第30話 巣立ち

「ねえ佐和子、正社員の仕事は見つかったの」


「……まだ」


 葵家の十畳のリビングダイニングには、重苦しい空気が立ち込めていた。


「お父さんの知り合いの会社で、事務員を採用してるみたいなんだけど。受けてみるか?」


「……いい」


 あやかし瓦版での仕事が落ち着いてきて以降も、両親に「正社員」として働いている話はしていなかった。


 雇用契約書を見る限り、「株式会社笹野屋」という名称で登記はされているようで、法律上佐和子はそこに雇われていることになっているようなのだが。オンラインニュースの編集記者という職業の性格上、人間社会のネット上に存在しない実績を実績として名乗ることはできない。


 家族に話すにも、うまく説明できる気がしなくて、佐和子は「アルバイトをしている」と嘘をつき続けていた。


「バイトは熱心に通っているようだし、そろそろ正社員の仕事を探してみるのもいいんじゃない」


「ごちそうさまでした」


「ちょっと、佐和子」


 母の言葉を振り切るようにして、佐和子は階段を駆け上がった。自室の戸を閉めると、そのままベッドにダイブする。


「私が決めること、か……」


 いい歳して親の脛を齧って、世間には言えない仕事をしている。人間の社会で話せるような実績は積めない。


 あやかし瓦版に勤めている自分の状況を振り返れば、このままではいけないような気もする。少なくとも、世間一般で考えれば。


 それに今回はことなきを得たが、編集部員に悪いあやかしがいなかったとしても、取材先や仕事相手先によっては、同じように危ない目に遭わされるかもしれない。


 もしあのままの勢いで噛みつかれて、血を抜かれていたら?


 佐和子は自我を失って襲いかかってくるマイケルの顔を思い出し、ゾッとした。


 ––––もしかしたら、いいきっかけだったのかもしれない。きっとあのままなにも起きなかったら、私はあの場所から抜け出せなくなっていた。


 返信しそびれていた山吹のメッセージを開き、文字を打っていく。


 躊躇しながら、たまに立ち止まりながら。

 なんとか返信を打ち終えて、送信ボタンをタップする。


 –––––これで、いいんだ。


 佐和子が山吹に返したメッセージには、すぐに既読がついた。


 



 朝露の光る庭の植木が、微かに揺れる。

 地鳴りのような声の主が、玄関口で大声で家主を呼んでいるのだ。


 伝書ガラスや郵便配達などは通すが、約束のないもの、笹野屋家の人間から渡された品物を持たない人やあやかしは、結界に阻まれてこの屋敷の姿さえ見ることはできない。


 多摩の川天狗、黒羽は、屋敷があるはずの林に向かって仁王立ちをしていた。

 いつも通り白い山伏装束を着て、朱塗りの天狗の面をつけたまま、ジリジリと姿の見えぬ家主に向かって怒りを溜めている。


「ここで間違いはないのだな」


 自分の肩にとまる伝書ガラスに向かって、黒羽は問うた。カラスには屋敷の姿が見えているようで、コクコクと頭を上下に降って返答している。


「笹野屋永徳殿。手土産を持って参った。門を開けてくれぬか。いくら大魔王のご子息といえど、客人を無視するのはいささかやりすぎではないのか!」


 あたりに地響きをさせながらそう怒鳴る黒羽の迫力に押されるように、林だった景色が屋敷の外塀に変わる。目の前に現れた重厚な門扉が、音を立てながら開いた。門の近くには誰の姿も見えないが、どうやら入れということらしい。


「出迎えもなしとは。まあいい。玄関はあちらだな」


 大股でのしのしと建物の入り口に向かった黒羽は、玄関で立ち止まり、ふたたび叫ぶ。


「笹野屋永徳殿! いらっしゃるか!」


「……朝から元気だねえ。もうちょっと静かにはできないのかい? まだ十時前だよ」


 眠気の残ったような顔で、廊下の奥から家主が顔をだす。黒羽を待たせたことなど一ミリも悪く思っていないようだ。


「もう十時前だ。朝ではない。久方ぶりであるな。ようやくお出ましか」


「ひさしぶりって言っても、そんなにたってないけどねえ」


「佐和子はいるか。顔を見にいくと言ったはいいものの、こちらも代替わりでバタバタしていて、遅くなってしまった」


「ああ、そういえば川天狗の頭領になったんだって? 風の噂で聞いたよ。おめでとう」


「で、佐和子はいるか」


「相変わらず人の話を聞かないね、君は」


 苦笑いをしながらそう言った永徳は、寝癖の残った頭を掻いた。


「あの子は辞めたよ。もうここにはいない」


「なんだと」


 黒羽は今にも胸ぐらを掴む勢いだったが、永徳が不快感をあらわにすると、手を引っ込めた。


 あやかしとしての位で言えば、川天狗の頭領は大魔王の子息の足元にも及ばない。永徳は上下関係を嫌うので、黒羽が多少失礼な態度を取っても意にも介さないが、時代が時代であれば粛清されてもおかしくはないのだ。


「元々、リハビリに来させていたようなものなんだ。人間の社会へ戻ったんだよ」


 永徳がそう話すと、黒羽は納得がいかないとばかりに質問を投げかけてくる。


「人間の社会へ戻ったのはいいとして、嫁候補ではなかったのか。仕事は辞めても、結婚はできるのではないか」


「ちょっとした事件があってね。怖い思いをさせてしまった。もうあやかしに近づきたいだなんて、思わないだろう」


 黒羽は仮面の下で片眉を上げた。


「襲われたのか」


「まあね」


「無事なのか」


「怪我はせずに済んだ」


 黒羽は永徳の袖の下からわずかに覗く包帯を見て、鼻を鳴らした。


「河童の相撲の時もそうだが、貴殿はぬるい。か弱い人間の女を本気で嫁に迎えるつもりだったなら、もっと配慮するべきだ。護衛のひとりもつけずに仕事をさせるとは」


「河童の相撲?」


 予期せぬ言葉だったのか、永徳は眉を寄せる。


「気がつかなかったのか、鬼の女が付き纏っていたぞ。あの河童をけしかけたのも鬼の仕業であっただろう」


「……椿か。はあ、迂闊うかつだった。結構前から目をつけられていたんだね、葵さんは」


「さっさと嫁にしてしまえば良いものを……中途半端にしておくからそういう輩が湧くのだ。正式に嫁ともなれば、手を出せるあやかしは限られる」


「俺はね、彼女の気持ちを尊重したいんだよ」


「貴殿はそれでいいのか」


「いいんだよ」


「では、我が嫁に攫っても問題ないな」


「……それは困るね」


 それまで穏やかな顔つきだった永徳の表情が、一気に怜悧なものへと変わる。威嚇ではなく、少しでもおかしな行動をすれば、息の根を止めにかかられるような凄まじい気迫を前に、黒羽は冷や汗を垂らす。


「……貴殿と殺し合ってまで奪おうとは思っていない。まあ、しばらく様子を見るとしよう。今が接触するにまずい時期であることは理解した。また折を見て尋ねることにしよう」


「彼女の人生を邪魔するような真似だけはやめておくれよ」


 溢れ出ていた攻撃的な気を引っ込め、念を押すようにそれだけ言うと、永徳は黒羽に背を向けて屋敷の奥へと消えていった。



 ⌘



「一週間経っても戻ってこないと思ったら! 辞めたってどういうことですか!」


 編集室中に響き渡るような刹那の凄まじい大声に、永徳は耳を塞ぐ。


「刹那、首を間近に持ってくるのはやめておくれ。鼓膜が破れそうだ」


 嵐のような黒羽の来訪ののち、笹野屋永徳は用事のため出かけていた。

 しかし今度は外出先から戻ってきて早々、刹那に袖を掴まれ、自席に座らされ、尋問を受けている。


「だって! まさかクビにしたんですか? あんなに頑張っていたのに」


「自分のせいでしょうか? 自分が、血の匂いに当てられて、噛みつこうとしたから……」


 涙目のマイケルを小鬼の双子が慰める。


「あれはマイケルのせいじゃなくて椿が悪いんだろ? あの女はよぉ、ここにいた頃からトラブルメーカーだったからなぁ。編集長に近づく女にはひと通り嫌がらせしてたし」


 赤司がそう言うのに続けて、蒼司が頷く。


「佐和子は人間だからな。椿にしたら嫌がらせのつもりでも、命に関わるからなぁ」


「ほんっとムカつくわ! あのクソ女。編集長! 抗議はしたんでしょうねえ、鬼灯堂に」


 刹那にジリジリと詰め寄られ、両手を顔の前に上げ、仰け反りながら永徳は答える。


「ちょうど今鬼灯堂から戻ってきたところなんだよ。でもあの荷物を発送した当日に、彼女、会社を辞めてるらしい。鬼灯堂も晴天の霹靂へきれきだったようで、今回の件については丁寧にお詫びをされたよ」


「……ってことは。『人間風メイク』の企画自体が佐和子に嫌がらせするための口実だった可能性が高いわね……。ほんと、編集長も厄介な女に好かれたもんね」


「まったくだ」


 困ったような笑みを浮かべる永徳をまじまじと見て、刹那はさらにくってかかる。


「でもっ! それと佐和子の退職は別よ。どうして引き留めなかったのよ!」


「さあ、そろそろ仕事をしないと。今日は予定がいっぱい入ってるからねえ」


「編集長!」


 襖を通り、逃げるように廊下に歩いていく永徳の背中を、刹那は追おうとする。


「おいおい、やめとけよ刹那。寂しいけど、編集長は去るもの追わずだろ。これまで椿がこういう事件を起こしても、仲裁はすれどどっちかに肩入れすることはなかったし」


 蒼司はそう刹那を引き留めたが、彼女は俯いたかと思うと、眉間に皺を寄せた。


「……怒ってる」


「え?」


「珍しく編集長怒ってるわ。アタシ長く勤めてるからわかるの。あの人静かに怒るタイプなのよね。あの女ついに鉄槌が下るわよ」


 それだけ言うと、刹那は蒼司の手を振り切って、襖の向こうに向かった永徳の背を追った。



 永徳はひとり、縁側で佇んでいた。

 刹那は意を決して、彼の背中に極力穏やか口調を心がけながら声をかける。


「ねえ、編集長。きっと佐和子は、引き止めてもらいたかったと思うわよ」


 冷たい風が縁側を抜けた。ここ数日は、また早春の寒さがぶり返しているようだった。


「……いい機会だと思ったんだ、今回の椿の嫌がらせは」


「え?」


「彼女はいつも他人の評価を気にして生きていたから」


 思っていたのとは明後日の方向の返答に、刹那は戸惑った顔をする。


「『実績を残して認めてもらいたい』。彼女はいつもそう言っていた。それも仕事のモチベーションとしてはいいと思うけどね。それが働く目的になってしまうのは良くない。他人に働き甲斐を委ねることになってしまうからね」


 刹那は目を見開き、唇に指をあてしばらく逡巡したのち。永徳の意図を確かめるように尋ねた。


「もしかして編集長、わざと突き放したんですか。佐和子を。自分が本当にやりたいことがなにかを、改めて考えさせるために」


 刹那の言葉に具体的な返答はなかったが、永徳の次の言葉を聞いて、刹那はそれを肯定ととった。


「俺はね、人生の岐路に立った時、考えるべきは『自分がなにをしたいか』だと思うんだ。認めてもらうとかは、自分がやりたいことを楽しんでやった先で、おまけとしてついてくるものだ。彼女は今、それを理解するべき時なんだ」


 永徳は、平静を装ったような声で続ける。 


「彼女が悩んだ結果選んだ仕事が、人間社会の仕事なんなら、俺たちの関係はそれまでだよ」


 彼は刹那の方を振り向かない。しかし柳色の羽織の背には、どことない寂しさが宿っていた。


「編集長は優しいわよね。相手のことばっかり考えて、いっつも貧乏籤を引いて。ねえでも、編集長自身の気持ちはどうなんですか。好きなんですよね、佐和子のこと」


 大きく深呼吸をして、永徳は伸びをした。相変わらず刹那に背を向けたまま。


「……葵さんが幸せなら、それでいいんだよ」


「いくじなし」


「手厳しいなあ」


 クックと笑いながら、永徳はようやく振り向いた。

 その表情は、飄々としたいつもの笑顔だった。

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