れ込む。なにか術を使ったのかもしれない。
「椿め。タチの悪い悪戯をしてくれた。葵さん、大丈夫かい? ごめんね。不穏な気配を感じたからとんできたんだけど、少々遅かったようだ。マイケルにも悪いことをした。本来は生き血を吸う習性のあるあやかしが、個人的な趣味で禁血しているわけだからね。突然血まみれの人間が現れたんで、我慢がきかなかったんだろう」
「いえ、私は……」
大丈夫です、そう言おうとしたのに、言葉が出なかった。
これまであやかしと働いてきて、驚くことは多かったが、佐和子個人に対して悪意を向けられたことはなかった。真正面から襲われてはじめて、自分は人外の生き物たちと仕事をしているのだと、ようやく認識できた気がする。
「怖かっただろう」
頭に優しくのせられた永徳の手に、気が緩んだのか涙が溢れた。
「あ……」
カクカクと震え始めた佐和子の唇に、涙の雫が落ちる。
怖かった。
どんなに打ち解けていても。仲間だとわかっていても。
たった今感じた「怖い」という感情を、拭うことはできなかった。
「今日は家に帰ったほうがいい。一度血の味を思い出してしまったら、少なくとも一週間は人間と一緒に居させない方がいいから……とにかく今は、この場を離れていてほしい」
「わかり……ました……」
震えが止まらない唇からは、そのひと言を絞り出すのがやっとだった。
外はまだ明るかった。目の前で起こった出来事を、まだ脳が処理しきれないようで、佐和子の頭はぼうっとしている。
気まずい雰囲気のまま、永徳は佐和子の背を支えるようにして、家までの帰り道を歩いていた。
「背中は痛くないかい。打っていたようだけど」
「今のところは大丈夫です。少し、痛いですけど」
「怪我や病気を治す術は持ち合わせていなくてね。すまない」
「笹野屋さんが謝ることはなにもありません」
永徳はそう言われて、口をつぐんだ。しばらくの沈黙ののち、永徳は佐和子に声をかけた。
「葵さん」
「なんでしょうか」
彼は佐和子の方には目を向けず、正面を見たまま、自分にも言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
「出会ったばかりのころ、君は自信を失っていて、今にも消えてしまいそうだった」
「……そうでしたね」
「でもひとつひとつ壁を乗り越えて、人間ながら、あやかしの世界で活躍していったね」
「活躍……までは言い過ぎです。笹野屋さんが手を貸してくださらなかったら、私はきっと、ずっとダメなままでしたし……」
「俺はヒントを与えただけだよ」
「そうでしょうか」
「君はそのヒントを見逃さず、自分の力でゴールを見つけた。立派にひとりの社員として、仕事をできるようになった」
「……そういうふうに言っていただけて、嬉しいです」
「葵さん、君はそろそろ、人間の社会に戻ってもやっていけるんじゃないかい?」
「え」
歩みを止め、佐和子は永徳の顔を見上げた。
まさか永徳から、そんなことを言われるとは思っていなくて。あやかし瓦版の編集部員としての実質上の戦力外通告を受けたようで、ショックだった。
––––「人間としての視点を活かしてほしい」って言っていたのに。私の頑張りでは、やっぱり力不足だったんですか?
「私が今いなくなっても、問題ないってことですか」
思わず、反抗するような態度をとってしまった。一瞬後悔したが、出てしまった言葉は引っ込めることができない。
「会社っていうのはさ、誰かがいなくなっても回るようにできていないといけないんだ。それにほら、うちのあやかし瓦版は、地主の道楽みたいな事業なわけだから」
編集部の一員として、力になれているような気になっていた自分の、横面を引っ叩かれたみたいな気分だった。
自惚れるなと。お前の代わりなんて、いくらでもいるんだと。
『君が辞めたら困る』
いつか、自分の今後について相談する時が来た時。佐和子は、永徳にそう言ってもらえることを心のどこかで期待していた。
自分が頑張った成果を認めてもらって、引き止められることを。
「……実は、昔の友人から、うちの会社に来ないかって、言われているんですけど」
––––ねえ、笹野屋さん。引き止めて下さいよ。
「そうか」
「でも……」
「やってみたい仕事なのかい?」
「興味は、ある仕事……ではあります」
––––私は、あやかし瓦版の、かけがえのないひとりにはなれませんか。
「うちは大丈夫だから。ちょうど一週間あるわけだし、その期間で考えてみたら」
「引き止めて、くれないんですか」
駄々っ子みたいな、振り向いてくれない異性を振り向かそうと必死になっているような、嫌な言い方だと思った。だけど居た堪れなくて、もどかしくて、佐和子は口にしてしまった。
––––だって、あなたが私を誘ったんじゃないですか。あんなふうに無理やり。嫁候補だとか、大事な社員だとか言いながら、あなたが私を求めてくれたから。そのおかげで、ようやく光を見出せてきたのに。どうして今、そんなふうに、突き放そうとするんですか。
佐和子は心の中でそう叫んだ。
しかし永徳の口から出てきたのは、佐和子が求めていた言葉ではなかった。
「葵さんの進む道は、俺が決めることじゃない。君の人生だ。君の仕事は、君が決めなさい」
いつもの穏やかで優しい声の調子とは違う、温度のない声だった。
「……そうですね」
––––どうしよう。
「おっしゃる通りだと思います」
––––泣きそうだ。
「……家が見えたね。俺は戻るよ。もし、辞めるのであれば、特に連絡はしなくていい。根付をポストに返しておいておくれ」
藍色の羽織は、あっという間に遠ざかっていってしまった。
取り残された佐和子は、しばし呆然と、笹野屋永徳が消えていった方向を見つめていた。
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